ripe

【ripe】果実が熟した。来たるべき時が来た。

 ――いつか、おれの夢を見てね。
 
 
 
「おれさ、寄り道すんの好きだったんだよね」
 フリオニールが遠くを見ていた目を引き戻した。目の前に広がるのは見渡す限りの荒野、崩れた岩の転がる大地には草ひとつなく、全てはどろどろと燃える溶岩に呑まれる。
 ティーダは隣に立つ男の銀髪が風に踊るのを見て微笑した。笑おうと決めていた、これが最後でも、最後だからこそ。
「寄り道?」
「そ、寄り道」
 いつもはまっすぐ進む道を、たまに折れてみたり。
 野良猫を追って、路地に入ってみたり。
 小腹が減ったからと言い訳をして、道端でファストフードにかぶりついてみたり。
 角の本屋で、いつもは読まないジャンルの本棚を眺めてみたり。
 指折り挙げるティーダの横顔を、フリオニールが見つめている。凛と吊った眦は今は柔らかく細められて、吹き付ける風を受けながら、それでも瞬きひとつすることはない。
「楽しそうだな」
「うん、楽しかった」
 寄り道をする時は、いつだってわくわくしていた。慣れた道から外れて、一歩を踏み出したら自分の知らない世界が広がっていた。箱庭のように閉ざされたザナルカンド、つくりものの光が乱舞するあの街で、それでも普段とは違う方向に足を向けた瞬間のそわそわするような気持ちは、いつだって新しかった。

 ティーダはふと視線を巡らせた。仲間たちがそれぞれに分かれて、最後の休息を楽しんでいる。頭上にのしかかる混沌の神の気配に背筋を震わせながら、互いを労わり残りを惜しむように語り合っている。
 視線に気づいたセシルがそっと片手を振って、その向かいのクラウドが振り返る。旅の始まりを共にした頼れる兄貴分たちの眼差しは、並んで立つティーダとフリオニールを慈しむように優しく溶けた。
 その向こうには、バッツとジタンとスコール。何故か顔を背けているスコールに、バッツとジタンが揃って飛びついた。弾ける笑い声。やめろ、と言いながら、スコールの両腕がふたりを抱きとめるのが見えた。
 その反対側、フリオニールの斜め後ろに、ウォルを挟むティナとオニオンが見える。思い詰めたような顔をしたオニオンの肩に、ティナの手がそっと添えられる。兜を外したウォルが、静かな笑みを浮かべた。
 ティーダが仲間たちの姿を確かめている間も、フリオニールの瞳はティーダに留まったままだった。そんなに見つめられたら穴が開きそうだ、と冗談めかしても、そうだな、と言いながら視線は動かない。
 

「おまえとする寄り道は、楽しいだろうな」
「あったりまえだろ」
 とん、と互いの肩が触れ合った。そういえば自分たちはいつでもそうだった。それなりの距離を保って歩き始めても、いつの間にか肩や指がぶつかるほど近づいていて、後ろからそれを見ていたセシルとクラウドによく笑われた。
 ――だって、話してるとそうなるだろ?
 何となく気恥ずかしくて、少し早口に弁解すると、ふたりはさらに笑いを深める。
 ――見てると面白いよ、ふたりともどんどん近づいていって。
 ――フリオニールがトンボ玉を装備してるからだろう。
 ――え、おれEXフォースかよ?
 クラウドの前振りに応じておどければ、みんな笑う。しばらくフリオの横は歩かない、と離れても、また手の甲が触れ合う。僕らと話してたってそうはならないのにね、とセシルが言えば、愛情の偏りを感じるな、とクラウドが大袈裟に肩を落とす。あ、愛情って、と頬を赤くするフリオニールを歳上組がここぞとばかりにからかって、また笑う。
 笑っていた。ずっと笑っていた。強敵に出くわしても、食べ物が見つからなくても、雨に降られても、笑っていた。クラウドに髪をぐしゃぐしゃにされて、怒るふりをしながら笑った。セシルに脇腹をくすぐられて、転げ回って笑った。ジタンとバッツがスコールにじゃれつくのを見て笑った。ティナと話していれば飛んでやってくるオニオンのすまし顔に笑った。真面目な顔で突拍子もないことを言い出すウォルを囲んで笑った。
 ――フリオニール。
 笑っていた自分の隣に、いつだって彼がいた。ぶつかり合うほど近くにある顔を見合わせて笑った。完璧な連携でイミテーションを撃破して、拳を突き合わせて笑った。他愛ない言い争いをしながら川に足を滑らせて、ずぶ濡れになって笑った。世界中からふたり以外の誰もが消えてしまったような夜に、不意に目が合って笑った。笑っていた。
 

