キニアス先生の言う通り

 無駄に長いメールを読むのに嫌気が差して窓の外を見たら、空の色が夏になっていた。と、感じたことに一拍置いてから驚く。我ながら陳腐ではあるが、それにしたって詩的だ。気恥ずかしさを覚えて軽く頭を振る。
(天気がいいから、仕方ない)
 顔をしかめたのをぬるくなったコーヒーの酸味のせいにする。スコールは酸っぱいものが嫌いだ。ゼルのやつ、勝手に豆の種類を変えたな。
 委員会室――というのはセルフィによる命名で、正式には「バラムガーデン運営委員会室」、一般的には指揮官執務室だ――には、珍しくスコールしかいない。シュウとキスティスは今週いっぱい休暇、ゼルはバラムの役所回りで終日外勤、セルフィは全ガーデン定例会議に向かっているから戻りは明後日だ。留守番組のアーヴァインは、古い資料を確認すると書庫に向かったので今はいない。
 そして残されたスコールはひとり、溜まったメールの処理に追われている。きちんと読んで返信しなくてはならないが、役人の書く文章というのはどうにも長ったらしくていけない。要点だけまとめてくれればいいのに。
 はあ、と溜息をついたスコールは、コーヒーを淹れ直そうと席を立つ。朝、この部屋に入ってから一時間半、休憩を取ったっていい頃合いだ。

 給湯室から戻ると、さっきまでいなかった人間が執務室にいた。大きなファイルをめくっているアーヴァイン、それからもうひとりは椅子にふんぞりかえって情報端末が起動するのを待っている。
「よお」
「……ああ」
 その男、サイファー・アルマシーがひらりと左手を挙げた。身ぶりは気やすいが、こちらを一瞥もしない。
「ずいぶんと堂々とした遅刻だな」
「フレックスだろ?」
 スコールのジャブを鼻であしらったサイファーは、いつも通りの尊大さを肩に纏いながらもところどころにほつれが出来ていた。例えば、寝癖。綺麗に撫で付けている前髪はいつも通りだが、襟足の部分にちょこんと跳ねた一房がある。それに、目元にうっすらと隈。昨晩はあまり上手く眠れなかったと見える。観察するスコールに気付いているのかいないのか、サイファーが大あくびのついでにぐるりと首を回すと、ごき、と関節が鳴った。思わずくつりと笑いが漏れる。
「見せもんじゃねえぞ」
 ぎろりと横目で睨みつけるのを受け流して、スコールはコーヒーに口をつける。共用の紙コップはぺらぺらで、大して好みにも合わない苦い汁をすするにはちょうどよかった。
 それぞれが無言のまま端末に向かう。スコールが回りくどいメッセージを苦心のうちに三回読み返し、それと同じ時間をかけてずっと短い返信をタイプし終えるまでに、サイファーは六回、顎の外れそうなあくびを繰り返した。
「あーあ、調子出ねえ」
 こう見えて事務作業が苦手なわけではないサイファーが、これ見よがしに伸びをして唸る。その向かいで生真面目に端末を操作していたアーヴァインが、ゴシップのにおいを嗅ぎつけて顔を上げた。
「何かあったの?」
「まあな」
 サイファーはキャスター付きの椅子を回転させて長い脚を投げ出す。仕事をしろと言ってやりたいところだが、有能な副指揮官であるキスティスとシュウが揃って休みを取っていることから分かる通り、今は暇なのだ。実のところスコールもメール処理くらいしかすることがない。
 芝居がかった手振りで肩を竦めて、サイファーは得意げに話し始めた。
「昨日、うちのかわいこちゃんがご機嫌斜めでよ」
「へええ。そりゃ大変」
「ちょっとしたことで噛み付いてくるから、言い返したら拗れた」
「ありゃりゃ」
「まあ俺に言わせりゃたいしたことじゃねえんだが、あっちはそうでもなかったらしくてな」
「向こうには大事なことだったんじゃないの?」
「寝室から追い出されちまった。ひでえと思うだろ?」
「うーん、僕には判断しかねるなあ」
「一晩ソファで過ごしたせいで、身体のあっちこっちがだるいったらねえよ」
「そいつはご愁傷様」
 アーヴァインの相槌をことごとく無視して話し終えたサイファーは、また生あくびをひとつ噛み殺して、沈黙を守るスコールを見やる。
「……何か言いたそうだな、スコール?」
「別に」
 強いて言えば、どうでもいい話をするならここではなく食堂にでも行って欲しい。暇ではあるが、仕事がまるでないわけではないのだ。スコールは端末の画面をスクロールさせた。
 仏頂面の指揮官をよそに、この手のおしゃべりが大好きなアーヴァインが笑顔で人差し指を立てた。
「喧嘩したなら仲直りしないとね〜」
「ああ? 喧嘩じゃねえよ」
「まあまあ。たまには僕のアドバイスも聞いてみなって、代金はサービスしとくからさ」
 ああ、うるさい。また厄介なメールを見つけてしまったというのに、サイファーとアーヴァインがうるさくて集中できない。追い出してやる。いや、出て行けと言って素直に従うタイプではないから――サイファーはもちろんのこと、アーヴァインもこのところ、スコールを混ぜっ返して笑うことが多い――こっちが出て行くのが早い。それは分かっているのだが、それでは負けた気がする。
「アドバイスだぁ? 偉そうに」
「いいかいサイファー、こういう時はね、先に折れた方が勝ちだよ。いつまでも意地張ってる方が負け」
 勝ち負けと聞くとつい耳が反応してしまう。そうだ、負けてたまるか。ここはおれの部屋だ。何故おれが出ていかなきゃならない。おれは梃子でも動かないぞ。
「ほー。で? どうしろって?」
「簡単かんたん。相手の喜ぶことをしてあげるんだよ。早めに仕事切り上げてさ、お花とケーキでも買って帰って」
「花とケーキねえ」
「別にクッキーでもフィナンシェでもいいけどね〜、ちょっといいお菓子が鉄板かな」
 今時、花と菓子で機嫌を取れるやつがいるのか。いや、セルフィならころっと行くかもしれない。というか、アーヴァインとセルフィが喧嘩をするというのも少し意外だ。と考えたところで、スコールはひっそりとかぶりを振る。いけない、サボり組のペースに巻き込まれてどうする。
「せっかく早く帰るんだったら、夕飯の支度を引き受けてもいいよね。メニューを向こうの好物で揃えたりして」
「ビビり野郎のくせに料理なんかすんのか」
「料理とビビりは関係ないよサイファー」
 セルフィよりもアーヴァインの方がまともな食事を作れる確率が高いということを、スコールは知っている。トラビアの元気なお嬢さんはすべてを目分量で済ませる上に味見を怠るものだから、出来上がる料理が美味いかどうかは分の悪い賭けだった。魔女を追う旅の中で、何度味のない、あるいは味の濃すぎるスープを食わされたことか。
「花と食いもんでほだされるならチョロいもんだな」
「そういうこと言わないの。で、あとはそうだなあ、帰ってくる相手を玄関で待ち受けてお出迎え」
「はん」
「跪いて手の甲にキスして、抱き締めて愛してるよダーリン、でどう?」
(……馬鹿馬鹿しい)
「馬鹿馬鹿しい」
 期せずしてサイファーと一致してしまった感想を慌てて呑み下して、スコールはデスクトップの隅に表示された時計に目を向ける。時刻は間もなく昼になろうとしていた。

