月が明るくて星が見えない。我が物顔で闇を支配する夜の王者はスコールの眼前に迫り、その表面で蠢く魔物の姿さえ見えそうだった。
スコールはひとり、バルコニーに立っている。デリングシティでも一等の高級ホテルの最上階だ。視界を遮るものは何もない。冷えた夜風にブルネットを遊ばせて、夏が終わったのだと知る。
待ち人はまだ来ない。時計は夜半に差し掛かろうとしていた。
伝言を受け取ったのは三月前のことだ。執務室で山積みの書類を捌くスコールの元にやってきたあるSeeD候補生は、その週の日曜にバラムの港へ行って、釣りをしている男に会えと言った。なんだそれはと眉をひそめる指揮官に気圧された彼は、自分もそのような伝言を預かっただけなので、とまごまご言い訳をした。
トラブルの火種があってはいけないと律儀に港へ向かうと、そこには途方に暮れた顔の壮年の釣り人がいた。指示通りに来たが、と声を掛けると、次の週の土曜にドールのどこそこへ行けと言ってほっとしたように立ち去った。
スケジュールをやりくりしながらドールへ、その次はF.H.、セントラ、エスタと文字通り世界中を振り回された。どこに行っても同じなのは、会ったこともない一般人が困り顔で伝言を預かっているということだけだ。ドールで会った中年の女性は、言われた通り綺麗ね、額の傷がもったいないけれど分かりやすくて助かったわ、と言った。スコールとて一応男なのだから綺麗だと言われても嬉しくない。ともあれメッセンジャーたちにとっての目印は、整った顔面に走る、結局消えなかった額の傷のようだった。
最後の伝言は、一体どうしたわけかアーヴァインが持ってきた。その前のメッセンジャーに、来週はバラムガーデンの執務室で待てと言われたスコールがまんじりともせず待っていると、やあ元気、と顔を出したのは久しぶりに会う狙撃手だった。
呆気にとられるスコールにアポイントは再来週の土曜だと告げて、彼は一通の封筒を差し出した。ぴったりと封をされたそれは開封された形跡がない。
僕は何も見てないし、伝言以上のものは聞いてないんだ、ごめんね。とにかく伝えたし渡したよ、と肩の力を抜いたアーヴァインはこれまでのメッセンジャーたちと同じように安堵の表情を浮かべていた。
彼が立ち去ってから封を切る。無機質な白いカードには、ホテルの名前と、この偽名でチェックインしろとだけ書かれていた。右肩の上がった癖のある筆跡に見覚えがないと言うわけにはいかなかった。
かちり、と時計の短針が動く音が聞こえた。ひどく迂遠で手間のかかるはた迷惑な方法でスコールを呼び出した男は、まだやって来ない。もうすぐ日付が変わる。人を呼びつけておいて失礼極まりないが、スコールはそう不機嫌でもなかった。
今にも雫をこぼしそうな月を見る。熟れきった満月。夜空をこんなにゆっくり見るのはいつぶりだろうか。
(——ああ、そうか、)
あれは魔女戦争が終結してすぐのことだ。あの夜も満月だった。見上げた男の髪が月光と同化して、ひどく眩しかったことを覚えている。
瞼を閉じて、男の声を記憶の底から引き揚げる。冴え冴えとスコールを刺すエメラルドの輝き、体躯を這う掌の熱、貫かれた衝撃に震えるスコールの長い前髪を搔き上げる指の繊細な動き、果てる瞬間の押し殺した呻き声。吐き出せど吐き出せど退かぬ情動に弄ばれながら、翌日にはガルバディア政府に引き渡されることになっていた男の腕の中で、スコールは月を見ていた。
あれから三年が経ち、戦犯となった男の処遇は明らかにされないままだった。管理元であったことを理由にバラムガーデンが再三問い合わせてもなしのつぶてで、ただ死んではいないだろうと信じるしかなかった。
今夜、本当に彼はやって来るのだろうか。ガルバディアは依然として政情不安定だ、これがスコールを陥れる罠で、彼がそれに一枚噛まされている可能性も大きい。それでも。
(——あんたに会えるなら、と言ったら、笑うか?)
想像の中の男より先に自嘲する。その耳に、オートロックが解除される小さな電子音が届いた。振り返らないスコールの背後で、扉がそっと開く。毛足の長い絨毯を踏みしめて、足音が近づく。
「……スコール」
反芻した記憶よりも低く掠れた声が名前を呼ぶ。スコールはまだ動かない。目を閉じて、男の気配に神経を集中させる。もうそこにいる。腕を伸ばせば届く。
「スコール」
もう一度呼ばれたのと、抱きすくめられたのは同時だった。抗わず身を委ねるスコールは、瞼を開けてもう一度月を見た。その輪郭がぼやけて溶ける。塞がれた唇に、火傷しそうな吐息を感じた。