Pause in end

 703番。それがサイファーに与えられた新しい名前だった。
 ここはガルバディア国内にいくつかある拘置所のひとつだ。正確な場所は分からない。ガルバディア司法局の出頭命令を受け、F.H.からティンバーを経由して陸路で国境を跨いだサイファーは、入国管理局に身分証を提示してすぐに護送車に乗せられた。窓もない車内だったが、恐らくはデリングシティと旧ミサイル基地の間のどこかだろうと当たりをつける。
 護送車を降りたサイファーは、速やかに取り調べを受けた。ガルバディアの現政権を擁護するわけではないが、すべては本当に口頭で済んだ。かつてでは考えられないほど人道的だ。聴取とは名ばかりの儀式は三時間弱続き、机を挟んで向かいに座った検察官は厚さ五センチはあろうかという調書を文字通り一行目から順番に読み上げ、その間サイファーは一言も発しなかった。長々しい朗読がやっと終わり述べられた事実に齟齬はないかと問われた時も、声を出すのが面倒で頷くに留めた。
 検察官の差し出す同意書――被疑者は令状の要求に応じて出頭し、適切な取り調べを受けた上で、ガルバディア司法局の管轄する未決勾留施設において正式な起訴を待つことに同意する――にサインしたことで、サイファー・アルマシーは未決囚となった。
 両脇を刑務官に拘束されて移動した部屋では所持品検査が行われ、トレードマークの白いコートからシルバーのネックレス、果てはパンツと靴下に至るまでひっぺがされ、代わりに差し出されたのはくたびれた作業服だった。薄い青の生地が毛羽立っていて、左胸と右肩に「703」と刺繍されたワッペンが付いている。ふたりいた刑務官の片方が、今後はその番号で呼ばれるのだから覚えておくように、と告げた。つまり、サイファー・アルマシーはサイファー・アルマシーではなく、703番になった。
 生活上の諸注意をまとめた退屈なビデオを見せられ、先ほどの刑務官が付け加えることには、703番は刑が確定していないどころか起訴さえされていないので、労働義務はないという。希望者には軽作業が斡旋され、いくばくかの賃金が得られるそうだ。薄い紙に印刷された作業内容リストは封筒を作るとか、大量生産メーカーの衣類にタグを付けるだとか、そういうものだ。施設内図書室の管理というのには惹かれないでもなかったが、このポジションは人気が高く順番待ちが出来ているのだという。今の担当者は偽計業務妨害で起訴され判決を待っているエリートビジネスマンだそうだ。
 未決囚に与えられた番号にはちゃんと意味がある。百の位が分類で、1が窃盗、2が暴行、3が殺人と続いて、7は政治犯だ。十と一の位が管理番号で、基本的には収監順。つまり、サイファーの前にもうふたり政治犯が収監されていることになる。知っている人間かもしれないが、互いの刑が確定するまでは独房暮らしだから会うことはない。
 食事は独房まで届けられるから、毎食三十分以内に喫食して空いた皿は扉の横の所定の位置に戻すこと。入浴は週に三度、その日の朝八時から一時間は独房ごとに仕切られた五平方メートル相当の「庭」で軽い運動をすることが許される。衣類は支給されたものを正しく身につけること。歯ブラシなどの消耗品は月ごとの交換上限が決まっている。外部との通信は週に十通までの手紙が認められているが、内容については刑務官の検閲を受ける。これは受信したものも同じだ。面会差し入れは週に一度が上限、これとは別に弁護士との面談が、こちらは必要に応じて随時許可されている。
 細かいことはこれを読むようにと渡されたパンフレットを片手に、やはり刑務官に挟まれたまま通路を歩く。思っていたよりも暗くないし、不潔でもない。冬の夕暮れを迎えようとしている弱々しい陽光に、舞う埃がちらちらと輝いている。これといったにおいもなく、ただコンクリートが湿気を吸うのかどこか水っぽい空気が漂っていた。
 いくつもある独房は中に人がいるのかいないのか、サイファーたちの足音にも反応する様子がなく静かだった。ほとんど無意識に気配を探るが、特に注意を払うべきものはない。このブロックにはコード7の政治犯、8の経済犯、9の良心的兵役拒否者が集められているというから、本来は傭兵であるサイファーとは住む世界が違うのだ。この檻の中にいるうちのいったい何人が、サイファーと対峙して二十秒以上立っていられるだろう。刑務官をカウントに入れたって話にならないはずだ。もっとも、愛用のハイペリオンはF.H.を発つ時に風神と雷神に預けてしまったが。
