12月の母親たち

 この辺りは冬に雨が多いようだ。しとしとと降り始めた小糠雨を頬に感じながら、きっとそのうち本降りになるだろうと予感していた。傘の持ち合わせがないが、たかが雨に濡れるだけのことだ。たかが雨。十二月も終わりに近づき、深まりつつある冬の、雪になりそこなっただらしのない雨だ。
 スコールはひとつの石を見下ろしていた。それは泥に半ば埋もれるように転がっている。そうと知らなければただの石塊にしか見えないだろうが、スコールはそれが墓碑であることを知っていた。
 この墓碑に名前はない。誰が葬られているのかも、いくつの遺体がこの下に眠っているのかも、誰にも分からないという話だった。だから、もしかしたらまるで見当違いの場所にスコールは立っているのかもしれない。だとしたら大した間抜けだな、とひとごとのように思った。
(いや、どのみち間抜けであることに変わりはないか)
 陰鬱な日曜の午後に、音も立てずに降り注ぐ雨に打たれながら、弔うものをとうの昔に失った哀れな墓標を見つめている。控えめに言っても滑稽なのは確かだった。
 視線を上げれば、目の前には無人となった教会が無残な骨組みを晒している。割れる窓は全て割れ、崩れた壁から覗く聖堂は床も剥がれて、あたかも見本のようによくできた廃墟だ。祈りの場だけは何があろうとも最後まで人の手が入るものだと思い込んでいたが、どうやら違うらしい。
 羽虫のようにまとわりつく雨粒を煩わしく覚えながら、背後を振り返る。ここはかつてのスラムの行き止まりだ。この辺りで稼働していた重化学工場が垂れ流しにした物質に汚染され、数年前についに閉鎖されたと言う。今となっては住むものもない貧民街の道は泥に覆われ、目に染みる異臭が漂っていた。

「俺はスラムで生まれた」
 サイファーがその話を始めたのは、数週間前の休日の午後だった。その日のバラムも今日のここと同じように小雨模様で、外出を諦めたふたりはラグにクッションを並べて本を読んだりガンブレードの微調整をしたりしていたはずだ。
 冷えかけたコーヒーのマグカップを傾けながらサイファーがそう言って、スコールは始めのひとことを聞き逃した。
「なんだって?」
「スラムで生まれた、らしい。俺は」
 イデアの石の家に引き取られる前のことを、スコールは記憶していない。それはG.F.のせいではなくて、単にあまりに幼かったからだ。ウィンヒルで生まれたことは情報としては知っていたが、それを知ったのさえ数年前のことだった。
「よく知ってるな、そんなことを」
「まあな」
「調べたのか」
「暇だったんでな」
 ひょいと肩を竦めたサイファーは、手にしていた本に栞を挟んで伸びをした。それから、長い話が始まった。

 俺はスラムで生まれた。近くにでかい工場があって、朝も夜もなく垂れ流す騒音と悪臭と廃水で一帯はまともな人間が住めるようなところじゃなかった。だからスラムがあった。
 俺の母親は三人いた。俺を産んだ女と、俺を育てた女。どれもみんなスラムで身売りをしていた。他にどうしようもなかったんだろう。それでも女たちはいつでも唄を歌ってた。嬉しい時にも、悲しい時にも、それしか知らないから唄を歌うんだ。みすぼらしくて、惨めで、奔放で、神様の救いの手なんかこんなところまで届かないからって笑ったり泣いたりしながら、歌う。

 サーシャ、俺を産んだ女。サーシャと呼ばれてた、多分本当の名前はアレクサンドラだろう。でもみんなサーシャと呼んだ。
 十六かそこらで俺を産んで、すぐ死んだ。俺を産んだら死ぬって知っていたのに、俺を産んだ。どうしてかは分からない。誰の種とも知れない胎児を胎ん中に抱えて、それでもサーシャは歌ってたってみんなが言う。何か美しい記憶でもあったのかもしれない、ただガキを殺せなかったってだけかもしれない、単に堕胎のタイミングを逃しちまっただけかもしれない。いずれにせよ、俺は母親を殺して生まれた。
 産声くらいはサーシャも聴いたかもしれないが、俺を取り上げたのはスラムにたったひとつの教会の神父で、俺の名前を付けたのもそいつだ。
 そのスラムじゃ女は十五になる前から身体を売り始めるのが当たり前で、真っ昼間でもどこもかしこも薄暗くて湿った空気が澱んでて、それで香の匂いが充満して噎せ返りそうなところだった。香はスラムには咲いてない花の香りがして、工場が巻き散らすえげつない臭いを覆い隠してくれていたから俺は嫌いじゃなかった。
 サーシャが俺を産んで死んだことを、俺は毎日毎日女たちから聞かされた。アンタの母親は死んじまったよ、もうどこにもいない、アンタを産んで死んじまったんだよ。
 ガキに何聞かせるんだって思うだろう。俺はまだガキどころか赤ん坊だったから女たちの言葉の意味なんざまるで分からなかったが、サーシャ、俺の母親が、俺を産んで死んだというそれだけは脳細胞にこびりついて離れなかった。サーシャは死んだ、俺を産んで死んだ。俺を産まなきゃ死なずに済んだのに、俺を産んだから死んだ。
 それで女たちは、その話の最後に必ずこう言った。だけどアンタのことを愛していたわ、ってな。

