【catch】受け取る、捕まえる。
「おう、相変わらず派手なナリしてんな」
深く通る声。その掌は確かな体温と質感を伴って、フリオニールを難なく受け止める。
「――あんたは、」
咄嗟に視線だけで振り返れば、触れるほど近くに輝く深紅が、にやりと笑った。
ううん、と考え込んだティーダが、開き直ったような声を出した。
「よく分かんない、っす」
「そうか」
ある夜。フクロウかミミズクが溜息のように漏らす鳴き声を遠くに聴きながら、フリオニールは首を傾げた。胡座をかいた膝の上には、寝そべるティーダの頭が載っている。焚火に照らされてカスタードクリームのような色に溶ける髪を、手遊びに梳いた。
――何故おまえは父親と闘うんだ?
その質問は長い夜の暇つぶしではなく、ずっと訊きたかったことだ。一度だけ相見えた男は、屈強な体躯と、その裡に抱く何かを持て余して、フリオニールと剣を交えた。
強かった、手放しにそう思う。唸りを上げる拳をかろうじて避け、力強い踏み込みから襲い来る蹴りを防いだ腕はいつまでも痺れていた。幾度となく間近に迫るその瞳は紛れもない闘志に溢れ、しかし敵意も殺意も感じなかった。奇妙な手合わせ。目の前の男が息子との対峙だけを望んでいると悟るのに長い時間は必要なかった。
「憎いわけではないんだろう?」
あの瞳を思い出しながら問う。ティーダは少しの間を置いて、小さく、それでも確かに肯いた。
「ガキのころは、そうだったかも」
「でも?」
「今は――」
言葉を探して彷徨っていた少年の瞳が、ふとフリオニールを見据えた。夏の海のような紺碧、まるであの男の紅と対をなすような。
「――他に、知らないから。おれは。……おれたちは」
その声が孕む想いを捉えかねて、フリオニールは口を噤んだ。諦念、寂寥、後悔、憤怒、悲哀、決意。どれもが正しく、いずれも全てを説明はしきれない。その正体を掴み損ねて、心臓がぎゅうと絞られるような痛みを覚える。
「だからおれは、オヤジを倒すんだ。絶対に」
ティーダの目はこちらに向けられたまま、けれどフリオニールを見てはいなかった。そうか、と掠れる声が、まるで自分のものではないように響く。左胸の奥が痛い。何故痛むのか、分からない。
彼のその不思議な声が、何か違うものを見る瞳が、胸を締め付ける痛みが、それからいつまでも離れなかった。互いがクリスタルを手に入れても。神々の闘争が終わって、繋いだ手が離れても。
ひずみに飛び込む瞬間の、内臓が持ち上がるような浮遊感が懐かしい。フリオニールは逞しい腕に抱えられて、軽い眩暈を呼ぶその感覚に目を細めた。
「さあて、ジェクト様のおぼっちゃまはどこに行ったかね」
耳許で愉快そうな声がする。長身のフリオニールを担ぎ上げても、その身体はびくともしなかった。空中にぽかりと口を開けたひずみから抜ける。目の前には、燦々と輝く太陽を受けた白い砂浜が広がっていた。
「ジェクト、」
「おう、元気そうだな」
危なげなく着地して、不敵に笑う。まるで昔から近所付き合いでもあったかのような、親しみに満ちた眼差し。フリオニールは胸にこみ上げるものを覚えて、ぐっと言葉を呑み込んだ。
「――オヤジ!」
ジェクトと視線が交差したのはほんの一瞬だ。夜闇に潜む獣のように獰猛な紅い瞳が、飛び跳ねるように駆け寄ってくるティーダを認めて一瞬色を変えた。
フリオニールはその色を知っていた。かつて聴いたティーダの言葉が脳裏に蘇る。何かを諦めて、何かを悔いて、行きどころのない怒りに震えながら、覚悟を決めた男の目が、それでも最後に確かな歓喜に揺れたのをフリオニールは見た。
(――ああ、)
ずきり、と痛みが走る。左胸に手を当てて、シャツの布地を知らずのうちに握りしめていた。