 案内の刑務官に促されるまでもなく、独房に足を踏み入れた。何かあれば扉の横のボタンを押すと、外でスイッチが光って見回りの人間が気づくようになっているらしい。あと一時間半ほどで夕食だ、と言い残した刑吏たちは硬い足音を響かせて去って行った。
 部屋の真ん中に立って、ぐるりと見回す。窓は出入り口の反対側の壁に、明かり取り程度の小さなものに格子がはまったものがひとつ、高さは三メートルを優に超えるだろうか。ちょっとジャンプしたくらいでは、サイファーの巨躯をもってしても届かない。
 その下、部屋の隅には素っ気ない便器が剥き出しになっている。一応、紙はあるようで安心した。触ってみるとガーデンの共用トイレで使っているのと大して変わらない質のものだ。つまり、ガーデンのトイレットペーパーは拘置所と同レベル、最低ランクのものというわけだ。今となっては知ったことではないが。
 便器が据え付けられているのとは反対側にベッドがある。一般的なシングルサイズだからサイファーには明らかに小さい。これから毎日、足先をはみ出させて眠ることになるのだ。思わず舌打ちしそうになったが、よく考えなくてもここは監獄なのだから仕方がない。硬いマットレスにぺらぺらの毛布、詰め物の擦り切れた枕。清潔なだけよしとしなければ。
 扉の横には机と椅子があり、書き物はここで出来そうだった。読書は図書室が貸し出すものか検閲を通った差し入れの本が許可されているが、ベッドに寝転んで読んではいけないとビデオで説明していた。よって、生活の主な拠点はこの机になりそうだ。仮に牢獄にも「生活」と呼べるものがあるのなら、だが。
「……悪くねえな」
 独房に反響する低い呟きは掠れていた。落胆しているわけではない。単に、長いことろくに喋らなかったせいだ。

 サイファーがこの拘置所に入って三日目。特にすることもなく図書室から持ってきた経済誌をめくっていると、おざなりなノックと共に刑務官がやって来た。
「703番、面会だ」
 番号で呼ばれることにはすっかり慣れた。自分でも意外なほど従順だ。道端に落ちている空き缶を見るよりも感情のこもらないまなざしを崩さない刑吏連中に、いちいち名前を呼ばれるのも想像してみれば煩わしい。サイファーは自分の名前をわりと気に入っているのだ。どうでもいい人間に気安く呼ばれるくらいなら、番号のほうがよほど素直に反応できる。
 面会室に入ると、厚いアクリル板越しにふたつの人影が立ち上がるのが見えた。サイファーよりさらに体格の良い巨漢に、ほっそりした女性。そうだ、このふたり以外に自分に会いにやって来る人間などいはしない。
「久しぶりだな、ってもまだ一週間も経ってねえか」
「703番、着席しろ」
 面会室では椅子に座ってからでないと口を開いてはいけない、確かにそう聞いていた。サイファーは黙って歪んだパイプ椅子に腰を下ろす。
「サイファー……」
「どうした、しみったれたツラしてんじゃねえよ」
 気をしっかり持つもんよ、と言う雷神の方が気落ちしているから、サイファーはうっかり笑ってしまった。青菜に塩をかけたようにしょぼくれる雷神、気遣わしげな視線を隠しきれない風神。これではどちらが慰められているのか分かったものではない。
「サイファー、生活、如何」
「ああ、思ったよりは悪かねえよ。メシもまあまあ食えるしな。ただ暇で仕方ねえ」
 次来る時でいいから本でも差し入れてくれねえか。そう言うと雷神が前のめりになって何度も頷いた。
「もちろんだもんよ! 何でも持って来るもんよ」
「希望、何」
「そうだな……」
 少し考えて、思いついたタイトルをいくつか挙げる。律儀な風神が手帳にメモを取っていた。雷神に記憶させるよりよほど信頼できる。並べた書名の中に『魔女の騎士』がないことに、ふたりとも気づきはしても何も言わなかった。
「明日朝イチで差し入れるもんよ、なあ風神」
「当然」
「明日だぁ? おまえら、またここまで来る気かよ」
「あったりまえだもんよ、毎日でも来るもんよ」
「毎日、不可能。回数制限有」
「だとしても入口までは来るもんよ!」
 声を張り上げる雷神に立ち合いの刑務官が、面会室ではお静かに願います、と無機質に注意する。再びしゅんと縮む親友に、サイファーはありがとな、としか言えなかった。
「……とにかく、俺らが何とかするもんよ。サイファーは心配せずにどっかり構えてるもんよ」
「何とかって、何するつもりだ?」
「詳しくは言えないけど、学園長が動いてくれるみたいだもんよ」
 その言葉に思わず眉を跳ね上げてしまった。学園長――シドが動くだと? あの男が?
