暁闇に紛れて、その指を盗む。
光の気配を孕んだ夜はまだ寝室を支配している。清潔なシーツはわずかに乱されて色を含む。彼は目を閉じて身じろぎもしない。
眠っているのだろう。そう信じている。静かな呼吸に上下する肩、乾いた皮膚の体温、彼は眠っている。生きている。けれど、これら全てが自分の勘違いではないとどうして言い切れるだろう。この世界のなにものも彼の正気を保証しないことをヴィンセントは知っている。死の相似形である眠りに慰めを見出す、そのずっと前から。
取り上げた指は力を失ってヴィンセントの掌に横たわる。歪んでへこんだ親指の爪、人差し指のささくれ、中指にペンだこ、少し捻れた薬指、古い切り傷の残る小指。決して美しいとは言えない指。この指がヴィンセントの髪を梳き、目許に触れ、耳殻をなぞり、首筋を這った。神への供物のお下がりを押し戴くようにヴィンセントに喰らい付いた。
鼓膜を刺す静寂に懺悔するようにヴィンセントは瞼を閉じる。もう少しで朝が訪れる。世界が更新される瞬間から逃げる悪癖に笑う彼の顔を見たくなかった。仕方のないひとですねあなたは、彼はそう言って自分を甘やかすだろう。彼がこの束の間の死から目を醒ませば、あの笑顔を見てしまう。
逃げろと命じる衝動が、留まりたがる身体を置き去りにして走り出す。脆弱な意識は衝動を御せず、身体を鎮めることもできず、宙に浮いたままだ。いつからこんなに弱くなってしまったのか、いや自分が強かったことなどありはしない、と自嘲するのが精一杯の惰弱さ。
自分を嫌悪することには慣れ過ぎていたし、棺桶の中でとっくに飽きてしまった。もううんざりだ。だからヴィンセントは逃げる。嫌気のさす怯懦を受容する男から逃げる。
清浄で廉直な朝が来る。その前に逃げなければ。哀願する身体を引きずり起こしてゆりかごから一歩踏み出す。こうして愛玩する指を、ほんとうに盗んで行けたらいいと、埒もない空想に耽ることをやめて。
ヴィンセント、と呼ぶ声にいらえはなかった。目を開ける前に口から漏れた名前はどこにも届かない。分かっているからリーブは目を開けなかった。腕の中が空っぽであることに、目を醒ます前から気づいていた。冷たく乾いたシーツに四肢を投げ出して、残り香を追う。彼には香りがないということも知っていた。
あと数時間も経たず、世界が動き出すだろう。昨日と同じように、何の遅滞もエラーもなく。オフィスの机に山積みの書類、分刻みで新規メッセージを受け取るメールボックス、咳き込むように鳴る電話、会議、会食、入り組んだ握手に飛び交う名刺、礼儀正しい人々。それら総ての正しく健全な営みが縺れ合う渦の真ん中で、呆然と取り残されているのが自分だ。
吸い込んだ酸素を吐き出して、胎児のように身体を丸める。シーツがくしゃりとよれる。ブラインドの隙間から射し込み始める光が、いずれ全てを拭い去ってしまうことを恨めしく思う。瞼はまだ閉じたままだ。まだ早い。彼の夜を手離すには早すぎる。
確かに上昇した彼の微熱に満たされた。体温を飲み干すと、そんなものを、と渋面を作るから、生きてるって感じがしていいじゃないですか僕は好きですよ、と言ってやった。そうすると窮屈に折りたたんだ長い脚で肩を蹴るので、足首を捕らえてくるぶしにくちづけた。浮いた腱を舌でなぞれば、まどろっこしいのを嫌う彼が目を眇めて非難した。リーブ、と不機嫌な声にねだる色を見出して気を良くするあさはかなところは、いくつになっても治らない。
行ってしまう彼を引き留めることだけはしないと決めていた。そうするのが愛情の示し方だなどとおためごかしを言うつもりはない。指をすり抜けて消えてしまうものを必死に繫ぎ止めようとする自分の醜悪さを直視したくないだけだ。機関とのエージェント契約書はリーブのオフィスの机にしまってある。冗談めかしてですらそれを取り出すこともできない臆病な自分は、未だに怯えているのだ。彼が行ってしまうことではなく、彼が戻らないことでもなく、彼が二度と戻らないと悟る日が来ることに。
「……しょうもな、」
自嘲して起き上がる。行くなと哀願する心を押し殺しながら、愛玩するようにしか彼に触れることが出来ない自分が滑稽だった。他人行儀に冷えた床が裸足を刺す。
見下ろしたシーツに、夜の残滓のような黒髪が一筋、沈んでいた。