 俺を初めて抱き上げた女はイリアナ。
 イリアナはサーシャより十も歳が上で、だけど手足なんか棒みたいに細くて、ほんの十代の子供みたいだった。スラムで育ったせいだ。彼女もやっぱり身売りの女の胎から産まれて、文字なんか読めなくて、他に方法がないから身体を売って生きていた。
 俺のために初めて泣いたのもイリアナだ。臍の緒の切れ端をぶら下げたままの俺を抱いて、可哀想にと泣いて、それから唄を聴かせてくれた。イリアナはそのスラムで一番唄が上手かった、少なくとも俺にはそうだった。消え入りそうなくらい細い声で、俺が腹を空かしたり眠りを死と錯覚して怯えたりして泣く度に唄を歌ってくれた。
 まだ俺が言葉を話さないうちから、ママが恋しいでしょうと言って泣いた。俺はサーシャを知らないから恋しいと思うこともできなくて、イリアナが泣く度に首を傾げて黙っていた。そうするとイリアナはもっと泣いた。寂しいでしょう、恋しいでしょう、可哀想に、そう言って涙を零していたけど、俺はサーシャのために泣けないから、イリアナがサーシャと俺のために泣いてくれることが可哀想で、だから俺はつらくなかった。
 イリアナが唄を歌うのを俺はいつも聴いていた。装飾なんかない、神の木像だけ置かれたがらんどうの聖堂で、イリアナは歌ってた。身売りの娘が、教会で歌うんだよ。手を組んで、何かを見上げて。

 俺が初めて言葉を交わした女はユリヤ。
 ユリヤは生まれつきの盲目で、なのに身売りをしていた、他にどうしようもないから。目が見えないせいで買い叩かれて、他の女よりももっと悪い暮らしをしていた。でも俺のために食べられるものを用意してくれてた。
 彼女の目は白に近い灰色に濁っていて、俺は正直なところ、ユリヤの顔を見るのが苦手だった。
 でもユリヤは目が見えない分、いろいろなことを知っていた。いろいろな話を俺に聴かせてくれた。空の高いところを飛ぶ鳥は、生まれた時は白い羽を持っているけど、あんまり太陽に近いところを飛ぶから羽が灼かれて夕日の色になるんだとか。海の一等深いところには光も差さず流れもなくて、そこには硬い殻で身を守る蜘蛛の眷属がこの世の最後を待っているんだとか。このスラムから西に三日、南に八日歩いて行ったところには真っ青な鉱山があって、そこには光を透かして色を変えるアイオライトばかりが埋まっているんだとか。本物の花はこの香みたいに重い香りだけじゃなくて、紙くらい身の軽い鳥が蜜を好んで吸う花は鋭い香りがするんだとか。
 一度だってそのスラムを出たことがないはずなのに、文字だって読んだことはないはずなのに、ユリヤはたくさんのことを知っていて、どんな話でも聴かせてくれた。俺はユリヤの話を聴くのが好きだった。
 いろんな言葉を知っていて、他の女たちと話す時のユリヤは低く掠れた声でずいぶん早口だった。でも俺と話す時はずっとゆっくり、簡単な言葉を選んで話してくれていた。