「まさか。第一、俺はもうガーデンの人間じゃねえんだ。あいつらが手出しする理由がどこにある」
「サイファー、そんな言い方ダメだもんよ。サイファーはガーデンの仲間だもんよ」
 雷神の泣きべそのような言葉もまるで響かなかった。全てが終わった後、F.H.に流れ着いたサイファーは一応正式な書式で除籍願を提出した。それに対する反応は何もなかったから、てっきり受理されたとばかり思っていたのだ。あれだけのことをしておいて、一体どの面を下げて戻れるというのか。ましてや「仲間」だなんて生温い言葉で括られるだなんて、まるでぞっとしなかった。
 刑務官が面会は残り三分だと告げる。はっと目を見開いた風神と雷神は、さんざん口ごもった挙句にガーデンに伝えるべきことはあるかと訊いた。
「何もしなくていい。全ては俺の意志だ」
「サイファー、でも、」
「何度も言わせるんじゃねえよ。……俺は自ら望んで『魔女の騎士』になった、それが俺の夢だった。おまえらが一番よく知ってんだろ」
「……サイファー」
「俺の意志にガーデンは何の関係もねえ。だから何もするな。それだけだ」
「703番、時間だ」
 予想よりもずいぶんと優しい手つきで肩を引かれ、サイファーは立ち上がる。今までに何人の未決囚を乗せてきたのか、安物のパイプ椅子が軋んだ悲鳴を上げた。
「じゃあな、あんまりしょっちゅう来るんじゃねえぞ」
「サイファー!」
 風神の声が上ずった。滲んだ語尾は、いつだって冷静な彼女には相応しくない。ふたりと決別したあの時を思い出して、サイファーは彼らに背を向けて口許を歪めた。
「また来るもんよ、明日も明後日もその次も必ず来るもんよ!」
 雷神のその叫びは、閉ざされる鉄の扉に阻まれてよく聞こえなかった。聞こえなくてよかった。サイファーは底の薄いズック靴のぺたぺたと情けない足音を引きずりながら独房へ戻る。明かり取りの窓からは弱々しい光、今週はずっと曇りなのだと起床サイレンに続く定型アナウンスが言っていた。

 何もするなというメッセージを、風神と雷神はガーデンには伝えないだろう。そのことはよくよく分かっていたが、しかしサイファーはシドが動かないことを確信していた。
 サイファーを保釈する、そして無罪にするために動くということは、とりもなおさず妻であるイデアを危険に晒すということだ。
 あのパレードの日、全デリング市民の眼前に立った『魔女』はイデアだ。その内に宿る意識がアルティミシアであることを、魔女の実態を知らぬ一般人は理解できない。ガルバディアの民衆から大統領に至るまでを熱狂の渦に叩き込んだ魔女は、少なくともその肉体は、間違いなくイデアだったのだ。
 そして、サイファーはイデアの身体をした魔女に付き従っていた。サイファーを罪に問うのならば、魔女イデアが訴追から免れようはずもない。しかし『魔女』は未だに行方不明だ。ここに収監される時に会った検察官もそう言っていた。何もかもが終わってからほとんど全ての情報を断っていたサイファーには推測しかできないが、彼女はシドによって、そしてスコールたち「石の家」の子供たちによって厳重に匿われているのだろう。
 仮にシドがサイファーを救おうとすれば、彼は妻を危険に晒すことになる。イデアが彼の妻であることは調べればすぐに分かる――ガルバディアの検察がとんでもない無能でなければの話だが。つまり、シドは表舞台に立つわけにはいかない。イデアを守るために、彼もまた隠れ続けなくてはならないのだ。
