左手

 そこは果ての知れない暗闇だったので、ああこれは夢なのだなとリーブにはすぐに分かった。だってあまりに非現実的だ、真っ黒がどこまでも広がる何もない世界なんて。空気は動いていないからどこか室内なのだろうと推測したが、壁も天井もなさそうだ。質感を徹底的に失った空漠、もしこの両目の網膜が機能を停止していれば脳髄は世界をこんなふうに捉えるのかもしれないが、あいにくとリーブは失明した記憶がなかった。
 辺りの状況を伺うことに飽きてそろりと身動ぐ。こう暗くては自分でも曖昧だったのだが、どうやら自分は己の両脚で立っているようだった。その感覚を裏付けるように、くるぶしの周りで何かが揺蕩う。
(――水?)
 右脚を持ち上げてみると、なるほど確かにちゃぷんと音がした。ちょうど体温と同じ温度らしい水はこれといった匂いもなく、少なくとも汚泥の類ではなさそうだ。慣れない片足立ちによろめいて、咄嗟に伸ばした右手の指先が濡れる。
 けったいな夢や、と短い息を吐く。もうリーブには夢だと分かってしまったのだから覚めればいいものを、触覚も聴覚も嗅覚も現実通りに働いて場面の継続を告げる。
 相変わらず暗い。光源もないから視覚は役に立たない。己の両手さえ視認しかねてリーブはうんざりと天を仰いだ。水は相変わらず足元を揺らしている。その下にはコンクリートらしき感触の床があるようだった。
 ここに立ち尽くしていても仕方がないと、奇妙に重い足を動かす。どこに向かっているかなど分かるものか。前も後ろも右も左もない、上と下だけがかろうじて成立している闇のわだかまり。見通せない空間、味のない空気、五感の半分を奪われたリーブはずるずると足を引きずって動く。進んでいるのか戻っているのか、いずれにせよ覚めない夢はその肩にずるりとのしかかっていた。
 身体がひどく重い。骨格は錆びた鉄棒のようだし、内臓は泥水を含んだ真綿のようだし、脳は水銀のように怠惰に溶け広がる。果たして今の自分がきちんとした人間のかたちを取っているかどうかも怪しいものだ。
 ざぶざぶと水をかき分けていたことで、リーブは重大なことに気づくのに遅れた。すなわち、水嵩がじわじわと高くなっていることに。歩き出す前はくるぶしを浸す程度だったものが、いつの間にか脛を超えて膝に届こうとしていた。概算で20cmの水深が加算されたのは、時間にして5分内外。つまり、この後30分もここを彷徨っていれば水面はリーブの喉元にまで及ぶだろう。それが溺死までのタイムリミットだった。
 まったくもって悪趣味極まりない、誰の考えたことかは知らないが――と声には出さず毒づいたところで、そもそもこれは己の夢なのだから、発案者も自分自身なのだと思い当たる。脱力的な笑いを覚えたが、こんな無明の世界で声を上げて笑いでもしたら本当に発狂してしまいそうだったから、吸い込んだ息をぐっと呑み込むことでこらえた。
 しかしながら、悪いことばかりではない。水が増えているということは、どこかに水源があるということだ。夢というのは総じて荒唐無稽なものだから、この水が無から湧き出ている可能性もないわけではなかったが、リーブは自分の性格をある程度は理解しているつもりだった。つまり、水を増やすならそれを供給する仕組みを――自分ならば――用意するはずである、ということだ。結果があれば原因がある、原因がなければ結果は生じない。
 順調に深まる水が両脚にまとわりつくのを煩わしく思いながらうろついていると、果たして何かが天から吊り下がっているのを発見した。遠目ではそれが白いロープのように見えるが、同時に鼓膜はどぼどぼという水音を受け取っていた。
 すでに腰骨にまで絡みつき始めた水に抗うことをやめて、半ば泳ぐようにして接近する。無様な蛙のように下肢を動かしたリーブが辿り着くと、それは長い長いパイプであることが分かった。
 なんの変哲もない金属製のパイプ。ところどころに錆が浮き、分厚い塗装が鱗のように剥がれかけている。見上げても天井らしきものは見えず、やはり深く凝るタールのような闇が覆い被さっているだけだ。パイプの下端は折り千切られたように断たれていて、そこから水が吐き出されていた。供給量が安定していないのか断続的に溢れる水は、がぼ、ごぼごぼ、と濁点付きの擬音と相まって、肺を患った人間の切なげな咳発作に似ている。
(止めなくては)
 リーブはパイプの周りをぐるりと眺め、どこかに止水弁がないか探す。いくら夢とはいえ、このまま溺れ死ぬまでぼんやりしているのもそれこそ目覚めが悪そうだ。
 自分の頭より少し高い位置に、それらしいねじがいくつか嵌っている。こちらか、それともこれかとあれこれ捻ってはみるが、どれもくるくると回るばかりで一向に働く気配がなかった。
 腕を伸ばしたまま作業することに疲れてふと息をつく。水はリーブの胸元に届いてしまった。時間がない。ねじは回転する。右に捻っても左に回しても手応えはなく、ただ回っている。きゅるきゅると金属の擦れ合う音が嘲笑に聞こえる。
 この嘲笑をよく知っている。わざとらしく吐きかけられる葉巻の濃密な臭気、ぎしぎしと椅子を鳴らす巨漢の舌打ち、血を吸ったように真っ赤に浮く口紅の歪む三日月、ひきつけを起こす三流科学者の恍惚、下品な音を立てて茶を啜る肥満体の醜い腹。
 半死人の末期の呼吸のような音を立てて水が溢れる。鎖骨を舐め、喉笛を締めつけ、今この口を塞ぐように、水が、

