【injured】怪我をした、傷を負った。
がきん、と金属の擦れ合う耳障りな音がした。
「くっそ、通んねえ!」
その身を軽やかに翻したティーダが隣に着地する。弾かれたチェーン付きナイフを引き戻して、フリオニールは彼を見やった。ぐっと口元を引き締めて敵を睨みつけているが、目立った外傷はない。
クラウドとセシルが離脱し、クリスタルを求める旅はふたりでの道行きとなっていた。目の前に立ちはだかるのは、全身を鎧で固めて大剣を携えるイミテーション――ガーランドの模倣品だ。老練で狡猾なところまで複写したイミテーションは守りが堅く、繰り返し突撃するティーダの刃はなかなか決定打を与えられていなかった。
「焦るなよ、ティーダ」
「分かってる」
地上戦を得意とするフリオニールに比べて、宙を駆け回り敵を撹乱するティーダの方が消耗が激しい。戦闘が始まってすでに十分を超え、少年の息は荒くなり始めていた。
(早めに決めたいな)
ティーダには焦るな、と言っておきながら、フリオニールも気が逸るのを抑えられなかった。ナイフの代わりに斧を構えて、相棒に視線を送った。
「行けるか」
「任せろ」
凪の海を汲み上げたような青が煌く。長いようで短い旅路の中で、ふたりはいくつもの連携を編み出していた。ティーダはフリオニールに後を託して飛び、フリオニールはティーダを信じて敵だけに狙いを定める。はじめはぎこちなかった動きも、今では言葉などなくても互いのなすべきことに集中できた。
「こっちだ、デカブツ!」
弾けるように駆け出したティーダが、正面からイミテーションに突っ込む。唸りを上げて襲い来る重い刃を空中で鮮やかに回転して避け、刀身を蹴って舞った。
――今だ。
ティーダの振り抜く水の刃が、敵の視界を奪う。防がれてもともと、狙いはダメージを与えることよりも、その動きを止めること。それから。
「フリオニール!」
呼ぶ声と同時に、手にした斧を全力で投擲した。空を裂いて疾る凶器の向こうで、ティーダが剣を斬り返す。その斬撃はイミテーションの反撃を誘った。空いた胴に斧が突き刺さる、その瞬間。
「――ッ!!」
敵の大剣が、ティーダの目前で鎖剣に形を変えた。勢いを殺しきれずその間合いに飛び込んだ少年の身体が、いとも容易く跳ね飛ばされる。
「くそッ――」
鮮やかな色彩が背後の森に吸い込まれるのを追う視界が、深い紅に染まる。生命を摘み取り呑み込む、貪欲な刃――ブラッドウェポンを手に、フリオニールは咆哮するイミテーションを捉えた。
「ティーダ!」
荒れ狂う武器の嵐を一身に受けたイミテーションが崩れ落ちるのを見届けることなく、フリオニールは走った。手近な樹の根本に置いてあったふたりの荷物を引っ掴んで、ティーダの行く先を探る。
あの速度と重さをまともに受けて、樹の幹にでも身体を打ってはただでは済まない。激しい戦闘の直後だというのに、握りしめた指先が急速に冷えていくのが分かる。
薙ぎ倒された灌木をかき分けてティーダの姿を探す。すぐに彼の呻く声が聞こえて、仰向けに倒れ込んだ少年の傍らに膝をついた。
「ティーダ、聞こえるか」
幸いなことに、彼は積み重なる落ち葉の山に突っ込んだようだった。木々の織りなす空間の真ん中で、どうやら樹や岩に頭を打った様子もない。骨を折っていないといいのだが。
投げ出された手を取りながら、全身を確認する。木の枝によるものだろう切り傷が、剥き出しの首筋や胸元、腕や脚にいくつも走っている他は目立った外傷は見当たらなかった。もう一度名前を呼んで握った手に力を込めると、いてえ、と呟きながら握り返してきたことにほっと安堵の息をつく。
「……イミテーションは?」
「倒した。おまえのおかげだな」
「んなことねえって。うわ、あっちこっちヒリヒリする……」
