legend

【legend】伝説、逸話。伝説的人物、偉人。

 思えば、あの時早々に死んだのは、ある意味では正解だったのかもしれない。
 主と友の犬死。憤怒の命じるままにガガゼトを越え、崩壊したザナルカンドを駆け抜け、再び相見えたユウナレスカは虫ケラを見る目でアーロンを嘲笑った。一太刀どころか、一寸の傷も与えられずにアーロンは致命傷を負った。死人になって目覚めたアーロンは、『シン=ジェクト』に運ばれた、夢のザナルカンドまで。
 仮に、あの後自分がこの世界で生き永らえていたら、と想像すると吐き気がこみ上げる。ナギ節をもたらした大召喚士のガード、そのたったひとりの生き残り。スピラを挙げて祀り上げられることは想像に難くない。アーロンが喪ったものにも、この世界の欺瞞に満ちたからくりも、みな知らずに、あるいは知らぬふりをして、アーロンを讃えただろう。伝説のガード、そんな滑稽極まる称号を躍らせて。
 実際のところ、ユウナの一行に合流した時はひどく居心地が悪かった。ワッカとルールーの崇め奉るようなまなざしを直視できず、かといって彼らの無知を嘲ることも責め立てることもできず、物問いたげなユウナにも、約定を果たしてくれたキマリにも合わせる顔がなく、サングラスと高い襟に埋もれて、彼らと向き合うことから逃げた。彼らだけではない、このスピラに生きる全ての人々の視線から、逃げ果せるつもりだった。

 稲妻が天を割った。ガラスの器を硬い床に叩きつけたような雷鳴が耳をつんざく。リュックが騒ぐ声が聞こえないだけ、まだいいだろう。アーロンは濡れた髪を拭いながら窓の外を見る。十年前と変わらぬ平原の空は、昼も夜もなく陰鬱に垂れ込めていた。
 しとしとと降る雨のもたらす冷たい湿気を煩わしく思いながら、フロントでのやりとりを思い出す。あの男が十年経ってもあちこちを飛び回っているとは思わなかった。消えた瀕死人のことはさすがに忘れられなかったのだろう。ティーダがそれなりに誤魔化してくれたようだが、納得致しかねるといった顔のリンはいつまでもこちらを見ていた。
「……なんかさ、」
 窓に近い方のベッドに寝転がって、降り注ぐ雷を見ていたティーダが呟く。その声は小さく、視線も相変わらず窓の外を眺めているので、危うく聞き逃すところだった。
「おっかしいよな」
「……何がだ」
「みんなして、好き勝手なこと言ってさ」
 話の脈絡が読めない。眉間の皺を深めたアーロンを見もせずに、ティーダはくすくす笑っている。部屋にわだかまる湿った空気がさらに重さを増したように錯覚する、そんなうつろな笑い声だ。その横顔が雷光に一瞬照らされて、すぐに暗がりに沈んだ。
「おれ、笑っちゃったんだ。前に、ルールーがオヤジのこと『様』付けで呼んだの、思い出した時」
「……」
「おれがオヤジのことどう思ってるかとか、そんなんじゃなくてさ。なんか、馬鹿みてえって思って」
 ふわふわと雲を掴むような話し方をする。出会った頃の子供と違うのは、そこに何らかの意図があることだ。だがその意図が読めない。アーロンは黙って彼の次の言葉を待つ。立ち尽くしたまま、まるで裁きを待っているようだと感じたことに背筋が冷える。
「アーロン覚えてる? おれがガキの頃にしょっちゅう泣いてた理由」
「……心当たりが多すぎるな」
 かろうじて吐き出した答えは、ティーダを崩すことに失敗したらしい。少年は鼻を鳴らして、天井に向かって片手を伸ばした。
「ジェクトの息子、キング二世ってさ」
 二人が暮らし始めてすぐの頃は、それはよくある出来事だった。顔を真っ赤にしたティーダが、その身体にはいささか大きく見えるブリッツボールを抱えて帰ってくる。ただいま、も言わずにアーロンのもとにやってきて、どうしたと聞いてやると決まって堤が決壊するように泣き出すのだ。そうしてしゃくり上げながら必死で訴える。
 おれはおれだもん。ジェクトなんか関係ないもん。
「どれだけいいプレーしたって関係なくてさ、やればやっただけ、さすがジェクトの息子、って言われんの」
 彫像のように腕を掲げたままのティーダに、泣きじゃくる子供がオーバーラップする。泣いているのか、と思ったが、彼の頰は乾いたままだった――期待していたのかもしれない。
「何が言いたいかっていうとさ」
 伸ばされた腕が、すいと泳いで倒れた。水を掻くように、潤んで澱んだ空気を裂く。その指先はアーロンに向かって差し出され、今までこちらを一瞥もしなかった瞳が立ち尽くす己を捉えたことに気づいた。
「あんたはあんただよ、アーロン」
「……何だ、それは」
「おれはあんたを知ってるよ。ねえ、こっち来てよ」
 陽の光を受ければ飴玉のように輝く青い瞳が、今は淡い闇に沈んで色を失っている。声は頑是ない子供のようにあどけない傲慢さに満ちているくせに、招く指は捨て身の煽情を孕んでいた。
「アーロン、ねえ」
 媚びるのではなく命ずるような呼ばわりに、アーロンは舌打ちと共にベッドに乗り上げた。二人分の体重をやっとのことで受け止めた木枠がぎいと鳴いて抗議する。
「……おまえは、何がしたい」
 語尾が何かに震えるのが滑稽だった。何に震えているのかも分からない、興奮か、怒りか、恐怖か。押さえつけて見下ろした少年は、透徹したまなざしでアーロンを刺し貫く。表情のすっぽりと抜け落ちたようなその顔で、口許だけが緩く弧を描いた。
「あんたは伝説なんかじゃない」
 ひゅっ、と息を呑むアーロンの喉元に、ティーダの指が伸びる。張り出した喉仏をついと撫でて、憐れみと慈愛の入り混じった目を細めた。
「あんたはただの――」
 続く言葉を聞きたくなくて、唇を塞ぐ。人間ではない。人間だったアーロンはあの日ナギ平原でブラスカと共に逝った。修羅となったアーロンはガガゼトの麓で息絶えた。ここにいるのは、十年の間少年の傍らに在ったのは、未練と約束だけを抱えた死人だ。生者のふりをすることだけが上手くなった死者に過ぎない。
 少年は瞼を閉じてくちづけを堪能している。世界を二分するような稲光にももう興味はないらしい。恥知らずな舌が上顎を舐め上げた。追い縋るそれを振り払い、供物のように差し出された喉笛に歯を立てる。その牙に確かに伝わる愛おしい脈拍が、今はひどく疎ましかった。