 そこでリーブの目は覚める。
 飽きるほど見た夢だ。眠る前に枕を直しながら、ああ今日もあの夢を見るだろうな、と思うようにさえなっていた。
 所詮夢だ。それがいかに凄惨であろうと、現実の酸鼻を超えることはない。溢れ続ける水がリーブの脳内からはみ出すことはないし、結局誰も――自分自身さえも――死ぬことはない。
 だから、それは単に不快な目覚めをもたらすごく個人的なイメージの連なりに過ぎなかった。始めから終わりまで、何がどうなるのかはもう分かり切っている。カウンセラーに話してみようかと思ったことも何度かあるが、結局やめた。下手な薬でも処方されてはたまらない。
 同じ夢を見た回数さえあやふやになるうちに、世界は終わりかけて終わらなかった。リーブは精力的に働いた。呼ばれる名は統括から局長に変わり、会議室で嘲笑われることもなくなった。
 毎日、帰宅するようになった。その自宅にひとを招くようにもなった。招かれる方は世界中をほっつき歩いているので、呼びたい時に呼べなかったりもするが仕方がない。いつ会っても知人の葬式帰りのような顔をしている彼を、ディープグラウンドソルジャーの一件に巻き込んだ。巻き込んでしまって申し訳ないと思っていたら、実際のところそれは彼自身の物語になった。何はともあれ、再び世界は破滅を免れた。
 この頃から、リーブの見る夢に変化が生じた。

 水が溢れる。ねじは回り続ける。ぱしゃりと跳ねた水滴が鼻の頭を濡らして、やっとリーブは何かがおかしいと気がついた。
 いつもならば覚めるはずのタイミングを過ぎた。何故この夢は覚めない?
 水音が止んだと思ったら、パイプの先が水面下に沈んでいた。大小の気泡がゆらゆらと揺れて弾ける。水は増え続ける。無意識に顔を仰向けていた。呼吸を塞ごうとする水に抗う本能の為せる技だったが、抵抗としてはあまりに些末だった。
(もう、あかんかな、これは)
 そのひとことを思い浮かべるのに、存外苦労した。そうして、自分が夢の中でさえ死にたくないと思っていることを知って、少し笑った。そうか、死にたくなかったのか。
 死ぬわけにはいかないと思っていたことは確かだが、それは死にたくないとは違う。責務と欲求は概して相反するものだ。そのどちらもが同じものを指向することがあろうとは、これまで考えもしなかった。新たな発見だ。夢など埒もないと侮っていたが、役に立つこともあるのかもしれない。
 波打った水面に唇を叩かれて、慌てて強く引き結ぶ。暗く澱む闇に染まった水が遠くに映すのは、八つに切り分けたケーキの一片を失った真円の都市の残像だ。
 もう諦めようと思った。夢の中で死んだ経験はないが、きっと死んだところで目が覚めるだろう。それならいいか、と身体の力を抜こうとした、その時だった。
(――獣がいる)
 ぐるぐる、と低く唸るのが聞こえる。遠かったはずのそれは次の瞬間、リーブの真横に在った。
 夜闇に紛れて夜闇よりも艶やかな体躯。燃える炎に見紛うたてがみ。恐ろしいはずの角のカーブは優美に伸び、鋭い爪が満ちる水面に静かな波紋を落とした。
(ガリアンビースト?)
 リーブを沈める水の上に音もなく立ち上がった魔獣は、その鈍い金色の瞳でこちらを見たようだった。
「どうして、あなたがここに、」
 水を飲みながらかろうじて吐き出した疑問符に、ガリアンビーストは無言で応えた。耳まで裂けた口から牙を剥き出しにして、渾身の力でパイプに爪を振るった。ヒトで言えば見事な左ストレート、老朽化していたパイプは呆気なくひしゃげて沈黙する。水が止まる。

