ごはんをたべよう

 食事は大切な行いだ、とリーブは思っている。一種の聖性を感じ、信仰していると言ってもいい。食べることには生命維持以上の意味がある。だから、必要な栄養素を摂取するためだけの咀嚼と嚥下をリーブは食事と呼びたくない。
 若い頃は違った。まだ一介のエンジニアだった時分、目の前に三枚のモニタを並べて擦り切れたキーボードを叩き数式を組み上げることだけに汲々としていた頃は、どうして人間はエネルギーを吸収するのにこんな非効率な手段しか取れないのかと不満だった。デスクの引き出しには色とりどりのサプリメントと栄養機能食品がみっちりと詰め込まれ、濃く淹れたコーヒーをすすりながら、自分に電源プラグがないことを恨めしく思っていた。機械はシンプルでいい。呼吸も代謝も排泄もなく、清らかだった。
 効率と単純への信奉を疑うようになったのは、もう少し歳をとって都市開発部門に異動した時だった。どうして自分がこんな仕事を、と文句を叩く暇もなく――何しろ発足当初から人手不足は慢性化していたので――造りかけの街を歩き回らされた。測量、負荷計算、日照時間の推計、などなど。動くと腹が減るのが早いと気づくまで、そう時間はかからなかった。
 リーブよりは健全な肉体と精神を持つ同僚に従って、掘っ建て小屋の一杯飯屋に入る。衛生面の疑われる佇まいに怯んだが、何が入っているのかよく分からないごった煮をコメにぶっかけてかき込むと、あまりの美味さと充足感に目眩を覚えた。腹以上に何かが満たされる感覚を持て余して周りを見渡すと、お世辞にも上品とは言えない出で立ちの人々が同じ器を抱えて大口を開けている。
 その瞬間、耳栓を外したかのようにあらゆる音が飛び込んできた。ざわめき、話し声、遠くで誰かが声を荒げている、どっと笑う声、食器のぶつかり合う音、通りの向かいの工事音、振動、威勢の良い掛け声、走り抜けるトラック、どこかで鐘が鳴る。ぐらりと揺らぐ視界に、弾ける喧騒の渦に、胃の腑から突き上げる熱量に、リーブは息をすることも忘れて立ち尽くした。
 それからリーブは指示されずとも毎日、建設途中のミッドガルを歩いた。道なき道を渡り、泥濘から水を抜くのを手伝い、工事現場の作業員に挨拶し、屋台の物売りから毎日の食事を求めた。神羅の事務員さんが何もこんなことを、と苦笑いする人々も、すぐにリーブを受け入れた。
 きっといい街ができると思った。ここで生きる人のための街を、この人たちと自分とで造るのだ。プレートの上が終われば次は下層だ。上層よりも少し窮屈かもしれないけれど、だからこそやり甲斐があるはずだった。かつて信じていた人工物の合理的な美と、知り初めたばかりの生命の営為を融合した、世界でたったひとつの街。それをかたちにできるのは自分だと、無邪気に信じていた。年月が経って味気ない会食に時間を奪われても、部門ごと必要とされなくなっても、リーブはあの時の食事を忘れなかった。

 食事は最早必要なかった。ヴィンセントはそういう身体になってしまっていたから。食べることも忘れて昏々と眠った。眠って、眠り続けて、何年も経った。眠ることを決めた時からもう全ては手遅れだったのだ。ヴィンセントはあらゆることを無為に見逃して見過ごして、年輪を刻むことを放棄してただここまで生き永らえてしまった。
 以前はそうではなかった。タークスの任務は厳しい。まして、その中でも難度の一等高いものを引き受け続けるヴィンセントに、不調は許されなかった。汚れ仕事の後でもきちんと食事を摂って、美味いと感じることで正気を確かめていた。あるいはそれが異常の証明だったのかもしれないと気づいたのはずっと後のことだ。
 楽しい食事もあった。その名の通り、光を放つように聡明で才気煥発な彼女と一緒なら、自分の手が何に塗れたかを忘れることができた。新しい発見や意外な可能性に煌めく瞳は極上の調味料だった。
 そんなことも全て忘れて、失意のうちにヴィンセントは眠った。眠り続けて、ある日叩き起こされた。彼らの旅路に同行する中でも極力食事は摂らなかった。いざという時のために貴重な食糧を無駄遣いすべきではなかったし、暗い棺から出たばかりのヴィンセントには生の営みが眩しすぎた。ティファが差し出す皿も、ユフィが突き出す串も、マントの裾を引くナナキも全部退けて、食事の場から努めて距離を置いた。食べ物の味も香りも思い出したくはなかった。それも受けるべき罰だと考えていた。

 そして、今。リーブとヴィンセントは崩壊した摩天楼を見はるかす。びょう、と吹く風がコートの裾を捲り上げた。急ぎ足の季節は秋になっていた。
「……そう、信じてたんですよ、ほんとうに」
 いらえはない。期待はしていなかった。だからリーブは続けた。
「愚かで、あさはかで、傲慢だったと、思ってます」
 本心だ。謙遜でも自虐でもない。神羅が、自分がしてきたことが、結果としてこの星を極限まで疲弊させた。ライフストリームから一方的にむしり取って、狭窄した視野で都合のいい世界を夢見ていた。後に残ったのは、無残に荒廃した瓦礫の山に、この先百年は草木も生えない痩せた土地。復興は道半ばだ。
「だから、僕にはまだやらなあかんことがある」
「……そうだな」
 ヴィンセントの声に、虚を衝かれる。くすんだ紅と艶めく黒が風に翻る。
「そうです」
「そうか」
「やりますよ」
「ああ」
 リーブは隣に立つ男を見る。相も変わらず、知り合いの葬式会場に到着したばかりというような顔で、リーブの夢の残骸を眺めている。体温を失ったような白い頰。昔見た古い資料のまま変わらない面ざし。
 しかしリーブは、彼の身体に再び血が巡り始めたことを知っている。ひょっとしたら彼自身が望んで止めたのかもしれない時は、再び動き始めた。老いたヴィンセントはどんな顔だろうと想像する。いずれリーブも見ることができるだろう。
「……腹が減ったな」
 小さな呟きが、風に掻き消されずに間違いなく届く。リーブは笑った。あの日、リーブの世界を創り変えた喧騒を、この男にも味わわせてやりたかった。本当は、ずっと前から。
「ヴィンセント、ご飯食べましょう。美味い店、僕知ってます」
「……期待はしないでおこう」
「いけずやなあ、ほな何か賭けます?」
「断る」
 やっぱりいけずや、とまた笑って、彼の手を取る。振り払われないのをいいことに、そのまま歩き出した。二人の去った後に、小さな花が芽吹こうとしていた。