「ジェクト!」
エクスデスたちの去った海岸は、先刻までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。確かな足取りで波を蹴る男が、首筋に手を当てて肩を動かした。
「無事か」
「おう、なんてこたねえわな」
そのふてぶてしい答えに、フリオニールは苦笑した。それぞれが世界を滅ぼしかねない魔力の持ち主を三人まとめて相手にしておいて、この返答だ。傲岸不遜もいいところだった。
きめ細かな砂に足が埋まる。波打ち際で足を止めたジェクトが、いつの間にか沈み始めた夕日を背にすっと目を眇めた。
「元気そうだな」
「……さっきも聞いたぞ、それ」
「はは、そうか」
ざく、と大剣を砂に刺して、ジェクトは腕を組んだ。フリオニールは口を開き、それから言うべき言葉の用意がないことに気づく。
ずっと会いたいと思っていた。話してみたかった。出来ることなら伝えたかった。
あの闘争を終えてから、在るべき世界に戻っても、ずっと忘れられなかった少年のこと。繋いでいたぬくもりを失ったことを、覚めた夢に突きつけられて途方に暮れた明け方、東の空を薔薇色に染める朝日に彼を思い出したこと。彼が幾度か見せた涙のこと。アイツは絶対に倒す、と言う強く遠い眼差し。
「ジェクト、俺は」
褐色の肌を晒す偉丈夫の姿は、逆光に呑まれてよく見えない。それでも、彼が自分の言葉を待っていることは分かっていた。
「俺、は」
――他に、知らないから。おれたちは。そうこぼしたティーダが、あの時だけは自分ではない誰かを見ていたことに気づいていた。膝に懐きながらも、その髪を梳く指を彼は忘れていた。
「こんなに欲が深いとは、思っていなくて」
突拍子もないことを言い出したことは分かっていた。無意識に握りしめた拳が震える。しかし、ジェクトは黙ったままこちらをじっと見つめていた。そのまっすぐな視線に、同じだ、と思う。
同じだ、ティーダと。いつでもこうして、ためらいも衒いもなく正面から目を合わせてくる。
「どうしたらいいのか分からなかったんだ、ずっと」
「……今は分かったのか?」
静謐なほどに落ち着いた声に、首を振る。分からないままだ。あの夜からずっと、手がかりもなく惑乱している。
「悔しかった」
「……」
「悔しいと思うことが、情けなかった」
フリオニールは拳を解いて、両の掌に目を落とした。そこには何もない。ささやかな幸せを守れずに、復讐のためにあらゆる武器を手に取り、束の間の異世界で愛してしまった存在を引き留め損ねた、無力な手だ。
「ジェクト」
「おう」
「俺は、あんたが嫌いだ」
「おお、言うじゃねえか」
出し抜けな言葉に、ジェクトが苦笑する。彼の背後の落日に目を射られて、フリオニールは瞼を閉じた。
「あいつが、俺を見ないから。俺を忘れるから」
あんたのことを考えているときは、いつでもそうだから。どれだけ近くにいても、身体を触れ合わせていても、父のことを想うティーダは、フリオニールの存在を忘れてしまう。世界の位相をずらすように、自分の手の届かないところへ行ってしまう。
――連れて行かないでくれ。ティーダを、俺から奪わないでくれ。
自分の裡に、これほどまでに醜悪な感情があるとは思いもしなかった。強欲で卑しい独占欲。食べ物にありついた餓鬼のように、満たされることを知らずに彼の全てを貪ろうとする。直視に耐えがたい欲求が首をもたげる度に、フリオニールはジェクトを憎んだ。
けれど。俯いていた顔を上げる。寄せては返す波が、金色に輝いていた。
「でも、あんたも大切なんだ、俺には」