 代理にスコールあたりを立てるだろうか。可能性はゼロではないが、スコールが自分の法廷に証人として立つ姿を上手く想像できなかった。彼を自分の、いや自分を彼のライバルと称せる時期はとうに過ぎた。そして二度と戻らない。かたや魔女の脅威から世界を救った英雄、SeeDの輝かしき指揮官。かたや魔女の騎士として何もかもを失った負け犬だ。風神と雷神が掛け合うまでもないとサイファーは結論付ける。ガーデンが、シドが、スコールが、自分を救おうと動くことはあり得ない。

 拘置開始から二週間弱、サイファーの弁護人が初めての面会に訪れた。細い銀縁の眼鏡をかけ、榛色の髪を神経質に撫で付けた男は弁護士というよりは葬儀屋じみている。皺ひとつないダークカラーのスーツは吊るし売りのものだろう、たいして上等とも見えない生地の肘の部分が擦れててかてかしていた。
 自腹を切って弁護士を雇うことをしなかったサイファーには、国選弁護人が割り当てられる。この弁護士にとって、サイファーは厄介な貧乏くじだろうか。それとも、これまでも数知れずこなしてきたルーティンのひとつに過ぎないだろうか。この国をいいように振り回して壊滅させる寸前まで持っていった男の弁護をするというのはどういう気分なのか、興味がないといえば嘘になるが、そんな軽口を受け入れるようには見えなかったので口を噤んだ。
「アルマシーさん、これから裁判の方針をご説明します。質問や異議があれば都度教えてください」
 彼は話し方もやはり葬儀屋に似ていた。困難であろう裁判に向けて意気込むでもなく、被告を激励するでもなく、淡々と手帳をめくりながら――拘置所では面会人であっても電子機器の類は操作できないのだと、その時初めて知った――低い調子で話し続ける。こちらを見もしないのに、不思議と声が聞き取りづらいことはない。仮にも弁論家の端くれということだろうか。
「あなたが外患誘致罪で立件されるのはご承知ですね」
 サイファーは頷いた。てっきり内乱罪だとばかり思っていたのだが、起訴内容としてはあくまでも「他国に侵攻する軍の指揮を執り、ガルバディアの民衆を戦乱の危機に晒した」ことだけに焦点が絞られたようだ。
 サイファーは魔女のしもべであり、その魔女には当時の最高権力者であるデリング大統領が信任書を与えている。この信任書が法的に有効な手続きを経て発行されていることから、魔女およびその配下の一連の行いはクーデターではないと判断されたらしい。当のデリングがすでに死亡していることもあり、魔女を信任することの意図や是非を問う事態になれば裁判は泥沼だ。議論の停滞による長期化を避けたい、それだけはこの裁判に関わる全ての人間の共通見解だった。
 弁護士の男は、新聞記事でも読み上げるように続けた。
「端的に申し上げます。当職としては、心神耗弱を主張することをお勧めします」
「心神耗弱?」
「つまり、当時のあなたは魔女イデアのマインドコントロール下にあり、適切かつ自律的な判断が不可能であった、ということです」
 沈黙が降りた。面会記録を取っている背後の刑務官もタイピングの手を止める。サイファーは己と弁護士を隔てるアクリル板の溝に溜まった埃を見つめて、乾いた唇を舐めた。
「あなたは確かに魔女イデアに従い、世界各国への宣戦を布告し、ガルバディア軍とガーデンを指揮してバラムおよびエスタへの侵攻を企てた。しかしそれはあなたの意志ではなかった、ということです」
 何か質問はありますか、と問われても、サイファーは口を開かなかった。弁護士は再び滔々と話し始めたがほとんど耳に入らない、かろうじて記憶したのは初公判の日程だけだ。

 拘置所の夜は早い。二十一時には消灯準備が開始され、三十分後には全ての独房の照明が一段階落ちる。二十二時になると完全消灯となり、未決囚たちは排泄以外に動くことを許されない。
 寝返りを打つだけで軋むベッドに仰向けになり、サイファーは弁護士の言葉を反芻する。心神耗弱、魔女のマインドコントロールによる自律意思の喪失。すべてはサイファーの望んでしたことではなかった、そう主張することで、罪から身を躱し、与えられる罰をなかったことにしようというのだ。
