pattern

【pattern】規則的に繰り返される様式、形式、模様。
※ハッピー異界設定

「おや、雨だね」
「おー、けっこう降ってんな」
 窓際でチェスに興じていた友人たちの声に、アーロンは顔を上げた。
 暮れる日を追うように雨が降り出した。友達と遊んでくると言って出かけたティーダに傘を持たせなかったことに気づいたアーロンは、溜息をひとつ吐いて手にしていた本を閉じる。
「アーロン、今日のメシは?」
「鍋だ」
「いいねえ」
 片手に白い駒を弄ぶブラスカが破顔した。その向かいのジェクトは、こちらは渋い顔で盤を睨んでいる。この手の遊びにかけてはブラスカに敵うものはないのだが、ブリッツの王は諦めが悪い。
 立ち上がったアーロンは、しかしキッチンに向かう訳ではない。鍋の準備など大したことではない、帰ってきたティーダを風呂に入れてからで充分だろう。酒を呑む連中(自分も含めてだが)のための肴は、昼のうちに用意してある。所帯じみたことだと自分に可笑しくなるが、決して悪い気はしなかった。
 キッチンを抜けてバスルームに入る。あたたかな弾力のタオルが棚にきちんと並んでいた。バスタオルとフェイスタオルを何枚かずつ。納戸から雑巾を取って、玄関にティーダを迎える準備を整える。

 ブリッツがオフシーズンを迎えて、退屈を持て余したらしいジェクトが三泊四日の小旅行を提案してきた。キング・オブ・ブリッツと呼ばれる男だからどんなリゾート地に連れて行くつもりかと思ったら、どちらかといえば「鄙びた」という表現の似合う海辺の小村だという。この男はアーロンやブラスカが思うより枯れた趣味をしていた。豪奢で賑やかな遊びは、若い頃にとうにやり尽くしたのだろう。
 どこかビサイド島に似た雰囲気の画像を見て、ブラスカが重い腰を上げた。放っておけばいつまででも書斎にこもるこの男を見かねていた彼の妻は、それなら男同士、水入らずで楽しんでいらっしゃいと嬉しそうだった。彼女は彼女で友達づきあいもあるという。お互い羽を伸ばしましょうね、とブラスカの肩を突いた彼女の笑顔は、なるほどこの人は確かにユウナの母親なのだと思わせる茶目っ気に満ちていた。
 話を聞かされたティーダも目を輝かせた。なんでも、子供のころの友人がその村に移り住んでいるのだという。三人が乗り気ならばアーロンに否はなかった。

「さあどうぞ、ジェクト」
「いやオイ、待てブラスカ」
「ふふ、待ったは無しだよ」
「そこに置くかよ……」
「おや、降参かい?」
「舐めんな、ちっと考えさせろ」
 まだ詰んでねえ、と呻くようなジェクトの声に、ブラスカの鼻歌が重なる。さやさやと藪を掻き分けるような雨音、それは嘘のように平和な光景だった。
 四人が四人とも、胸中に傷を抱えている。いつまで経ってもかさぶたにすらならず、じゅくじゅくと膿んだままの記憶にうなされる夜がある。割り切ることは出来ない。
 友を犠牲にして、幼い娘を独り遺して、死の螺旋を繋げてしまったブラスカ。
 世界から引き離され、その身を獣に堕とし、死の衝動と孤独に戦い続けたジェクト。
 彼らに取り残され、死人のまま時を待ち続け、託されたいとし子を円環の終わりに叩き落としたアーロン。
 そして。
(……まだ、か)
 表を駆けて行った足音は、待ち人のものにしてはいささか鈍重すぎた。支度の済んだ玄関で、アーロンは少年を待つ。来たるべき時を待つ十年の間、常に傍らに在った、軽やかに飛び回るプリズム光のような少年を。
 ――ティーダをこうして待つことができるのは、アーロンだけだ。
 異界に来てからというもの、大人たちはティーダを溺愛した。猫可愛がりという表現ですらまだ足りない。ブラスカは、愛娘の未来を繋げてくれた恩は返しきれないと、その妻と揃ってどろどろに甘やかすし、あの不器用で意地っ張りのジェクトも、何かと理由をつけてティーダを連れ回す。二人がボールを手に海に行ったら、もう日が暮れるまで帰ってこない。蜂蜜漬けの上に砂糖をかけたような生活は、少なからずティーダを慰めたようだ。
 彼らに比べれば、アーロンの態度はあっさりしたものに見えるかもしれない。だがそれはあくまでも表層的な話だ。その証拠に、自分はこうして彼を待っている。こんな雨の日に、彼がどんな姿で帰ってくるかを、知っているから。
 玄関脇の窓枠に腰を預けて、雨音に耳を澄ます。ほどなくして、ぱしゃぱしゃと軽快に水を蹴る音が近づいてきた。まっすぐは進んでいない、雨粒を相手に踊ってでもいるようだ。意図せず口許が緩む。やがて、ドアノブが静かに下がった。
「……おかえり」
「アーロン、」
 見た目よりも柔らかな髪が、ぽたぽた滴る雫に引かれてぺしゃりと潰れている。ずぶ濡れのティーダは、静かな微笑で待ち構えるアーロンを認めると目を瞠り、それからはにかんで笑った。
「ただいま」

