ポンコツな恋が始まるまで

 ヴィンセントの体調が芳しくないらしい、という報せを持ってきたのは何故かシドだった。そういやよ、と何気ない調子で添えられたそのひとことに、リーブはぎゅっと眉根を寄せる。
「具体的には?」
「何か知らんが、動悸が出るらしい。いつもってわけじゃねえとは言ってたが」
「それは……」
 ざわざわと落ち着かない気配を覚えて、咳き込むように問うた。
「シド、その話はいつ?」
「三日前、こっちに来る時だな。飛んでる間は暇だからどうでもいい話してたんだが、そん時に」
 そうですか、と口の中で呟く。またしても放浪の旅に出ていたヴィンセントは、シドの言う通り三日前からこの街に滞在していると聞いていた。ちょうどリーブに用事のあったシドの飛空艇に便乗したらしい。リーブにはいつ行くとも言わないくせにシドとは連絡を取っていたらしいことに悋気を覚えないでもないが、ただの友人に過ぎない自分がその狭量な感情を表に出す資格はないと知っている。――それはさておき。
 ヴィンセントは、見た目こそ端正でやや線の細い印象もあるが、そもそもが精強な戦闘員だ。一線級のタークスとして、あるいはクラスファーストのソルジャーさえも凌駕する過酷な激務をも経験してきた彼の身体に現れる不調といえば、それはなまなかなものでないに違いない。
 何よりリーブを憂虞させるのは、ディープグラウンドの戦いからまだ一年と経っていないという事実だった。あの激戦――最終的にすべてをヴィンセントに引き取らせてしまったという忸怩たる思いは、未だにリーブの寝つきを悪くするのだ――をもって不死の鎖を断ち切ったヴィンセントだったが、カオスを喪ったことによる心身への影響は未知数だ。事件後、大小の傷を癒すとともに行われた精密検査の結果としてはヴィンセントの肉体は「普通の」人間として問題はないというものだったが、何らかの異常が遅れてやってくることは想定して然るべきだった。
 考えるほどに不穏さを増すリーブの表情を細めた目で眺めていたシドだったが、くあ、と生あくびを噛み殺して苦笑した。
「まあ、そんなに深刻な感じでもなかったぜ」
「しかし……」
「第一、理由なんてほとんど分かってんだからよ。まあ気にすんな」
 そんじゃあな、と片手を上げてシドが踵を返す。理由が分かっているとはどういうことなのか、聞き損ねたリーブは座り慣れた椅子に腰を下ろし、組んだ両手の指に額を預けた。

 気にすんな、とシドは言うが、心配なものは心配なのだ。なんとなれば、リーブはヴィンセントに恋をしているからである。
 いい歳をして恋などと、とは言うなかれ。早咲きだろうと遅咲きだろうと恋は恋であり、ヴィンセントやクラウドほどではないにせよそれなりの波瀾万丈をくぐり酸いも甘いも噛み締めてきたリーブには、これぞ恋に他ならないと断言するに足る人生経験というものがあるのだ。
 恋に至った経緯はわざわざ説明する必要もないだろう。重要なのは、リーブがヴィンセントに惚れていて、数か月に一度の頻度で行われる穏やかなサシ飲みが嬉しくて、できればその頻度がもう少し上がってくれるともっと嬉しくて、感情の起伏に乏しいと思われているヴィンセントの表情が存外にわかりやすく動くことを知った満足感があって、その声が酒精の量と比例してどんどんくだらないことを喋り始める瞬間が愛おしいこと、さらに欲を言えば彼の、例えば静かな春の夜に降る雨のような黒髪だとか、肉の薄い頬を覆う石膏のような肌だとか、針葉樹の枝のように伸びる首筋だとか、ガントレットに隠れた硬い指先だとかに触れることを許されると想像しただけで心が湧き立って、そのさらに先、おそらくはヴィンセントが神羅屋敷の地下で長い眠りに就くことを決意してからずっと誰にも晒されなかったはずの身体の温度を知ることができればそれはどんなにか幸せなことだろうと、そんなやくたいもない空想だけでワインのボトルがすっかり空いてしまうような、そんな欲望が指し示すものはもはや恋以外の何物でもない、ということだ。