「……違う」
 今夜は月がない。明かり取りの窓から覗ける狭い空は凝るタールのように重く黒く蟠り、サイファーの否定を呑み込んで泰然としている。
 違う、とサイファーは思う。罪を免れたいだなどと考えたことはない。F.H.で空と海の境界を見つめながら、サイファーはずっと待っていたのだ。自分の犯した罪の代償に、自分のための罰が用意される日を。その罰がいかなるものであれ、自ら進んで受け取る日を。何故なら、それがサイファーに唯一残された最後の「自由」だからだ。
 ――サイファー、あんた、操られてるだけだ。自分の夢もなんもなくして、変なものの言いなりになってるだけだ。
 風神の声が脳裏に蘇る。彼女たちにはそう見えていたのだろう。ふたりの盟友と袂を分かった瞬間のことを覚えている。引き返せないところまで来てしまった、あの時自分は確かにそのことに気づいたのだ。
 分かっていた。もうどこにも行けないのだと。この先に待つのは袋小路でしかないとサイファーは知っていた。それでも進むしかなかった、何故なら全ては自らの選択の結果だったと、そう信じるしかなかったからだ。状況に流され、魔女に操られ、坂道を転げ落ちる小石のように敗北に辿り着いたのだと、そう認めるわけにはいかなかったからだ。
 そしてサイファーは全てを失った。地の果てまでも共にあると誓ったはずの友を、「魔女の騎士」という麗しい幻想を、あのスコール・レオンハートの宿敵としての地位を。
 何もかもがこの両掌を擦り抜けて零れ落ちてしまったと理解した時、サイファーに出来たのは全てを引き受ける覚悟を決めることだけだった。始めから終わりまで、自分は自らの意志に基づいて分岐路を選んできた。魔女に洗脳されたからではない、どれほど落ちぶれようとも自分はけしかけられる犬ではない、俺はサイファー・アルマシーだ。俺は正気だった、ずっと。
 そう繰り返し唱えることによって、サイファーは最後の自尊心を守っていた。だから再建されたガルバディア政府から出頭命令が届いた時、サイファーは安堵したのだ。やっとだ。ようやくサイファーの望みは果たされるのだ。問われる罪を認め、並べ立てられる罰の中から最も陰惨で深刻なものを選び取る、今度こそはこの手で。
「……くだらねェ」
 拘置所のベッドに横たわるこの身体は、夜の闇の底に沈殿したヘドロのようだ。持ち上げた掌さえ影法師に喰われて輪郭も定かではない。内側からは開かない扉の向こう、コンクリート剥き出しの廊下を巡回の刑務官が歩いてゆく。
 サイファーは瞼を降ろした。F.H.の海の色を思い出そうとしたが、それが海の青だったか空の青だったか分からなくなってしまって、いつの間にか眠っていた。その夜見た夢の中で、自分の放り投げた釣り糸に引っかかってなす術なく釣り上げられる己の姿を眺めていた。支離滅裂もいいところだ。

 マインドコントロールによる心神耗弱を主張することを拒否したサイファーは、棺桶に釘を打ち付けるための小石のような弁護士に言った。自分はいかなる刑であろうと受け容れる。法廷論争も減刑嘆願も酌量も必要ない。検察側の主張に事実との齟齬があれば反論はするが、そうでない限りは抗弁はしないと。
 弁護士は、彼にも一応の立場というものがあるのだろう、しかし、と口ごもる。検察の主張が認められれば、あなたは死刑に処せられる可能性があります。ガルバディアでは極刑が廃止されておりませんから。そのことはサイファーも知っていた。ガルバディアは今となっては珍しい死刑存置国であり、つい先だっても国際人権機関にそのことを責め立てられたばかりだ。
