ねこのはなし

 浴室から出てリビングに入ると、ソファに長いものが横たわっていた。猫は何かの拍子にとんでもなく伸びるものなので、いまさら驚くことはない。タオルで髪の水気を拭いつつ近づいてみる。横になっているからといって眠っているわけではないというのも一般的な猫の特徴だ。例えばケット・シーも、寝ているような恰好をしていても寝ているわけではなく、システムアップデートやデータメンテナンスの最中なだけだ。
 リーブは猫の話をしているのである。その辺によくいる猫の話だ。正確にはリーブの周りによくいる猫のことなので、ひょっとしたらあなたがご存知の猫とは少し違う点があるかもしれない。が、一般的な猫の特徴は一通り押さえている。そう、やたらと長くなったり、寝てるんだか寝てないんだかよく分からなかったり、ふらっとどこかに行ってふらっと帰ってきたり、よそのお宅からも養われていたりする。まごうかたなき猫だ。
「……」
 ソファに横たわる猫そのいちを見下ろした。名前はヴィンセントという。一方の肘掛に頭を預けていて、その反対側からは脚がはみ出している。長い。近づいてみて分かったが、どうやら微睡んでいるらしい。が、つついたら起きそうだ。彼は今日久しぶりにリーブのところにやってきた。ざっと数えて二ヶ月半ぶりだ、今回は間隔が短かった。終わらない業務のキリのいいところを無理やり見出して自宅に戻ると、我が物顔でソファに脚を組んで(リーブが買って冷やしておいた)ビールを飲んでいた。我が物顔というところがまた猫である。よそのお宅に養われているというのはかつてのケット・シーの話だが、もしふらっといなくなっている間のヴィンセントがどこぞの馬の骨に養われているとしたら、むちゃくちゃに腹が立つ。
「……あほくさ」
 つらつら考えていたことがあまりに馬鹿馬鹿しいことに気づく。そもそも誰に向かって話しているのか。ヴィンセントを起こさなければ。リーブの前にシャワーを使った彼の髪は湿ったままだ。乾かせといつも言うのに、聞いてくれた試しがない。
「ヴィンセント、ここで寝たら駄目ですよ、身体痛くします」
 僕らもうそんなに若くないんですから。いや、諸事情あってヴィンセントは肉体的には若い。若いのだが、認めたくないというのが素直な気持ちだ。うんともすんとも言わないヴィンセントの肩を揺さぶる。
「ヴィンセント、寝るならベッド行きましょう」
「ああ」
 やけに明瞭な返事があったが、相変わらずぴくりともしない。こいつ、と口の中で毒づいて、足の方に回る。何か踏んだと思ったら、脱ぎ捨てられたスリッパだった。
 その素足を取り上げる。ふくらはぎがぴくんと反応したが、まだ起きる気はないようだ。しぶとい。右手の五指をぱらりと蠢かせて、真っ白な足裏に指を這わせた。脚が引っ込められるのを押さえつけて土踏まずをくすぐる。
「リーブ、」
「起きてるじゃないですか、無視するなんていけずやなあ」
「ひ、やめ、」
「ベッド行きます? それならやめますよ」
 ひゃあ、と情けない声を上げたヴィンセントが、力任せに手を振り解いた。ぶん、と唸る長い脚が、わりと本気でリーブの肩を蹴る。痛い。事務屋の肩に何しよんねん腕イカれたら決裁できへんねんぞ。
 うう、と呻くリーブを冷たい目で見下ろして、猫はすたこらと逃げて行った。ぱたん、と軽い音がしたので、どうやら素直に寝室に入ったようだ。はじめから普通にそうして欲しいものである。

 テーブルの上のものを簡単に始末して、歯を磨き終えたリーブも寝室に入った。奮発して買った寝心地の良いマットレスの上に、まだ毛を逆立てたままの猫が転がっている。垂れ下がる長い髪の間から、恨めしげな瞳がこちらを見ていた。
「ケット・シーは肉球触らせてくれるんですよ」
「……」
「ふかふかのふにふにで気持ちいいんです、触ったことあります?」
「……」
「ヴィンセントは肉球やなんですね、覚えときます」
「……おまえな、」
 地を這うような低い唸りがマットレスに吸い込まれた。そのど真ん中に横たわる身体の下に腕を差し入れて、よっこいせと転がす。
「何をする」
「えらく素直に転がっといて何ですかその言い方は。僕が寝る場所がないでしょう」
 どこまでも尊大なその態度が、彼の甘えだと分かっている。ひょっとしたら長らくの不在を後ろめたく思っているのだろうか、だったらもう少しまめに帰ってきてもらいたいものだ。言わないが。