 足の裏から焦がされるような恋慕の対象が、些少とはいえ身体の不調を覚えているという。これは大問題だ。何らかの手を打たねばなるまい、とリーブは頭脳を猛スピードで回転させる。大丈夫だ、問題解決能力には自信がある。何しろ魑魅魍魎の跋扈する神羅で――最終的には干されていたとはいえ――一部門を預かる身であったのだ。叩けば叩くほど問題ばかりが生えてきたあの頃を越え、今は世界再生の大業を軌道に乗せつつあるという自負もある。
 リーブはいそぎ、オンライン医学辞典を立ち上げて「動悸」を主訴とする不調の原因を調べ始めた。素人診断をしようというのではなく、それぞれの分野に詳しい医師のあたりをつけるためである。同時にメッセンジャーアプリでヴィンセントにコンタクトする。こちらに来ているのなら声をかけてくださればいいのに、と恨み言めいてしまったのもまた、恋の成せる業にほかならない。

 ヴィンセントはしばらくの間、ジュノンとミッドガルを行き来して過ごすことに決めたようだ。単に次の旅先として食指の動くあてが今のところ見当たらない、というだけのようで、思いつけばまたふらりと行ってしまうのだろう。行くあてなどこのまま見つからなければいいと思うリーブの内心は、きっと悟られていないと思う。
 何か人手が必要ならば言ってくれ、単発ならば請け負う、などとまたぞろリーブの心をよろめかせるようなことを言う男は、見たところ至って平常、顔色も良好だしグラスを傾ける速度にも変わりはないようだった。
 今夜はWROオフィスからほど近いビストロがふたりの逢瀬――いやさ、会食の場だった。小ぢんまりとして、騒がしくなく、ウェイターの愛想はさして良くはないが味は確かだ。この手の店をヴィンセントが気に入るということも、当然のことながらリーブの頭にはきっちり刻まれている。
 夏野菜とイカのフリットをタルタルソースにディップして口に放り込むヴィンセントの姿を目の前にするだけで、リーブは八割がた満足していた。ヴィンセントが美味そうに飲み食いしているというだけで、いいなあ、などと思ってしまうのだ。彼の生命活動そのものさえが眷恋の対象だった。笑わば笑え。こうして談笑しながら盗み見る眼球のカーブの具合さえ、リーブにとっては愛すべきもののひとつなのだ。
 ヴィンセントの放浪癖にいささかの恨みはあるものの、とはいえ彼から聞く旅先のあれこれは面白い。彼がミディールの宿屋でバックパッカーの痴話喧嘩に巻き込まれた話など、つい声を立てて笑ってしまったほどだ。
「それじゃヴィンセント、あなたまるっきり……」
「巻き込み事故もいいところだ。内輪差に見事に引っ掛けられたな」
「ははは、内輪差って」
 笑う時にぎゅっと両目を瞑ってしまうのはリーブの癖だ。ひとしきり笑って瞼を上げると、小さなテーブルの向こうでヴィンセントが右手を胸に当てているのを見た。
「――どうしたんですか、ヴィンセント」
 不意に酒気が抜けて、背筋が伸びる。まさかと思って問えば、ヴィンセントは掌で左胸のあたりをさすりながら苦笑した。
「大したことではない」
「どこか痛むんですか」
「いやなに、少し動悸がな」
 ほら来た、やっぱりだ。リーブは綿密な調査の末に完成した医師リストを頭の中でめくりながら、少しだけ身を乗り出す。
「動悸? 苦しいですか? いつからです、まさか今日も無理をして」
「そんな顔をするな、本当に大したことでは」
「ヴィンセント」
 あえて仕事中に使う声を出した。叱りつける一歩手前、煮え切らないことを言う相手を制するための声だ。さしものヴィンセントも気まずそうに目を逸らしたまま、逃げるようにグラスを口に運ぶ。