「しっかし、何であんなんなるまで帰って来ねえかな」
 玄関先でタオル責めに遭ったティーダは、そのままアーロンに抱えられて風呂場に放り込まれた。シャワーの水音と窓の外の雨音が重なる。
 ゲームは今回もブラスカの勝ちに終わったらしい。敗者の義務としてチェス盤を片付けたジェクトは、さっそくビールを開けながら風呂場に目をやった。その視線は、言葉通りの疑問と、それから隠しきれない愛情がないまぜになっている。仕方ねえおぼっちゃんだな、と今にも言い出しそうだ。
 早々に勝利の一杯を干したブラスカは、キッチンに立つアーロンの隣に立つ。手伝いを申し出ている訳ではもちろんなく、盛り付けられる肴を狙っているだけだ。
「水に触れるのが心地いいんだろうね、きみもそうじゃないのかいジェクト」
「海ならともかく、雨はなぁ」
 火にかけた鍋はくつくつと煮立ち、滋味深い香りを振りまき始めた。ティーダが出てくる頃にはちょうど食べごろだ。
「アーロンちゃんよぉ、」
「何だ、暇なら食器を出せ」
 空き缶を片手に寄ってきたジェクトに指示を出すと、一瞬むっとして、それでも食器棚に手をかけた。つまみの皿を手に居間に戻っていったブラスカは、スモークハムを行儀悪く手で摘んでご満悦だ。
 何か言いたそうなジェクトの視線を背に受けながら、すぐに火の通る葉物野菜を鍋に載せる。ありものを適当に放り込んだだけで見た目は素っ気ないが、そういうものが今日には相応しい気がしていた。
 いつの間にかシャワーが止まっていた。ティーダはじきに顔を出すだろう。その目の前で鍋の蓋を開けてやれば、きっと目を輝かせて、うまそう、と感嘆してくれるはずだ。
「……お前さ、知ってたんだろ」
 出し抜けに問うジェクトに目線だけを投げる。深紅と鳶色が空中で一瞬の火花を散らすのを、ブラスカが微笑しながら見ていた。
「あいつが絶対にずぶ濡れで帰ってくるって」
 返事がないのが回答だ。
 ティーダの行動パターンを予測することなど、アーロンには造作もない。寄り道が好きで、予告していた帰宅時間からほんの少し遅れること。よく晴れた朝は二度寝を堪能すること。路地裏を見つけると必ず覗き込むこと。待ち合わせには早めに着いていること。それから、雨の日は傘をささずに水たまりでステップを踏むのが好きなこと。どれもこれも、全て二人で過ごした十年間の収穫だった。
 わずかに口角を吊り上げたアーロンに、ジェクトはこれ見よがしな溜め息を吐いた。
「ずりーよ、お前」
「何のことか分からんな」
「何でも分かってますってツラしてるくせによ」
 ああやだやだ、とそれでも冗談めかして居間に戻るジェクトの背を眺める。その向こうのブラスカと目が合うと、かつての大召喚士は笑みを深くした。
「拗ねたって仕方ないだろうジェクト」
「分かってらあ」
 へん、とそっぽを向いてグラスを傾けるジェクトに、アーロンはひとつだけ教えてやることにした。
「あいつが出てきたら、第一声は『腹減った』だ」
「チクショウ、もうちょっと深いやつねえのかよ」
「それはこれから自分で見つけるんだな」
「その方が楽しかろうね、私も探してみようか」
「くっそ、今に見てろよアーロン、吠え面かかせてやる」
 負けず嫌いの彼らしい台詞と同時に、風呂場の扉が開く。はらへったぁ、と言ういとし子に、大人たちは揃って笑い声を上げた。