千年午睡

 窓辺の鳥籠でカナリアが鳴いている。ぴいぴいと餌を強請るそいつに、はいはいと返事をしながら指を差し出す。我が物顔で俺の指を止まり木にしたカナリアは、翼を広げて滑空の真似事。風切羽を失ったくせに立派なものだ。
 年季の入ったテーブルの上に新聞紙を敷いて餌を撒いてやる。がつがつと貪るそいつに、嘴が傷つくぞと声をかける。薄く開けた窓からは軽やかだが他人行儀な秋の風が吹き込む。そうか、夏も終わりか。
 何度目の夏が終わったのだったか、確かもう七回目か八回目。初めてあいつにくちづけてから。ガーデンを去ってから。ウィンヒルの外れの丘の掘っ建て小屋に何とか手を加えて暮らし始めてから。数えるのはとうにやめていたが、それでも数えたくなってしまう己が浅ましく思えて笑った。
 半径五十センチを跳ね回ることしかできないカナリアを眺める。あちこちに餌が散らばって酷いことになっている。鳥の躾け方など知らないからやりたいようにやらせているが、メシの度に床掃除までさせられることには辟易していた。視線を落とした新聞紙の片隅の小さな見出しが目に入る。
『エスタ再鎖国を検討、千年午睡流入を防ぐため』
 俺は見出しだけ読んで煙草を手に取る。能天気な顔で笑う男にも思うところがあるだろうが、国家としてはやむを得ない措置だろう。マッチを擦って火をつけるとカナリアが暴れて抗議した。
 煙を吐き出して酸化したコーヒーを飲む。ゆっくりと拡散する煙の向こうの扉を見る。
「……スコール」
 声は呟きにしかならなかった。もう一度その名を呼ぶ。
「スコール」
 返事はない。当然だ。だが扉の向こうから無愛想に、何の用だ、と覗く顔を幻視する。哀れなものだ、俺が。
 それこそ何度目かも分からない自嘲を漏らして煙草を揉み消す。腹の満ちたらしいカナリアが羽ばたいている。他に何の音も聞こえない。

 カナリアを肩に乗せて小屋を出る。色の濃い緑を踏みしだいて歩く。遠くに彼岸花の赤が見える。足元で待宵草が潰れている。風が草を揺らす音、自分の足音、それだけだ。
 ウィンヒルの街はしんと静まり返って人気がない。午後の柔らかな日差しの中で精巧なジオラマのようだ。小さな商店のドアは施錠されておらず、手書きの張り紙は色褪せてほとんど読めなかった。
 疎らになった陳列棚から要るものを取り上げる。食料を一通り、それから煙草。買い物袋に直接放り込む俺を咎めるものはいない。代わりにとばかりにカナリアが髪を啄ばんだ。

 それは千年午睡などといういやに詩的な名前で呼ばれるようになった。流行病の一種だが、原因が分からない。患者は眠る。それまで十八時間動けていた人間が、眠りのために活動時間を少しずつ減らしていく。一度眠ってしまったら叩いても抓っても目を覚まさない。初期ステージはまだ起きて活動することもあるからナルコレプシーに似ているが、段階が進めば睡眠と覚醒が逆転していずれ目を覚まさなくなる。
 そして、目覚めなくなった患者はそこで時を止める。一切の代謝が停止し、心肺機能や脳活動が極限まで低下、つまり冬眠状態だ。人形のように眠り続けるが理論上は生きている。老いることもないので患者がどのように死ぬのかはまだ分かっていない。

 スコールがそれに罹患したのは確か五年前の春だった。もともと昼寝が好きではあったが、眠りが度を過ぎていると俺が気付いた時にはもう遅かった。ウィンヒル住民の六割が罹患し、その八割が発症したと報道されたその中にスコールもカウントされていた。
 脛に傷のある俺を慮って、日常の買い物も含めてウィンヒルの連中と交流するのはスコールだけだったことが災いした。訪れた医師団は未罹患の俺に、彼はすでに後期ステージまで進行しており、手の施しようがないと告げてそそくさと去っていった。呆然とする俺のもとに焦燥しきったアーヴァインが電話をかけてきて、セルフィもリノアもゼルもキスティスもみな罹患したと言った。当然、本人も。
 知っているやつも知らないやつも軒並みやられていく、その中で俺だけが取り残されていた。アーヴァインからの連絡は途絶え、風神雷神も消息を絶ち、ウィンヒルはゴーストタウンと化した。民家にやはり取り残されていた飛べないカナリアを見つけて持ち帰った。スコールは昏々と眠り続けて、たまに思い出したように目を開いた。俺が目覚めていることを確認するとまた眠った。

 小屋に戻り、カナリアを籠に入れる。散歩がお気に召したのは結構だが、甲高い囀りが耳につく。俺は荷物を置いて寝室に入った。スコールが眠っている。髪の毛の一筋も乱さず、穏やかな寝息を立てて。ベッドサイドの椅子に腰を下ろして、拭いようのない疲れを感じていた。
 眠りに就く世界に置き去りにされている。老いることなく時間を止める人々はアルティミシアの理想に賛同したようで、そのバスに飛び乗れなかった俺はこうして飛べない鳥の世話に明け暮れるしかない。一度だけ電話を寄越したラグナがエスタに来いと言ったのを思い出す。感染者はクリーンエリアであるエスタに入れないので、スコールを置いていくつもりはないと返すと、電話の向こうで泣いていた。
 泣けたならどれだけ良かっただろう。目覚めないスコールに喜怒哀楽全てを持っていかれたように俺は呼吸だけを繰り返している。

 数か月前にふと目を覚ましたスコールは、何かを言い淀んで、散々に言葉を探していた。それがありがとうだろうが愛しているだろうが置いて行けだろうが、とにかくどれであっても聞きたくなかった俺はその唇を塞いだ。スコールが再び眠りに落ちるまでキスをして、腫れ上がった唇を離した時、丘の向こうから明けていく夜を見た。
「スコール」
 スコールは眠っている。目を覚まさない。恐らくはもう二度と。俺は千年午睡に呼ばれないまま一万回の朝と夜を見る。滑らかな額にくちづけた。互い違いの傷は薄れないまま、時を止めたおまえ。冷えた指先。俺には訪れない眠り。愛している、その言葉がどこにも届かないのを知っていた。