「言っておくが、無理をしてここにいるわけではないぞ」
「それならいいんですが……他に症状は?」
 素人診断はしないと決めておいたくせに問診のような言い方をしてしまう。ヴィンセントも、まるで医者のようなことを言う、と呟いて、呼吸一回分の沈黙を置いてからぽそりとこぼした。
「頭がほてる、ような気がすることもある」
「頻繁に?」
「いや、たまにだ。本当に」
 ヴィンセントが本当に本当にと繰り返すほど、リーブの焦燥は募った。重ねて問い詰めた結果、ヴィンセントの自覚症状は動悸と頭部のほてり、集中の欠如。しかし、症状が出るタイミングに一貫性はないと言う。
「一度、お医者さんに診てもらったほうがいいのでは」
「そうだな……」
 気のない返事だ。そもそも医者というものに縁遠い人物なのだから、無理からぬことかもしれない。しかしここで強いて機嫌を損ねられるのもリーブの本意ではない。何故ならこれは久しぶりのデート、ではなく会食なのだ。
 タルタルソースから刻みピクルスの破片を選り分けるヴィンセントを眺めながら――ああもうなんで脈絡もなくそういう子供じみたことをするんですか可愛いなあもう――リーブは結論した。彼を病院へ誘導するのは今ではない。今度、ひとつ仕事を頼む時にでも。そう、まるでついでのように、さりげなく。
「……無理はしないように、くれぐれも」
「分かっている」
 そう返したヴィンセントの頬は、確かに酒のせいでなく血色がよくなっているようだった。

 その次の週、予定通り仕事を依頼するためにリーブは再びヴィンセントと顔を合わせていた。こたびの会場は残念ながらリーブの執務室だが、あわよくば今夜のディナーも共にしたいところだ。
 信頼できる循環器科は紹介状が必要だったので、まずはリーブのかかりつけ医にヴィンセントを誘導する計画だった。地図と電話番号をメモした紙もぬかりなく準備し、ヴィンセントのおとないを待つ。
 予定時刻きっかりに扉を開けたヴィンセントの姿に、心底からの笑顔が出た。誰ぞの葬式から帰ってきたような仏頂面でも、リーブにしてみれば見惚れるほどの美貌だ。
「お待ちしてました、ヴィンセント」
 そのヴィンセントはといえば、リーブの顔を見るなり息を呑み込んで動きを止めてしまった。どうしたことだろうか、ひょっとしてとんでもなくだらしない顔を晒してしまったかもしれない、と笑顔を引っ込めるリーブの前で、ヴィンセントはまたしても胸元を手で押さえている。
「動悸ですか?」
「ああ」
 静かに深呼吸を繰り返し、脈は落ち着いたらしい。すまなかったな、と目を伏せるヴィンセントに応接用ソファを勧めながら――その瞼に触れて睫毛の一本一本を心ゆくまで愛でたい、という欲求には蓋をして――リーブもその向かいに腰掛ける。すかさずコーヒーを運んでくれた秘書は、音もなく一礼すると退室した。非の打ちどころのない秘書である。
「医者には?」
「まだ行っていない、かかりつけもないのでな」
 それなら僕の、と言いかけたのにヴィンセントが言葉をかぶせた。
「更年期障害」
「は?」
「更年期障害の症状と一致しているそうでな」
 不規則に起こる動悸とほてり、唐突によそごとを考えてぼんやりすること、など。更年期障害によくあることらしい。
「――と、ユフィが言っていた」
「はあ……」
 なぜそこでユフィに相談するのか問い詰めたい気持ちもなくはないが、彼女に話したヴィンセントの思考も分からなくはない。かのウータイ娘は忍の末裔を自称するだけあって、妙に博識なのだった。
「しかし、更年期障害とは限らないでしょう」