 そういうわけで、リーブが繰り返し見る夢はこの筋書きに変わった。
 コールタールの闇、満ち始める水、空回りするねじ、呑まれそうになるリーブ、崩落した7番プレートの幻覚、音もなく訪れる獣、こてんぱんに破壊されるパイプ。
 ともあれ、「彼」の出現が固定化してからというもの、リーブにとってこの夢は悪夢ではなくなった。不快な中盤さえ乗り切れば(毎回水責めに遭うのだけは頂けない)まあそれなりにハッピーエンドと言えなくもない終幕を迎えて目を覚ますことができる。「彼」が出て来てくれなくなることだけが怖かった。
 興味深いことに、獣の姿はたまに変わった。宵闇色の野獣のこともあれば、筋骨隆々の改造人間のこともある。拳の代わりにチェーンソーでパイプをぶった切ったこともある。しかし、ぼろぼろに破れた紅い翼を見たのはたった一度きりだった。
 お伽話の絵本に悪魔として描かれそうな姿の「彼」は、その日も音もなくやってきてパイプを吹き飛ばした。いつもと違うのはここからだ。溺死を免れたリーブは安堵の吐息と共に「彼」を見つめる。頭のてっぺんから始めて、横顔、肩、そしてだらりと垂れた左手。記憶の中では骨格を剥き出したような異形のはずだったその手は、リーブのそれと変わらぬ柔らかなヒトの皮膚を纏い、そして血が滲んでいた。
「なんてことを!」
 夢の中だというのに奇妙なほど明瞭な発声に、混沌の名を冠する獣がひくりと震える。リーブは右手を伸ばし、「彼」の左手を取った。
「なんてことを」
 脆くともなお硬い金属を殴りつけたせいだろう、拳のあちこちが裂け、錆の破片が貼り付いている。青い痣がいくつも浮き、擦り切れた表皮からじわりと湧き出す血は赤い。石膏のように白い肌の上で、積み重なった傷の数々がことのほか痛々しかった。
「駄目です、こんな……」
 水に濡れた己の手で触れることを躊躇うリーブのつむじを、「彼」はじっと見下ろしている。指先ひとつひくりとも動かさない。
「もういいんです、もうこんなことはやめてください」
 この夢の中で震えるのは久しぶりだった。「彼」の手を包み込むことに気後れしながら、それでもリーブは面を上げる。
「私は――僕は大丈夫ですから。だから、もうやめてください。あなたを傷つけてまで救われるなんて、僕は」
 冷たい汗がどっと溢れた。合わない歯の根がかたかたと鳴る。こんなものが欲しいんじゃなかった。こんなことをして欲しいわけじゃなかった。救われたいと、一度も思わなかったと言えば嘘になる。けれど、それはこんな形ではなかった。
 なんということを夢見てしまったのか、己の歪み切った欲望を眼前に突きつけられた思いでリーブは懇願する。お願いですから、もうここには来ないでください。やっとのことでそう言った刹那、「彼」の左手がするりと離れた。
 見上げた瞳は、わずかに揺れたようだった。