ティーダがゆっくりと上半身を起こす。その背を支えてやりながら、首筋の傷に目を凝らした。患部の周辺が葡萄色に腫れ上がっている。ただの擦過傷ではないようだ。
(……こんな時に、)
健康的に焼けた肌を横切る生傷。フリオニールを信用し切って無防備に晒された首筋に、浮かび上がるような赤から紫のグラデーション。ほとんど歳は変わらないのに、自分のそれに比べて慎ましく見える喉仏がこくりと動く。釘付けになりそうな視線を慌てて逸らせば、熱を持ち始めた傷を乗せた胸が、乱れたシャツから覗いている。
先刻までの冷たい緊張が嘘のように霧散して、入れ替わりに脊椎に重い熱がじわりと広がる。背骨を辿って脳髄に指を伸ばすその感覚を振り払うように、フリオニールはことさらに明るい声を出した。
「気分はどうだ?」
「んー、大丈夫。眩暈も治まってきたし」
ぱちぱちと瞬きをしたティーダが、自らの腕に走る傷を見て顔をしかめた。傷自体は浅いが、どれも首筋の傷と同じように腫れ始めている。フリオニールはちょうど頭の上にある葉に手を伸ばした。
「……まずいな」
「え、何が」
「毒があるかもしれない」
俺の記憶が正しければ、と呟くフリオニールの声に、ティーダの顔が引きつる。
「毒って、」
「全身に回ると厄介だ」
「ちょ、ちょっと待てよ、どうなっちゃうんだよそれ」
「数日熱が下がらなくなる、それから皮膚が腫れて水疱になる。跡も残るし、ひどく痛む、はずだ」
そんなんやだ! と顔を青くするティーダが、フリオニールの腕に縋り付いた。握りしめる指の力が強いことに安心しつつ、彼の顔を覗き込んで大丈夫だ、と笑ってやった。
――ティーダは大丈夫だ。深刻な怪我はない。
そう確認すると、さっき振り払ったはずの熱さが、その不埒な鎌首を擡げ始めた。蛇の舌のようにその先端が意識を侵食する。
――他に手段もないしな。
内心で言い訳を積み重ねる自分が馬鹿馬鹿しかった。手段なら、ないわけではない。けれど。
――他の敵の気配も、ない。
ちらちらと温度を上げる熱に炙られながら、まだ残っている理性で周囲を窺う。誰の気配もない、敵も、味方も。
「俺がなんとかしてやる、文句を言うなよ」
言わない、とぷるぷる左右に振れる髪を撫でる。海が溢れ出すように涙が盛り上がる目許に軽いキスを落として、フリオニールは彼の細い首筋に触れた。獣じみている、と己を笑う男の内心に、少年は気付かない。
「――ぅあ、」
なんとかしてやる、と言ったところで、フリオニールは医者でも白魔導士でもない。傷口から入り込んだ毒を取り除く、最も原始的な方法を採用した。
「動くなよ」
「って、言ったって……あ、」
傷を口で覆い、強く吸い上げる。滲み出る血を呑み込まないように気をつけながら、吐き出す。それだけだ。
「痛いだろうが我慢しろ」
「いた、くはないんだけ、ど、っ……」
反射的に逃げを打とうとする身体を肩から押さえつけて、フリオニールはまたティーダの首筋に顔を埋めた。傷口を食み、吸って、吐き出す。その度に、ティーダの口からは戸惑ったような吐息が漏れた。
「ほかに、ないのか、よぉ」
「……」
問いを黙殺して、息を吐く。毒素を取り除くためには、勢いよく吸い込まないといけないからだ。肌を撫でる湿った呼気に、ティーダがひくりと震えた。
――他に手段がないのか、と訊いたのが、例えばセシルやクラウドだったら話は別だ。エスナは使えないとしても、荷物を漁れば毒消しの類はいくらでも準備がある。ティーダの肌を裂いた葉がフリオニールの知っているものと同じなら、どの薬草を使えばいいかも当たりがついていた。
けれど。フリオニールはまだ意識の片隅に残る理性から目を背けて、傷を――首筋を、ティーダの弱いところに喰らいついた。
「っひ、ぁ」
散々吸った傷に舌先で触れる。確かめるように。宥めるように。煽るように。押し殺したティーダの声に確かに混ざる濡れた色に、くらりと眩暈を覚えた。