 ひと昔前は中年から初老の女性に特有と考えられていた更年期障害が、実は男性にも起こりうるということはリーブも知っている。しかしヴィンセントは、その肉体が不老不死であったために、少なくとも身体はまだ更年期というには早すぎるはずだ。首を傾げるリーブの視線を受けたまま、ヴィンセントは肩を竦める。
「そうではないとも断言できまい。この身体がまともだと誰が保証できる」
「ヴィンセント……」
 カオス因子に運命を狂わされた男の自嘲を、リーブはもどかしく受け取るしかなかった。この件に関しては、彼の憂いをさっぱり拭い去ってしまいたいという気持ちばかりが先走り、リーブはいつでも言葉を探し損なう。
 リーブの胸を蝕む苦渋を察してか、ヴィンセントは前髪を払い顔を上げた。
「あるいは自律神経失調症かもと」
「ああ、それもあり得ますね」
 先週ビストロで聞いた話によれば、ヴィンセントはミディールから一気にアイシクルまで飛び、そこでシドの飛空艇を捕まえてミッドガルまで来たのだそうだ。温暖な温泉地から十度以上も気温の低い雪山に短期間に移動すれば自律神経が調子を狂わせることもあるだろう。
「それならなおのこと、この辺りでゆっくりされるべきですよ」
 リーブはごく個人的な願望を、もっともらしい推奨のかたちで包み込んでヴィンセントに差し出した。身体症状が出るほど神経が疲れているのだから、あちこち旅をして回るのもほどほどにしては――というのもちゃんと真摯な助言だが、要は彼に近くにいて欲しい。
 リーブが誘導するまでもなく、幅広く診てくれる医者の心当たりはないかとヴィンセントが尋ねてきたため、用意していたメモを渡す。リーブ・トゥエスティの紹介だといえばいいですよ、と添えれば、ヴィンセントは神妙に頷いてから唇を綻ばせた。
「おまえには世話になるな」
「いくらでも。あなたに頼っていただけるなら」
 本望です、と言い切ることができなかったのは、その台詞が恥ずかしくなったからではなく、ただヴィンセントの衒いのない笑みに見惚れてしまったからだ。

 ヴィンセントに依頼した一件は、どうやらシドの助力を得て解決したらしかった。なんでも、関係者のひとりがシドの知人だったとかなんとか。その伝手を辿った結果、問題が速やかに片付いたのだから依頼主としては言うことなしの結果なのだが、そのために数日間、シドとヴィンセントが行動を共にしたと聞くのは面白くない。
 ともあれ報告を聞くため、先日と同じようにリーブは執務室でヴィンセントを待っていた。いちおう、シドもやって来ることを想定している。心情はどうあれ、彼にもしかるべき礼はしなくてはならない。
 予定の時刻より五分早く、執務室の扉がノックされた。お入りください、とリーブが返すより早く扉が開く、このせっかちさは間違いなく。
「おう、ご苦労さん」
「……お疲れ様です、シド」
 我らが艇長、シド・ハイウインドである。鉄板入りのワーキングブーツをどたどたと鳴らして歩くその背後で、遠慮会釈なく扉が閉じる。
「ええと、ヴィンセントは」
「お、あいつか? あいつはアレだ、何か野暮用があるとか言って、ちょっと遅れるとさ」
 野暮用とは一体。しかしシドを問い詰めても、それ以上の説明は求められないだろう。おかしな隠し立てやごまかしをしないのがシドの美点だが、それは裏を返せば隠しごとをするほど他人に興味がないからでもある。飛空艇やスペースシャトルを差し置いて彼の興味関心を奪う有機体がこの世に存在するのなら、ぜひとも一度お目にかかりたいくらいだ。
「ほれ、頼まれてたブツだ」
「ありがとうございます」
 ニッカーボッカーズのポケットからひしゃげた煙草の箱と共に引っ張り出された記録媒体を受け取る。回収を依頼したものだ。データを確認するよう部下に回して、その待ち時間に報告を聞くわけだが、誰もが予測できる通り、シドの報告は報告の体を成していないのが常だった。