 ガルバディアの国内法における外患誘致罪の法定刑は死刑ないし終身刑だ。刑が確定すればサイファーは二度と外界に出ることはない。ティンバーとガルバディアの国境線で護送車に乗せられる前の深呼吸、あれが生涯最後のシャバの空気だったということになるわけだ。
 しかし、サイファーの審判は遅々として進まなかった。弁護士によると、サイファーの行いが外患誘致罪の定義を満たすか否かで揉めているらしい。「他国と通謀してガルバディアに武力を行使させること」がその内容だが、サイファーが他国、例えばエスタやバラムをけしかけたことはない。あくまでもガルバディア軍とガーデンを動員し、攻め入ったに過ぎないのだ。
 どうやら分が悪いと見たらしい検察側は、起訴要件の切り替えを検討しているらしい。しかし内乱罪は避けたいわけだから、切り替え先の選定は難航中だ。
 ただの殺人でさえ、結審するまでには年単位の時間がかかるのだ。拘置所暮らしは長くなるだろう。

 サイファーが703番となってから三年が経った。法廷は審判停止状態にあり、検察側は未だに立件準備さえ終えていない。
 インサイダー取引で収監されていた男が執行猶予付きでここを出たので、図書室司書の仕事はサイファーに回ってきた。開室時間は午前十時から午後五時まで、昼の一時から二時までは休憩時間でその間に昼食を摂る。
 その日の午前中、サイファーは傷んだ本の修繕をしていた。落ちそうになっているページを専用のテープで固定し、保護フィルムを貼り直す。合間に貸出返却手続きをする。どうということもない、昨日までと同じルーティン。明日からも変わらず続いてゆくはずの繰り返しに、最早飽きることもなかった。外はしとしとと陰鬱な雨が降り続いている。かれこれ四日目の雨だ。
 時計を見ることも忘れて作業に没頭する。古い小説の文庫本で、名の知れた作家のものだから貸し出しも頻繁だ。背表紙の破れを直し終えて、中に痛みがないかとページをめくる。その中に書き込みを見つけて手を止めた。長くはない一文に傍線が引かれている。
『自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない』
 サイファーは消しゴムを手に取って、その歪んだ線を消した。馬鹿な奴だ、と思いながら。

 昼休憩を終え図書室に戻ろうと引率の刑務官を待っていたが、一時五十五分を回っても誰も来なかった。脚の長さがずれてガタガタ言う椅子に腰掛けて、作業着の袖を捲り上げる。
 拘置所暮らしではろくなトレーニングなど出来ないから、この三年でずいぶんと筋肉が落ちた。二十代前半の男の平均よりは体格はまだいいだろうが、この身体ではそれなりに持ち重りのするガンブレードをかつてのように振り回すことは出来ないだろう。
(……その必要もない)
 審判停止から二年以上が経ち、サイファーは自分が死ぬまでこの拘置所にいるのではないかと予感していた。政治犯にはままある話で、誰も最後のスイッチを押したがらないが放り出す訳にもいかないから飼い殺しにするのだ。病気なり加齢なりで監獄生活が耐えられなくなるまで衰えればしめたもので、あとのことは病院に任せてしまえばいい。
 がりがりに痩せこけて、人工呼吸器と栄養点滴に繋がれた自分の姿を想像してみた。この三年間、雪でも嵐でも欠かさず面会に訪れる風神と雷神がベッドサイドに座っている。彼らの老いた顔は上手く描けなかった。こんなふうにしてサイファーも死ぬのだろうか。樹から落ちた葉が乾いて砕けてゆくように、ほとんど誰からも顧みられることなく。
「703番」