 その日の夕刻。何しろ急ぎの案件がないのでさっさと帰って行ったふたりを見送って、スコールは小一時間の静寂を堪能してから帰途につく。指揮官ではあるが生徒ではないスコールは、バラムの街外れのアパートメントに居を移していた。
 ずいぶんと日が長くなった。風はまだ涼やかだが、あと数週間もすれば茹だるような熱風に変わるだろう。夏生まれではあるが暑さには強くないスコールは、来たる灼熱の季節を思ってうんざりする。
 足早に街を抜ける。店仕舞いを始める花屋の前を通り、甘い香りを漂わせる菓子店を過ぎて、タイムセールに賑わう食料品店の角を曲がれば自宅だ。エントランスの掃除を終えた管理人に挨拶をして、階段を四階分上がる。一番奥の角部屋の前に立つと、ふわりと香ばしいかおりが鼻腔をくすぐった。オーブンの中でこんがりと焼けるチーズを幻視する。扉の鍵は、開いていた。
「――おかえり、スコール」
 ばさ、と音を立てて視界に飛び込んできたのは、風鈴のようにぽってりと丸い花ばかり何種類もまとめた花束。カンパニュラだ、と添えられた声を追えば、花の向こうでうやうやしく跪く男が口角を吊り上げて、その金糸の髪を掻き上げた。
「……夕飯は」
「チキングラタンにポトフ、サラダのドレッシングはオレンジだ。いつものバゲットも」
「デザートは」
「タルトがある。マスカットとチョコレート、好きな方選んでいいぜ」
「それだけか?」
 差し出された花束を受け取らない右手がぐいと引かれる。骨の浮いた甲にかさついて柔らかいものが触れたと思ったら、次の瞬間、スコールは男の腕の中にいた。
「愛してるぜ、ダーリン」
「……あんたは本当に馬鹿だな、サイファー」
 そうして、スコールは今日初めて、声を出して笑う。