「アレを盗んだやつは叩きのめしといたぜ」
「叩き……」
「ごめんなさいもうしませんって泣いてたから、まあ大丈夫だろ」
「泣いて……」
「しかしまあ狭っ苦しいところに隠れやがってあの野郎、モップ持ってって正解だったな」
「モップ……」
 WROオフィスの清掃人に扮していくばくかのデータを盗み出した小悪党は、ヴィンセントとシドに居場所を突き止められ(ちなみに、この小悪党が身を潜めていた安宿のオーナーがシドの知人だったそうだ)、この世の道理というものを骨髄に徹するまで叩き込まれた、という次第だった。ゆすりたかりの常習犯にはまるで同情できないが、綺麗で怖いお兄さんとワイルドで怖いおじさんのタッグから熱烈な教育的指導を受けた犯人にはいくばくかの憐憫を覚える。
 細かい点をいくらか確認し終えたところで、データを確認していた部下からも問題ない旨の報告が入る。一件落着だ。別に大したことはしてねえよ、と笑うシド――こういう気前のいいところも彼の愛すべき点のひとつだ――に謝礼を握らせて、その頃になってやっとヴィンセントがやって来た。
「ヴィンセント、お疲れ様でした」
「すまない、報告は終わったか」
「おう、ばっちりな」
「おまえのばっちりは今ひとつ信用できん」
「んだとぉ」
「ははは」
 ざっくばらんに過ぎる部分はあったものの、とはいえシドの話で報告としては必要十分だ。そのまま三人で雑談の流れになる。
「そういえばヴィンセント、ご用事の方は大丈夫でしたか」
「ああ、検査結果を聞いてきた。ちょうどこの時間しか予約が取れなくてな」
 ヴィンセントはちゃんとリーブの勧めた医師にかかったらしい。それで結果は、と聞くのにかぶせてシドが素っ頓狂な声を上げる。
「検査だあ? おまえ、どっか悪いのかよ」
「いや、前に話しただろう。動悸がすると」
「それでおまえわざわざ医者に?」
「ああ。自律神経失調症か、更年期障害か……」
 しごく真面目な顔で説明するヴィンセント(と、検査結果を聞くまでは憂い顔が消せないリーブ)だったが、シドはあんぐりと口を開けて天を仰いだ。
「まじかよ……信じらんねえ」
「シド、少しの不調だからといって甘く見てはいけませんよ。飛空艇と同じです、こまめに点検することで――」
「そういうことじゃねえってんだよ! クソっ、俺の負けじゃねえか!」
 シドが吼える、のだが言っている意味が分からない。ぽかんと呆気に取られるふたりの目の前で、シドは足を踏み鳴らし髪を掻きむしり、とにかくたいそう悔しがっている。
「おまえらが揃ってここまでポンコツだとは思わなかった!」
「シド、何の話だ」
「いい歳こいた連中が雁首揃えてよ〜、これでいくら呑まれると思ってんだこんちくしょう!」
「ええと、ヴィンセント、それで検査結果は」
 訳の分からない罵倒を繰り出すシドはさておき、リーブはヴィンセントに向き直る。ヴィンセントはヴィンセントで神妙な顔のまま、医者から貰ったらしい大判の紙を広げた。血液検査の分析結果のようだ。
「結論から言えば、病気の兆候はないそうだ」
「ああ、それはよかった」
「ここがホルモン値で、上が男性ホルモン、下が女性ホルモン……三十代男性としてはほぼ平均値とのことだ」
「なるほど」
「がーっ! 何がホルモン値だこのすっとこどっこい! こんがり焼いて食っちまうぞ!」
「それからこれが血糖値、これとこれが鉄欠乏を見る項目、こっちが甲状腺の……」
「どれも問題なしですか。あ、ガンマGTPも尿酸値も基準値内ですねえ、立派です」
「おまえら当てつけか、どっちもこないだの健診で基準値の倍出ちまった俺への当てつけか!? もう動悸関係ねえだろガンマGTPも尿酸値も!」
「えっ、倍はまずいですよシド、さすがに」
「痛風は恐ろしいぞ。ビールを控えろ」