 いささか感傷的に過ぎる、そしてどこまでも寄り添ってくれる盟友たちには失礼な空想を、刑務官の乾いた声が切り裂いた。はっと顔を上げると、未決囚の生活周りを管理する担当者に並んでその上司にあたる刑吏が立っている。サイファーは椅子から立ち上がり、規定通りに気をつけの姿勢を取った。
「釈放だ」
「……は、」
 端的なひとことはこの三年間夢にも思わないものだったから、反応しかねた。ぽかんと口を開くサイファーに向かって、制服の肩に入ったラインの一本多い上級刑吏は眉一筋動かすことなく繰り返す。
「703番、サイファー・アルマシー。保釈金が支払われた。直ちに出所しろ」

 ここに来た時に身ぐるみ剥がされた部屋で、懐かしい私服を手渡される。ご丁寧にもクリーニングに出して保管してくれていたようだ。ガサガサとビニールを剥がして順番に着替えてゆく。靴下も下着もアイロンがけまでされているのが可笑しかった。
 最後に白いコートを羽織る。クリーニング後特有の匂いが鼻腔をくすぐり、意識せず深く息を吸い込んだことで自分が緊張していることに気づいた。
(……誰が支払った?)
 数日前に面会にやってきた風神も雷神も、そんなそぶりはまるで見せなかった。サイファーを保釈するための金額は分からないが、彼らに捻出できるような値段とも思えない。カンパでも募って、という可能性もなくはないが、風神だけならともかく雷神が秘密にはしておけないだろう。ガーデンだとも考えにくかった、仮にそのような動きがあるのならふたりから伝わるはずだった。
 それ以外となると心当たりがない。この三年間、風神雷神以外に何らかの形で連絡を寄越したのは片手の指で足りるほどで、彼らのうち面会に訪れたのはセルフィとアーヴァインくらいのものだ。シドとイデアに至っては手紙の一通もない。当然だ。
 一体誰だ、億単位になるであろう身銭を切って、世紀の大悪人サイファー・アルマシーの身元引受人になろうと決めた愚か者は。
 知らずのうちに乾き切っていた唇を舐める。脱いだ作業着を規定の手順で畳み――勝手に手が動くほど規則は染みついていた――待っていた刑務官に問うた。
「誰が引受人だ」
 みっともなく掠れた声を出すサイファーを一瞥した刑務官は、次の部屋に行けば分かるとにべもない。忘れ物はないかと確認されて頷くと、三年前に調書を読み上げられたあの部屋に通された。
 雨は止むことなく降り続いている。弱くもないが嵐ほど激しくもない、弱い横風を受けた雨粒が取調室の窓ガラスに降り注ぐ。世界を覆い隠し、緩慢に侵食するホワイトノイズ。サイファーの背後で重い鉄の扉が閉じる。退路が絶たれる。
 窓の前に黒い影が立っている。暗褐色の髪、ファーのついた黒いレザージャケット、革のベルトを巻いた腰からはやはり黒いパンツを纏った長い脚が伸びる。窓ガラスを伝う水滴の経路を辿っていた影は、扉の閉じる音の余韻が消えてからゆっくりと振り返った。
 青灰色の瞳は薄暗い取調室の中では暗く沈み、吹き荒れる嵐の前兆を思わせる。ふたつ並んだその眼の間に、古い切り傷が斜めに走る。すっと通った鼻梁、神経質な唇。記憶にある姿よりも少し痩せたようだ、頬骨のラインが織り成す陰影が彼をこの世のものではないように描き出す。
「スコール……」
 何故、お前が。今際の際に立たされた半死人の譫言じみたその言葉にも、スコール・レオンハートは応えなかった。

 目の前で淡々と進む手続きも、サイファーの目には入らなかった。刑務官と弁護士、そしてスコールは極めて事務的に書類を交わし合う。何枚もの書類のいちいちにスコールが署名してゆく。今日の日付、場所、氏名。肩書きは空欄のまま。
「こちらで最後です。サイファー・アルマシー氏の身元引受人となり、当局の要請があれば可及的速やかに対応することをご誓約ください」