「……もっと寄り道すればよかった」
 朝露が草の葉を滑り落ちるように、こぼれ落ちた言葉。フリオニールの指が、ティーダの指にそっと絡まる。仲間たちの誰からも見えてしまうと分かっていたけれど、その手を払い退けることなどできるはずがなかった。
「もっと、いろんなことしたかった」
「ああ」
「もっと、いろんな話したかった」
「そうだな」
「もっと、いろんな景色見たかった」
「うん」
「もっと、」
 もっと一緒にいたかった。叶うことならば、ずっと。一番距離の近い仲間で、無二の親友で、唯一の大切なひと。いつだって隣にいた。堪えきれない想いを重ねて、熱に駆られるままに交じり合った。
 ぴたりと触れ合う手の甲を伝って、彼の鼓動を感じる。自分のそれよりも少しだけ遅い、ゆっくりと力強く刻む脈拍。ふたつの鼓動が一致しないように、ふたりの行く先は重ならない。
 破裂しそうな胸の奥に、フリオニールがくれたものが溢れている。楽しい、嬉しい、切ない、苦しい、恋しい、愛しい、哀しい、それから、それから。すべて彼が与えてくれた。自分の持つありったけと引き換えに、ぜんぶ彼から受け取った。もう、何も貰えない。何もあげられない。飽和限界を超えた想いは、もうすぐ消えてしまう。跡も残さずに、波に浮かぶうたかたとなって、消える。ティーダと一緒に。
「もっと、寄り道したかった」
 上ずる語尾を飲み込んで、ティーダはフリオニールを見た。美しいひと。強くて、頑なで、少し融通の効かない、優しいひと。明けの明星のように輝く褐色を網膜に焼き付ける。荒野を侵食する溶岩の反照を受けて、果実のように熟れた瞳が、自分と同じように涙の膜を張った。
 
 ――どうか泣かないで。これが最後だから。きみの笑った顔を抱いて海に還れるように。
 
「笑ってくれ、ティーダ」
 絡まる指に力がこもる。フリオニールの方が泣きそうな顔をしているくせに、笑ってくれ、と言う声は祈りに似ていた。
 だからティーダは笑う。震える唇をぐっと結んで、両の端を引き上げる。ちゃんと笑えているだろうか。彼の愛してくれた笑顔だろうか。
 伝えたいことは、ひとつも言葉にできなかった。ありがとう、も、大好き、も、どれももう別れの合図にしかならないから。これから、も、今度、も、次は、も、いつか、も、また、も、どれを選んでも愛おしい嘘にしかならないことを、ふたりは知っていた。
 約束はもうできない。ぶつかる肩で互いの体温を感じることはもうない。この指が離れてしまえば、それが最後だ。
 

 戦士たちの織りなすざわめきが、不意に途切れた。びょうと唸る風の音、湧き出す溶岩が地を舐めて、遠い地響きが空白を際立たせる。誰もが気づいていた。終わりがそこまで来ていた。
「――征こう」
 がしゃりと鎧を鳴らして、光の戦士が立ち上がる。その決然とした背中を、仲間たちが追う。
 ティーダは気づく。きっと、この闘いが最後の寄り道だった。もう行かなくてはならない。終焉までの一本道に交差する道はもうない。野良猫の誘う尻尾も、隠れるべき裏路地も、何もない。終わりの向こうに分岐する道に、ティーダのためのものはない。
 ティーダ、ともう一度名前を呼ばれる。知らずのうちに噛み締めていた唇を、あたたかな感触が過った。
 指が、離れた。ぬくもりの残滓を握りしめて、ティーダは笑った。フリオニールも、笑った。
 
 

 
 ありがとう。きみがおれの夢を見る未来まで、さよなら。