「うるせえっ!」
 ひときわ大声でがなり立てたシドは、頭を掻きむしったせいでほとんど外れていたゴーグルを床に叩きつけると、捨て台詞と共に走り去った。
「一生やってろ!」
「……どうしたんでしょうシドは」
「更年期障害かもしれんな」
 ヴィンセントが床の上で所在なさげなゴーグルを拾い上げた。煙草と並んでシドのトレードマークのようなものだ、早く返却するならリーブよりヴィンセントが持っていた方がいいだろう。
 シドの不可解な乱心はさておき、ヴィンセントの健康上の懸念が払拭できてなによりである。もう時間も時間だ、せっかくだから仕事は仕舞いにして軽く祝杯というのはどうだろう。
 ――という誘いは、しかし慎ましく退けられた。
「ああ、何か先約がありましたかね。すみません、急にお誘いして」
「いやそういうわけではない……のだが」
 ヴィンセントは何かを言いあぐねている。らしくもなくもごもごと口籠もる彼が珍しく、また当然のことながら可愛らしく、内心ときめきながらも表面上は平静を装って続く言葉を待った。
「その、」
「ええ」
「動悸がひどい」
「今ですか?」
「ああ。頭のほてりも引かないし、思考が不明瞭だ」
 俯くヴィンセントの手指がシドのゴーグルを弄ぶ。金具をかちゃかちゃと鳴らし、いかにも落ち着かない様子だ。
「そうですか、困りましたね……病気の症状でなければ、治す方法も分かりませんし」
「ああ」
「ずっとこんな調子でしょう、つらいですよね」
 血液検査の結果に問題がなかったとはいえ、総合病院で精密検査を受けた方が、と続けようとしたが、ヴィンセントは首を振った。
「いや、いつもではない」
「そうなんですか?」
「ああ。その、気を悪くしないで欲しいのだが、おまえといる時ばかりだ」
「……え?」
 幻聴かと思った。不意を突かれたリーブをよそに、ヴィンセントは粛々と言い募る。
「おまえといる時だったり、おまえに連絡をする時だったり……とにかくリーブ、おまえに関係する時ばかり動悸が出る。おまえに理由を求めるつもりは毛頭ない、恐らくはただの偶然だろうが、とにかく、」
「っと、ちょっと待ってくださいヴィンセント」
 とんでもないことを聞いた気がする。というか聞いた。確かに聞いた。リーブは片手でヴィンセントを制し、もう片手を己の額に当てて、努めて冷静に反復する。
「僕の耳が正常に機能しているという前提で確認しますが」
「ああ」
「動悸やほてりが出るのは、僕といる時だけなんですか?」
「正確には、おまえといる時やおまえに連絡を取る時だ」
 ヴィンセントが手の中のゴーグルを握り締める。ああ、こんな話をしている時にどうしてそんなものにあなたの両手を取られなくてはならないのか。
「ヴィンセント、拡大解釈かもしれませんが……つまり、あなたは僕のことを考えると、胸がどきどきして頭がかーっとなる、ということで合ってますか?」
「なぜ表現が急に稚拙になったのか理解しがたいが、概ね合っている」
 ――そういうことだったのか。
 リーブは落雷に撃たれたような衝撃を覚えた。この瞬間、すべてが明らかに、確かなものとして理解できた。ヴィンセントを悩ませ続けた動悸の真の原因も、シドがふたりを指して「ポンコツ」と罵った理由も、それから己の前に広がる前途に幸福が約束されていることも、一切合切がこの上なくクリアに、かつ現実のものであると間違いなく了解できたのである。
 リーブ・トゥエスティそろそろアラフォー。世間は夏を迎えようとするこの日、彼の人生における最上の春の訪れを知らせるラッパが高らかに鳴り響いた。
「そうですか……」
 しかしリーブは深呼吸を忘れない。なぜならもうすぐアラフォーだからだ。ティーンエイジャーだった青い時代は遥か彼方、ましてや己の執務室でがっつくようなみっともない真似はできなかった。