 スコールのサインしたその紙は、次にサイファーの前に置かれた。スコール・レオンハートを引受人として仮釈放されること、当局の要請には応じること。書類と共に差し出されたペンには、まだスコールの体温が残っていた。
「手続きは以上です」
 サイファーにはその言葉こそが判決言い渡しのように聞こえていた。がたん、と音を立ててスコールが立ち上がる。青が抜けて灰褐色に見える瞳でサイファーを見下ろしている。
「どうした、行くぞ」
 その言葉に引き揚げられるように――まるでルアーに喰いついた愚かな魚のように――サイファーも立ち上がっていた。全てが離人的に遠い。ホワイトノイズが耳鳴りに掻き消される。白い影と黒い光が視界を侵食する。ついに開け放たれた外界への扉から吹き込む風がコートの裾をはためかせ、煽られた脚が縺れた。
「そこに車を停めてある。あんたは運転出来ないぞ、免許剥奪されてるからな」
「……どういうつもりだ」
 ようようのことで絞り出したサイファーの問いに、スコールは応えなかった。門の横の守衛室に来訪者バッジを返却し、吹き付ける風雨など当たらないとでも言うような足取りですたすたと歩いてゆく。慌てて後を追うサイファーのブーツの底で砂利が擦れた。この感触も三年ぶりだが、浸っている場合ではない。
「おい、答えろスコール、どういうつもりだって聞いてんだよ」
 いっぱいに伸ばした手はかろうじてスコールの左腕を捕らえることに成功した。掴んだ二の腕を思い切り引くと、その瞳が面倒で仕方ないと訴えている。自分よりも少しだけ低い位置にあるその双眸をこれほど間近に見るのは、果たしていつぶりだろうか。
「保釈されたのが不満か」
「……ッふざけんじゃねえぞ、今さら俺に何の恩売るつもりだよ」
「恩? あんたやっぱり馬鹿なんだな、変わってない」
「スコール!」
 その腕を握り締める手に力を込めてから、振り払われていないことに違和感を覚えた。戦闘員にとって三年間の空白は大きい、いかに指揮官としてデスクワークに追われていようとも、現役の兵士であるスコールがその気になれば今のサイファーが弾き飛ばされないはずがなかった。何故だ、何故こいつは――
「あんたの保釈金がいくらだったか教えてやる」
 その言葉に続いた金額は、子供がふざけて口走るようなでたらめな大金だった。思わず息を呑むサイファーのコートの襟を、レザーグローブに包まれた手が押さえる。
「分かるかサイファー、あんたは買われたんだ。おれに、この値段で」
「何、を……」
 耳鳴りがひどい。閃輝暗点が疾る、眩暈がひどい。喉元にスコールの吐息がかかる。生温いはずのそれがシヴァの愛撫より冷たい。全身の器官が心臓にでもなってしまったように烈しく脈動している。
「ガーデンも、学園長も『まませんせい』も関係ない。全ておれの金だ」
 サイファーの脳裏に風神と雷神の顔が過ぎった。学園長が動いている、イデアに掛け合う、ガーデンが何とかしてくれる。どれも真実ではなかったのだ。願望を多分に孕んだ優しい嘘を、三年間彼らは吐き続けたのだ。踊らされ流され続けた果てに末路だけは自ら選び取ろうとしたサイファーの、その決意を翻すために。
 ああ、とんでもない喜劇だ。サイファーに与えられたのは華々しい英雄譚でも、哀しく美しい悲劇でもない、滑稽でグロテスクなグラン・ギニョールに過ぎなかった。
 今、その幕が降りる。
「サイファー・アルマシー、あんたはおれのものだ。おれに買われたんだからおれのものだ。頭のてっぺんから爪先まで、細胞ひとつ残らず」
 ――もう引き返せない。どこにも行けない。罪と罰を引き受ける最後の自由さえ、サイファーには赦されない。
 分かったな、と睦言じみて囁いたスコールの瞳の蒼が視界を塗り潰す。息の根を止めるように唇が塞がれて、サイファーは眼を見開いた。