 それから俺はママ先生に引き取られて、あの石の家で暮らすようになった。ママ先生は俺のために泣かなかったし、唄もあまり歌わなかったけれど、俺を抱き上げていろんな話を聴かせてくれた。
 だから俺を産んだのはサーシャで、俺を抱き締めて育てたのはふたりの女と、それからママ先生だ。ママ先生以外の声ももう思い出せない。サーシャなんて名前だけ。
 俺を産んで育てた女たち。みすぼらしくて、惨めで、奔放で、神様の救いの手なんかこんなところまで届かないからって笑ったり泣いたりしながら、歌う女たち。
 いつでも歌っていた。俺に強くなれって口やかましく言っていた。まだ世界の右も左も分からないようなガキを抱き上げて泣いて歌って笑っていろんな話を聴かせてくれた。でも女たちがまず俺に教えたのはサーシャという女のこと、俺は母親を殺して産まれたということ、サーシャも女たちも俺のことを愛しているんだということ。
 何の役にも立たないことばっかりだ。
 サーシャだけじゃない、イリアナもユリヤももう誰も生きちゃいない。俺は何も覚えていられずにみんな忘れていく。名前と、そういう女たちがいたということしか覚えていてやれない。それ以外のことは全部忘れていくんだ。
 全部忘れる、でも俺はこれだけは忘れない。忘れようもないくらい俺の細胞に染みついている。サーシャという女がいて、俺を産んで死んだということ。イリアナという女がいて、俺を抱き上げて俺のために泣いたということ。ユリヤという女がいて、俺に言葉を教えてくれたこと。今はもう街ごと死んじまったあのスラムに彼女たちは確かに存在していて、俺を愛してたということ。
 忘れない。何があっても、俺が死ぬ瞬間まで忘れない。俺が死んだら骨に刻んであるのは三人の名前だ。
 俺も愛していたと、伝えることがもうできない。サーシャもイリアナもユリヤもきっと天国にいるが、俺はそこには行けない。

 長い話が終わって、サイファーは静かに立ち上がった。おまえもコーヒー飲むか、と問う背中に孔が開くほど見つめたけれど、彼は振り返らなかった。涙雨が窓を叩く音だけが部屋に満ちて、スコールは明日はきっと冷えるだろうと思っていた。