 殊勝な顔つきで沈黙するヴィンセントに向き直り、リーブはもうひとつ深く息を吸った。できるだけ柔らかく、その手からシドのゴーグルを奪う。
「ヴィンセント」
「どうしたリーブ、すまんが手を離してくれ、動悸が悪化する」
「ヴィンセント……今夜は逃がしませんよ、僕とゆっくり話をしましょう」
「よせ、顔が近い、手を握るのをやめろ」
「大丈夫ですヴィンセント、何も怖いことなんかありませんから」
「聞けリーブ、おい、離せ、私はこれから別の医者を」
「ふふっ、医者はもう必要ありません。さ、行きましょうか」
「精密検査を受けに、待て、ケット・シー! いないのか、助けてくれ!」

 一方その夜、エッジ某所のセブンスヘブン、カウンター席にて。
「だあから言ったじゃん、ぜっっったい気づかないよって!」
「だー! あそこまでアホだと思わねえだろうが! なんなんだあいつらは!」
 いやあ勝利の美酒ってやつだねえ、とご満悦なユフィと、掻き回しすぎて鳥の巣状態の頭を抱えるシドの対比たるや、もはや見事としか形容しようのない天国と地獄だった。
「本当に病気だと思ってたなんてね……」
 カウンターの中で苦笑するティファに、ユフィが早くも三杯目のおかわりを要求する。ようやっと陽が傾き始めるかどうかの時間だというのに、彼女のグラスはセブンスヘブンで最も単価の高い酒で満たされた。何も問題はない、なぜなら今夜はシドの払いになるのだから。
「っつーかユフィよお、おまえヴィンセントに変な入れ知恵しやがったろ」
「変じゃないっての。一般常識でしょ」
「タークスの試験に一般常識は含まれてねえんだよ!」
 妙に説得力のあるシドの泣き言に、そうかも、と感心するティファである。本当かどうかはさておき。
「それに、アタシが話したのはヴィンセントだけだもん。おっさんの方とは何も話してないもん」
「もん、じゃねえわ! クソ、呑むならもっとありがたがって呑め! いくらすると思ってんだそれ!」
「はー、いいお酒はスルスルっと入っちゃうねえ。ティファ、おかわり〜」
「そんなペースで大丈夫なの?」
「へーきへーき」
 ごきげんそのもののユフィは、フードメニューを眺めて笑う。肉でも魚でもなんでも来いだ、そのために今日は昼を軽く済ませてきた。
 奇妙な不調を訴えるヴィンセントは、はたから見ていればリーブに恋をしていることが明らかだった。しかし本人はまるで気づいていない。そこで善良なる傍観者であるユフィとシドは、大切な友人の幸いなる未来を祈りつつ、賭けをしたのであった。すなわち、ヴィンセントは己が恋をしていると自力で認めることができるのか。
 何らかの形でヴィンセントが己の恋心を自覚できる方に張ったのがシド。気づけない方に賭けたのがユフィ。期限はひとまず一か月、その間にリーブが――なお、彼もまたヴィンセントに恋をしていることはすでに確定的に明らかである――痺れを切らして進展したらノーゲーム。結果はご存知のとおり、ユフィの勝利と相成った。
「せっかくだからティファも呑みなよ。クラウドももうすぐ帰ってくるよね?」
「うん、バレットと一緒だと思う」
「いいね! じゃあもう今夜はパーティーだよ!」
 さすがに店は閉められないけど、と笑いながら、ティファが新しいグラスを出す。その横にシドのグラスも並んだ。まずはこの三人で乾杯だ。せっかくだからナナキとケット・シーも呼んでやるんだった、と思ったが、何しろ急な話だ。第二回を企画するべきだろう。
「はいはい、乾杯しよ乾杯」
「俺の金でな!」
「ごちそうさまでーす」
「ぐあー!」
 何に乾杯するかって、そんなものひとつきりだ。
「ヴィンセントとリーブの恋に、かんぱーい!」
「ポンコツとポンコツの恋に、カンパイだこんちくしょう!」