正気ではないのかもしれない。手強い敵との対峙、それを打ち破った高揚感、ティーダに万一のことがあれば、と背筋を凍らせる恐怖、無事を確かめた深い安堵、それからブラッドウェポンの残滓。斬ったものの生命の欠片を遣い手の生命に還元する魔剣の残り香が、少年の全身に滲む血に反応した。
全てがない混ぜになって、今の自分を突き動かしている。そして、突き動かされるままに、こうして血を啜っている。鼓動と同じ速度で温度を上げる欲を野放しにして。
首の反対側の傷に唇を這わせれば、腕の中でティーダがびくりと痙攣した。頤を逸らして、供物のように差し出された喉笛が声もなく喘ぐ。拘束した身体が熱い。傷のせいではないだろう、とフリオニールは確信していた。何故なら、この反応を自分はよく知っているから。
「ぁ、あぁ……」
傷を吸い上げるたびに、ティーダの全身が緊張と弛緩を繰り返す。首筋の傷を終える頃には、彼は四肢をフリオニールに委ねて荒い息を吐くようになっていた。
ティーダの両脚の間に差し入れた太腿に触れるものに気づかないふりをしながら、顔を上げる。自分の呼吸も荒くなっているのは、繰り返し深く吸って勢いよく吐き捨てたからだ、とことさらに釈明する。それを問うはずの少年は、瞼を閉じてものも言わない。
先刻は紫がかっていた傷口は、今は血の赤だけになっていた。侵入を試みていた毒素は無事に取り除けたようだ。そう、だから間違ったことはしていない。これが正しいやり方だ。
ズボンの肩紐を残したまま、胸にかかるシャツをはだけさせた。全て脱がせる必要はない。処置ができるようにさえなればそれでいい。傷は左胸、それから鳩尾、右の脇腹。こんな露出の多い服を着ているからこうなるのだ。
言い訳と抗弁を次から次へと並べ立てながら、左の鎖骨の下を指で叩く。次はここだ、と教えてやるつもりだったが、何のためにそうしたのかは自分でも分からない。
「んっ……ゃ、あ」
口を大きく開いたのは傷を確実に覆うためであって、いつの間にか勃ちあがっていた突起に触れてしまったのは偶然だ。ティーダがこぼす声は、ついに言い逃れようのないほど艶めいて木立に溶ける。
口の中に鉄の味が広がる。他人の血を喜んで舐めるような趣味はないはずだったが、じゅわりと唾液が分泌されて、脳が錯覚を起こしていることに気づく――まさか、血を美味と感じるはずがない。それがいくらティーダでも。
淡く色づく境界線に唇を触れさせて、ぷくりと充血した突起に鼻先で触れる。ひ、と弱々しく息を呑んだティーダを、押さえつけておく必要はもうなかった。
「っは、や、フリオ、」
「まだだ、我慢してくれ」
何を、などと確かめなくても分かっている。フリオニールの太腿をティーダの脚がぎゅっと挟んだが、彼の目も見ずに血を吸い出す「作業」に没頭する。
鳩尾の傷を吸い終えたところで、右胸の辺りに置いていたフリオニールの手にティーダのそれが重なった。
「――もう、いいからっ、ぁ」
節くれ立った指を引っ張るティーダの声は、泣いているかのように語尾が揺れる。しかし痛みに苦しんでいるわけではないことを知っているから、フリオニールは絡んだ指を返してその手を捉えた。
「よくない、後でつらい思いをするのはおまえだぞ」
脅すように声を低くすれば、ぴくんと震えた身体が動きを止めた。それをいいことに姿勢を変えて、脇腹に狙いを定める。
「ああっ……う! ひゃ、あぁ……っ」
腰骨に向かって斜めに張り詰める筋肉に沿うように走る傷を咥えた。下肢がフリオニールの下でひときわ強く跳ねる。握ったままティーダの胸元に置いた手に、どくどくと打つ脈拍を感じた。
脇腹、そこを「処置」している最中に気づいた背中、両腕と進んで、残すところは左脚のふくらはぎだけだ。フリオニールは口元を手の甲で拭いながら、覆いかぶさっていた上半身を持ち上げた。酷使した唇と周りの筋肉がだるい。