 あの夢はもう見なくなった。代わりに別の夢を何度か見た。
 壁も天井もない真っ白な空間にリーブは立っている。果てしなく伸びる白い床はコンクリートに似た足音を響かせる。乱反射する光の眩しさに目を眇めながらリーブは歩く。前に進んでいるのか、後ろに戻っているのかも分からないまま歩く。
 唐突に、視界の真ん中に垂れ下がるパイプを見つける。千切れた先端、リーブの頭より少し高い位置にいくつかのねじ。手を伸ばしてねじに触れると、それはくるくると空回りを繰り返す。
 水は出ない。どれだけねじを回しても、パイプを掴んで揺さぶっても、一滴の水も吐き出さない。だから当然、獣も姿を現さない。
 どこかに穴でも空いているのだろう、とリーブは思った。水源からこのパイプに至る道中のどこかにぽっかりと口を開けた穴が、ここへ届くべき水を奪ってしまっているのだ。
 諦めきれないリーブはまたパイプを揺らす。ねじを回す。口汚く毒づきながら、たまに剥げた塗装の破片でパズルの真似事をしながら、どうにかして水を出せないかと奮闘する。錆の赤さを血痕に錯視して心臓を跳ねさせたりもする。そのうち疲れ切って眠る。夢の中で眠ると、現実で目覚める。

「……では、こちらがお約束の報酬です」
 リーブが両手で差し出す封筒を、ユフィの指が素早く奪い取る。依頼した仕事への対価なのだからそんな真似をしなくても出し渋りはしないのだが、これも彼女の愛敬といえば愛敬だ。
「いち、にい、さん……ふんふん、確かに」
「ユフィさん、本当に『確か』ですか?」
「なによ、もう貰っちゃったからね、多すぎたって返さないんだからね!」
 それなりの枚数の紙幣を数えるユフィを混ぜっ返すように問うと、喰らいつくような声が返ってくる。少しばかり色をつけたことにはちゃんと気づいていたようだ。封筒をぎゅっと抱え込んで目を剥くユフィに、どうぞ全額お納めください、とリーブは笑う。
 ユフィの性格を悪く見る人間もいなくはないが、リーブにとっては好ましい部分の方が多かった。目端が利くから調査は注意深い。狙った獲物は逃がさないと本人が冗談めかす通り、達成事項は漏らさない。面倒ごとは勘弁だと言うだけあって、報告はいつも簡潔で端的だ。もちろん腕っぷしも立つ。彼女は極めて優秀な協力者だった。
「そんじゃ、毎度どうもね。またご贔屓に」
「もちろんです。頼りにしてますよ」
 ユフィは最近、エッジに小さなフラットを借りた。かつての仲間の多くが集まっていることもあり、ついにこの地を拠点にすることに決めたようだ。実際には彼女の心はもう少し前に決まっていて、父親の説得に時間がかかったそうなのだが。
「あーあ、お腹空いちゃった」
 出口まで送ります、と申し出た世界再生機構局長を従えながら、ユフィは大きく伸びをする。これは夕食を奢れということだろうか、しかしまだ片付けたい仕事が、とリーブが逡巡していると、くるりと振り返った彼女は悪戯に歯を覗かせて笑う。
「今日はねえ、ティファと約束してんの。店が工事かなんかで休みだっていうから、これからデートなんだ」
「それはそれは。何を召し上がるんですか」
「ティファのおすすめだって。肉だよ肉ぅ!」
「いいですねえ、私も混ぜてくださいよ」
「ぜえったい、お断りだね」
「ひどいなあ」
 揃って健啖で酒も強いふたりが、テーブルを挟んでとめどなくはしゃぐさまを思い浮かべる。これだけ魅力的なふたりだ、ちょっかいをかける輩も多かろうが、心配は無用だろう。そんじょそこらのごろつきでは相手にもならない。
 まるで親戚の娘を見るような目になっていることに気づき、リーブはそっと肩をすくめた。数えてみればユフィくらいの歳の娘がいたっておかしくないが――考えるだけ不毛だ。
「では楽しんできてください、あまり呑みすぎないように」
「はいはーい、わかってますう」
 エントランスの受付にゲストIDを返却したユフィが、あ、と小さく声を上げた。
「そだ、忘れてた」
「どうかしましたか?」
「アイツ、久しぶりにこの辺にいるみたいだよ。捕まえてみれば?」
 ユフィがひらひらと手を振り去ってゆく。あいつ、の指す人物にリーブが思い至るまで、それからさらに数秒の時間が必要だった。