 目の前の墓標は、かつてこのスラムに生きた人々のためのものだ。ただでさえ劣悪な環境、貧困のもとに生きる人々は、スラムが閉鎖される前から簡単なことで命を落としていた。工場の四方三十キロが封鎖され虚無の空間が生まれた時、それでもこの地に留まることを選んだわずかな人々も今はすでに亡い。
 次第に大きくなり始めた雨粒が、スコールのジャケットのファーを濡らしてゆく。首筋を伝う水を冷たいとも思わなくなっていた。地面を叩く雨に眠りを覚まされた泥は、いかにも人体に悪影響を及ぼしそうな悪臭を巻き上げて飛び散る。あの香の花のにおいは一体どんな香りだったのだろうと想像する。重くて、湿って、一日中晴れない薄闇によく似合うという、あの香は。
 あとは風化してゆくだけの教会の、滑り落ちそうな屋根から水が流れる。ざあ、というその音に、いつの間にか雨が強まっていたことを知る。真冬の雨、しとしとびしゃびしゃと憂鬱な冷たい雨。握り締めた拳の感覚が弱くて、どうやら身体がずいぶんと冷えてしまったらしいことに気づいた。
 スコールは硬直しかけた膝を折って、墓碑代わりの石塊を見た。ちょうど自分がひと抱えに出来そうなほどの灰色の石、刻まれるべき名も祈りの言葉もなく、無表情に転がっている。この下に眠る遺骨のうち、どれがサーシャでどれがイリアナでどれがユリヤだろうか。ここにはないかもしれない。
 それでも、スコールはここに来たかった。今日、雨の降るこの日に。
 二十数年前の今日も、きっと雨だった。そんな気がしていた。光を束ねたような金の髪と、エメラルドのように冴えた瞳を持つあの男が母親を殺して産まれた日。
 頭の中で三人の女の名を呼ぶ。サーシャ、イリアナ、ユリヤ。サイファーを産み、育て、抱き締め、愛した女たち。彼女たちに伝えるべき言葉をスコールは知っているが、それは自分が口にすべき言葉ではなかった。
 冬の弱々しい太陽が昇る前、暁闇に身を潜めてサイファーと眠るベッドを抜け出して、眠る彼に行き先を告げることもなく家を出た。高速艇で海を越えて、レンタカーをひたすらに走らせて、立入禁止区域の破れたフェンスを突破してここに来た理由は、自分でも分からなかった。ただ来たかっただけだ。
 雨は勢いを増してゆく。風がないから重力の導くまま真っ直ぐに突き刺さる雨はスコールの髪を濡らし、額を伝って睫毛に乗った。霞む視界を振り払うこともなく、スコールは墓石を見つめる。その背後で、石ころ混じりの泥を踏む足音がした。
「……テメェ、こんなところにいやがったか」
 スコールは振り返らない。声の主は大袈裟に溜め息を吐いて、数歩の距離を詰めた。
「傘も持たねえで」
「あんたも同じだろう」
「誰のせいだと思ってる」
 サイファーはスコールに触れることなく、どうやらスコールの後頭部を見ているらしい。目の前の墓標に興味はないようだ。
「とんだ誕生日だぜ、朝起きたらテメェはいねえし」
「よくここだと分かったな」
「舐めてもらっちゃ困る」
 おまえ自分が有名人だって自覚ねえんだな、と呆れた笑いが雨を揺らした。
「ここには何もねえよ」
「そうだな」
「何もねえ、おまえが欲しがってるようなもんは何も」
「……おれがか? あんたじゃなくて?」
 不意に伸びてきたサイファーの腕が、スコールのジャケットを掴んで引きずり上げた。逆らうことなく立ち上がると、ほんのわずか高い位置にある碧が叱責するようにスコールを見ている。
「あのなスコール、俺は」
「どうでもいい」
 言葉を奪って吐き捨てた一言に、サイファーの右眉が跳ね上がる。彼が問い詰める前に、スコールは続けた。
「どうでもいいんだ、そんなことは。おれはあんたがどう思ってるかなんて知ったことじゃない。おれがここに来たかったんだ、それだけだ」
「……意味が分からねえな」
「分からなくていい」
「おまえがよくても俺はよかねえ」
 いいからもう行くぞ、と足を踏み出すサイファーの前髪が、降り頻る雨の重みに耐えかねてばさりと落ちた。跳ね上がる泥に舌打ちをしながら歩く男に引かれながら、ついに彼が墓標を一度も見なかったことに気づく。
「で、気は済んだのか」
「……ああ」
「そりゃ何よりだ、ヒッチハイクして来た甲斐があって嬉しいぜ」
「ヒッチハイクで? あんた馬鹿なのか」
「世の中には物好きがいるもんだからな。どうせおまえが車借りてるだろうと思ってよ」
 それでも最後のドライバーにはずいぶん無理を言った、と笑っている。どうしてあんなところまで行くんだと訊かれて、誕生日だからなと返したら何かを深読みして近くまで回ってくれたという。
「まったく手間かけさせやがって、貸しは今夜払ってもらうからな」
「あんたが勝手に」
「いいかげんにしろよ」
「……悪い」
 停めてあったレンタカーの脇に立って、サイファーが掌を突き出す。自分で運転するつもりのようだ、この男は何かと自分で制御したいのか、ハンドルを握るのも好きだった。スコールは緩慢な動作でポケットを探り、キーを渡す。
 スコール、と名前を呼ばれて、助手席側に回ろうとしていた脚を止めた。ふたり揃ってずぶ濡れだ、このままシートに座ったらレンタカー屋に文句を言われそうだが、タオルの持ち合わせはなかった。
「ありがとよ」
「……何の話だ」
「まあいいけどな」
 水たまりを踏みそうになったスコールの肘を、サイファーの手が掴む。分厚いジャケット越しに、その体温が滲んでくるような錯覚がした。
「ついでにひとつ、頼みがあるんだが」
 わざとらしく覗き込んでくる顔が小憎らしい。サイファーの言いたいことなど見え透いているし、それなりに迷惑をかけた自覚もあったのでスコールは逆らわなかった。
「……誕生日おめでとう、サイファー」
 言いながら腕を振り払い、車の反対側に向かう。ドアロックを解除する音に、上出来だ、と機嫌の良さそうなサイファーの声が重なった。
 雨は止まない。飽和限界を超えた水が降り注ぐだけの天候に、人間の感情を重ねるなんて馬鹿げている。地面を這いずる生き物が泣こうが笑おうが生まれようが死のうが、そんなことは知ったことではないと雨は降り、いずれ止むだろう。
 もう誰にも思い出してもらえない三人の女を想う。彼女たちのいたことを知る者は自分たち以外にはもういない。そして自分たちもいずれ忘れてゆく。そのうち死ねば、どこかの記録には残るだろうが、やはり忘れられる。そういうものだ。逆らいようのない世界の決まりだ。
 エンジンを入れたサイファーが、空調を全開にした。車のエアコン独特のにおいが一気に拡散する。パネルをいじるサイファーの右腕を眺めて、この骨に刻まれた女たちの名前をもう一度呼んだ。
 サーシャ、イリアナ、ユリヤ。顔も知らないあんたたちに感謝しよう。あんたたちの証はここにある。サイファーの骨が、いつか白く脆く朽ちるまで。