「明日は何か用事でも?」
「ティファの店に顔を出す、夕方だな」
「クラウドにも?」
「さてな」
 ごろりと転がった猫に布団をかけてやる。自分はとことん彼に甘い。リモコンで天井の明かりを消して、身体を預けたシーツはわずかに暖かく、ヴィンセントがちゃんと生きていることを証明してくれた。
「おまえは」
「僕ですか? 明日は昼くらいにゆっくり行きます、休みなんで」
「勤勉なことだ」
「馬鹿にしてますね?」
「言葉もない」
 暗がりに慣れてきた目がヴィンセントのかたちを捉える。さらりと落ちる黒髪、そういえばドライヤーをかけてやるのを忘れていた。それでもおかしな寝癖はつかないのだから羨ましいことだ。露わになった額の滑らかなこと、きりりと吊り上がった眉からはすっと通った鼻梁が続き、彫りの深い目許には赤褐色の眼球が嵌め込まれている。侵し難い完成度を誇る顔貌がつくりものなどではなく、それはもう単純に笑ったり怒ったりするのを見るのがリーブは好きだった。
 眠ってしまうのが惜しい、互いに明日の朝を急がないと知ればなおさらだ。さきほどまでうたた寝を楽しんでいた猫も差し当たっては眠くないらしい。寝物語のじゃれあいには好都合だ。
「そういえば、この間ツォンさんが顔を出しまして」
「ほう」
 するり、と寝間着に滑り込んできたものをそのままに話を続ける。仕返しのつもりだろうか、銃火器とあれば何だろうが使いこなす彼の指はかさついて硬くなっている。さすがに緩みを隠せない腹をなぞり、脇腹を往復する。
「社長……ルーファウスさんが何やら考えついたとかで」
「暇なのか、あいつらは」
「そんな言い方したらいけませんよ」
 何食わぬ顔でどうでもいい話をする。毛布の下で進行中の他愛ない悪戯に、反応してやるのはまだ早い。腹直筋を探り当てるように柔く爪を立てた指は、飽きたとでもいうように翻って臍に潜り込む。さすがにそれは、と制止しそうになるのを呑み込んだ。
「それで、何の話だったんだ」
「いや、まだ分かりません。来週あたり時間を見つけて行ってこようかと」
「ついでに温泉か、いいご身分だな」
「たまの息抜きもいいでしょう、来ます?」
「さてな」
 ということは案外、魅力的な提案として受け取られたらしい。彼と温泉に浸かって一杯酌み交わせるのなら一日に五十時間働いてでもちゃんとした休みをもぎ取りたいところだが、そうもいかないだろう。
 指は下に向かうと思わせておいて、おちょくるように上に進む。深爪ぎみの爪がみぞおちをくすぐり、心臓のあたりで円を描き、それから胸筋に乗り上げる。突起を探して彷徨うそれが目的のものを掠めたところで、リーブも投げ出していた手を伸ばした。堪え性のないと言わば言え、だ。彼の動きをトレースするだけではつまらない。おかしなところで負けん気を出すリーブがシャツをめくり上げるのに、ヴィンセントが鼻を鳴らして笑った。
「先日はシドさんにもお越しいただいて」
「シドか」
「新しい飛空艇を計画中だそうです」
「また造るのか、そこまで行くと病気だな」
「宇宙まで行くと言い出さないだけマトモですよ」
 掌で腰の上をさする。そのまま背を撫で上げるついでに、少し離れていた身体を引き寄せた。布団から出した顔の位置はそのままに、胴体だけが従順についてくる。毛布の外では何気ない話を続けながら、中の温度が少しずつ上がっていく。ヴィンセントの指に力がこもり、飾りのように役に立たないものを弄ぶ。ぞくりと腰に走るものをまた無視して、浮き上がる背骨を指で数えた。
「カネをねだられたか」
「ヒーリンロッジをご案内しておきました」
「親切だな」
「うちだって毎月ぴーぴー言ってるんですから」
 腎臓の裏あたりを引っかいてやる。互いに決め手のない応酬、愛撫未満のくすぐり合いはキリがない。意地になって続ける茶飲み話のような会話が集中を損なう。じりじりと熱くなる肌は湿度を上げて掌に吸い付いた。
「この間はですね、」
「おい」
 躍起になって話題を探すリーブの胸を、ヴィンセントの指がぎりりと抓った。思わずひっ、と息を呑む目の前に、柘榴石がするりと近寄る。
「まだ続ける気か」
「どっちをです?」
「そのくだらない与太話を」
「ひどいなあ、近況報告は遠距離恋愛の必須事項ですよ」
 ふん、と鼻で笑ったヴィンセントがリーブの肩を押す。どさりと音を立てて乗り上げる様は、やっぱり傲岸不遜な猫だった。