 時計の針が午後八時を指したところで、リーブは仕事を切り上げた。執務机を簡単に片付け、端末の電源を落とす。帰りしな、一般社員のフロアを覗くと、まだ数人が残っているようだった。
「お先に失礼しますね。みなさんもほどほどで切り上げてください」
「お疲れ様です、局長」
 部下たちが仕事熱心なのはありがたいが、毎日残業続きでは申し訳ない。自分が残っているせいもあるのだろう。明日あたりは早めに上がることにしようか。
 そんなことをつらつら考えながら歩くうちに、自宅のマンション前まで来ていた。正直なところ、夕飯を用意するのが面倒だ。何か軽く腹を満たせるものが残っていただろうか。
 コンシェルジュに会釈してフロントを通り過ぎようとしたら、トゥエスティ様、と声をかけられた。敬称付きで姓を呼ばれることなど滅多にないからつんのめりそうになる。
「なんでしょうか」
「こちらをお預かりしております」
 青年が折り目正しく差し出した封筒には何の表書きもない。訝るリーブに、コンシェルジュは続けた。
「渡してくれれば分かると……危険物でないことは確認済みでございます」
 簡易X線検査機を備えたフロントの言うことだ、信用してもいいだろう。リーブは封筒を受け取りながら尋ねる。
「どんな人でしたか?」
「それが、お名前を頂けず……赤いマントで、長い黒髪の男性でいらっしゃいました」
 慌てて封筒を裏返すと、やや神経質そうな筆跡でV.V.と記されていた。

 コンシェルジュへの礼もそこそこにエレベーターに乗り込む。スムーズに動く鉄の箱の中で、リーブは足踏みせんばかりだった。
 封筒の中身は一枚の白紙だ。何も書かれていない。特殊なインクを使ったかとも考えたが、「彼」はその手の小細工を好まない。であれば、メッセージはただひとつ――ここにいる、という事実を伝えるため、それだけのもの。
 ぽーん、と軽い電子音と共に扉が開く。足のコンパスを目一杯に広げて廊下を行くリーブは、傍から見ればほとんど駆け足だっただろう。
 カードキーをかざし、体当たりするように自室のドアを開ける。玄関からまっすぐに伸びる廊下の先はリビング、今朝出る時に扉は開け放していた。だから今、リビングからバルコニーに出る大きな窓までを見通すことが出来る。
 明かりをつけない室内は暗いが、窓の向こうの街灯りが暗闇を払っていた。ふわりと忍び込んだ初夏の風がカーテンを揺らす。リーブは手にしていた鞄を放り捨てるようにして、リビングに飛び込む。
 するりと音もなく動いた影が、街灯りを遮った。あの夢で世界を塗り潰していた闇のような黒髪が舞う。影は半身だけ振り返って、口許に笑みを佩いたようだった。
「――ヴィンセント」
 転がり落ちる名に、「彼」が小さく頷く。茫然と硬直するリーブに向かって、その左手が婉然と差し伸べられた。
「傷なら治ったぞ、リーブ」
 窓からのあえかな光に切り取られたように、白い手が夜闇に浮かび上がる。引き締まった手首からすらりと伸びる甲、典麗な陰影を描く中手骨、滑らかな皮膚を見せつけるように翻る指は銃器を扱う手らしく節くれ立って無骨だが、リーブを誘うように舞えばぞっとするほど繊妍な印象を纏う。縦に長い爪は深く切り込まれて、遠いネオンの色に染まった。
「傷は治る、遅かれ早かれな。だから、」
 リーブにはもう何も考えられなかった。どんな足取りで彼に近づいたのかも分からぬまま、下賜された宝物を押し戴くようにその左手ごと、ヴィンセントを抱きしめた。腕の中のひとが、そっと息を吐いた。

 リーブはもう、同じ夢を繰り返し見ることはなかった。