続けて絞り出した言葉に、ジェクトが今度は目を瞠る。恨まれるより慕われる方が意外だとほのめかすその紅に再び視線を合わせて、フリオニールは笑った。
「あんたは、あいつの父親だからな」
「……なるほど、そりゃあ大した欲張りだな」
テメエで言うだけのことはある、と声を上げて笑う。心底から愉快だと言うように響くそれに、左胸の疼痛がすっと凪いだ。
「いいんじゃねえか? 欲しがらなきゃ何も手に入らねえ」
「……そうだな」
「テメエみたいなガキが悟ったようなツラしてたって、つまんねえだろうが」
「もうガキじゃないさ」
「ガキは必ずそう言うんだよ、覚えとけクソガキ」
ふふん、と鼻を鳴らして、ジェクトが大剣を手に取った。クラウドのバスターソードみたいだな、と思う。これを振り回しながら、ティーダと遜色ないスピードで駆けるのだから、やはりとんでもない男だ。
「テメエとうちのガキがどうなっててもいいけどよ」
「……」
「あー……なんだ、アレだな」
ゆっくりと近づいてくるジェクトの足元で、ばしゃりと水が跳ねる。夕日は水平線の向こうに沈みつつあり、空と海を燃やしてひときわ強く輝く。
「分かってんだろ? アイツも俺も」
「ああ、分かってる」
遮るように強い声が出た。
分かっている。分かっていた。理解させられた。眠りから覚めて、朝を告げるマリアの声を一人で聞いた時。傍らにぬくもりのないことを知り、それでも狭いベッドで誰かと寄り添うように縮こまって眠っていたことに気づいた時。
こうしてこの世界に喚ばれて、真っ先にあの存在を探した。光をヒトの形に束ねたような輝き。フリオニール、と名を呼ぶ声を、背に飛びついてくる体温を。
「そんならまあ、俺が言うこた何もねえよ」
数歩分の距離を開けて、ジェクトが歩みを止めた。その金剛石の瞳を正面から受け止める。
「言うことは何もねえ。だからよ」
柔らかく綻んでいた眦が、不意に鋭く締まった。反射的に腹の底に力を込める。
「一発、殴らせろ――歯ァ食いしばれ」
言葉と衝撃は、ほぼ同時だった。それと、ああっ、という少年の叫びも。
「がッ……!」
「フリオニール!」
崖から身軽に飛び降るティーダの影が、ぐにゃりと歪んで見えた。ぐわんぐわんと脳髄が揺れて、自分が砂浜に倒れたことに気づくまでしばらくかかった。
「オヤジ! 何してんだよ!」
「あァ? テメエにゃ関係ねえよ、ちょっとした話し合いだ」
「これのどこが話し合いだよ! フリオニール、大丈夫か?」
「ああ……」
この拳を何発も受けて勝ったというティーダは、実はとんでもなく頑丈なのではないか。霞んで震える視界がなかなか落ち着かない。
「ま、これで手打ちだな」
「そうしてくれるとありがたいな……」
「だからワケ分かんねえっつーの!」
ぎゃんぎゃんと吠えつくティーダをいなしながら、ジェクトがこちらを見た。洒落っ気たっぷりに片目を瞑るその顔にやっと焦点が合う。情けないことこの上ない顔をしているだろうと思いながら、ぐらつく足腰を叱咤して立ち上がった。
「おっと、来やがったな」
ジェクトの言葉を掻き消すように、ばりばりと耳障りな音が響く。はっと辺りを見回すと、黒いノイズに空間が侵食され始めていた。次元喰いだ。
「やっべ、行こう!」
「ああ」
崖の下にぽかりと開いたひずみに向かって駆け出す。先に行くぞ、と飛び込む瞬間、ティーダが背後のジェクトを振り返ったのが見えた。
――じゃあな、フリオニール。
荒っぽく、それでも不思議と人を鼓舞するような力強い声がそう言った気がして、フリオニールは息を呑んだ。勢いのついてしまった身体はもう戻らない。
(ジェクト、)
ふわり、と持ち上げられるような感覚に掴まれながら、目を閉じた。渾身の一撃を受け止めた頰が、今になって痛み出していた。