執拗極まりない「手当て」に、ティーダはすでに息も絶え絶えといった風情だった。背中に移る時にやっと思い当たって敷いてやったフリオニールのマントの上にぐったりと横たわり、ぴくりぴくりと不規則に震えている。見える範囲の肌は汗とフリオニールの唾液にまみれて、淫靡に濡れていた。
脱力した左脚を持ち上げる。ずっしりと重いそれを支えるために膝の裏に指をかけただけで、嬌声としか言いようのないものが少年の唇からこぼれ落ちた。
「……この傷で終わりだからな」
掠れた声が届いているのかどうかも分からない。長いこと屈めていた背が軋むように痛んで、フリオニールは彼の脚をより高く掲げた。右脚はしどけなく投げ出されたままだ。
しなやかで強靭な筋肉に覆われたふくらはぎの、しっとりと汗ばむ肌に唇を寄せた。乾いた太陽のような、清浄に流れる水のようなティーダの香りに、劣情を煽る体液のにおいが混じる。汗と、それから――さすがに達してはいないはずだが、堪え性のないところから、すでにこぼれ出しているのだろう。
「やあぁ、あっ、んん……っ」
フリオニールの方も我慢の限界だった。ここまで虐めてやるつもりはなかったのだが、結果として根比べのようになってしまったことがいまさら可笑しい。ぴんと張った肌と、筋肉の弾力を堪能する余裕はほとんどなかった。噛みつくように吸い上げて、毒の滲んだ血を吐き出す。何度か繰り返して、ようやっと「処置」を完了した。
森の中は静まり返り、獣の足音ひとつしない。ただ、ティーダの艶めいた呼吸だけがふたりを包んでいた。
「終わったぞ、ティーダ」
少し離れたところに放り出したままだった荷物を引き寄せて、水筒を取り出す。飲み口を汚さないように自分の手と口をすすぎ、まだ充分な量の残るそれをティーダに差し出した。
「飲めるか」
ちゃぷん、と揺れる水の音に、ティーダがのろのろと瞼を開ける。滲んだ涙が目尻を伝って、敷いてあるマントに染み込んだ。
乾いた唇が、むり、と動く。それでも目だけが緩慢に動いて水筒を追っていた。フリオニールは小さく息をつくと、水を口に含む。朝汲んだそれはとっくにぬるくなっているはずなのに、ひどく涼やかに感じたことに、自身の体温が上がり切ってしまったことを知る。
口の中の水を呑み込まないように気をつけながら、ティーダの頭を支えた。薄く開いた唇に重ねて、舌伝いに水を流し込んでやる。当たり前のように絡み合う舌がぬるりと滑り、微熱の範疇を超えた咥内に温められた水がこくりと呑み下された。
「……もっと、」
ねだられるまま、二度三度と水を与える。四度目には、水がなくなってもふたりの唇は離れなかった。渇きを癒して気力を取り戻したティーダの舌が、フリオニールの上顎の粘膜をこそげるように舐め上げる。お返しに、伸び切った舌の付け根を舌先でくすぐってやれば、彼の喉が仔犬のようにくうと啼いた。
ティーダの指が、束ねた髪をくんと引く。催促するものは明らかで、今さら拒む理由もない。それでも、奇妙な悪戯心を起こしてフリオニールは唇を離した。
「先に傷を塞いでしまわないと」
「……おまえ、ふっざけんなよ」
揶揄うフリオニールの股間に、ティーダの膝がぐりぐりと押しつけられる。とっくに膨れ上がって張り詰めたそこは、お預けを喰らい続けて、それだけで弾けてしまいそうだった。
「責任取れよな」
「人聞きが悪いな、手当てしてやったんだぞ」
「……変態。エロのばら」
その呼び方は、特におかしな枕詞をつけるのはやめろ、と笑いながら、腰を重ねて押し付ける。窮屈そうな質量の上をずるりと滑る感触に、ティーダが顔を紅潮させた。
「誰のせいでこんなになったと思ってんだよ」
「俺のせいなら興奮するな」
「やっぱ変態だ」
くすくすと忍び笑いながら、もう一度唇を重ねる。ここから引き返す選択肢は、ふたりの頭のどこにもなかった。