dizzy

【dizzy】めまいがする、くらくらする。目が眩むような。

 ぐらり、と天が回って、落ちたと思った。
 はっと見開いた目に、見慣れた天幕が飛び込む。そうだ、昨日は見張り番の先発で、真夜中に眠ったのだった。いつものテントに、いつもの寝具だ。ぱたりと顔を横に向ければ、自分の鎧と武器が一式、いつもの通りに置いてある。
(……あれ、)
 しかし何かがおかしい。どこかが噛み合わない気がする。横たわったままその違和感を追おうとした矢先、天幕の入り口が開いて朝の光が飛び込んできた。
「ああ、起きてた。おはようフリオニール」
 起き上がって確認しなくとも、声の主は分かっている。
「どこか調子が悪いのかい?」
 返事がないことを訝ったセシルが小首を傾げる。その動きを影で見ながら、上体を起こしてフリオニールは首を振った。
「すまない、ぼんやりしてた」
「起き抜けだからね。朝食、用意できてるよ」
 柔らかく微笑む騎士に曖昧に笑い返す。起き上がったせいか、眩暈がひどかった。

 身支度を整える。まずは顔でも洗ってきちんと目を覚まさなければ。愛用の紅い長剣だけ持ってテントを出ると、清浄な朝の空気に首筋を撫でられた。木立を透かして朝日がこぼれる。
 すぐそばを流れる川に向かうと、先客がいた。金の髪をつんつんと立てた後ろ姿はクラウドだ。おはよう、と声をかけると、無言で片手を挙げた。
「よく眠れたか」
「おかげさまでな。眠りすぎたかもしれない」
 前髪から水を滴らせたクラウドが眦を緩ませた。あまり表情を大きくは変えない彼の、いつもの笑顔だ。
「夢でも見てたのか」
「どうだろうな……何も覚えてないんだ」
「そんなものだろうな」
 掌で掬い上げた水は冷たく硬い感触だった。すっと息を吸い込んで顔を洗う。これで覚醒するはずだったが、何度か繰り返して頭を上げるとまたぐらりと視界が傾いだ。
 何かがおかしい。何がおかしいのか分からない。熱もないし、どこかが痛むわけでもない。ただ眩暈だけが治まらない。不可解さに眉宇を寄せるフリオニールに、クラウドがどうかしたのかと訊いてくる。
「いや……なんでもない」
「そうか」
 そうだ。なんでもない、きっと気のせいだ。

 異世界で訳の分からない模造品相手に戦い、野営が続いても、暖かい食事さえあればそれなりに気が保つものだ。ほかほかと湯気を上げるスープの器を両手で包み、ほっと息を吐く。焚火を囲んで、朝食を摂りながら三人は今日の旅程を話し合う。
「近くにひずみがあったぞ」
「ああ、あっちの方にひとつあったね、僕も見つけたよ」
「それじゃあ、まずはそこからだな」
 早々に器を空にするクラウドに、上品な動きで匙を動かすセシル。やはりいつも通りの光景だ。
(……いつも通り?)
 自分に言い聞かせるように思ってから、その言葉に引っ掛かりを覚える。本当にいつも通りだろうか――いつも通りとは?
 咀嚼していたものを呑み込んで、目の前のふたりを見つめる。セシルと、クラウド。この世界に唐突に呼ばれて、クリスタルを手に入れろと言われて、それからずっと旅路を共にしている仲間たちだ。フリオニールよりも少し歳上の、頼れる戦士たち。クリスタルはまだ見つからないが、彼らと一緒ならきっと辿り着けるだろう。
「フリオニール、どうしたんだい? さっきからぼうっとして」
「寝過ぎだな、まだ眠いんだろう」
 心配そうな声で顔を覗き込んでくるセシルも、揶揄うようなことを言うクラウドも、フリオニールを弟扱いするのはいつものことだ。何度もやめてくれと言っているのに、可愛くてつい、と悪びれない顔をする。いつもそうだ、そうやって自分ひとりが子供扱いされて。

 自分「ひとり」が?

 不意に心臓が跳ねた。何かが足りない。何かが――誰かが欠けている。そう閃いた瞬間に、脳髄が直接揺らされるように世界が歪む。
「おい、どうした。本当に具合が悪いんじゃないのか」
「クラウド、俺たちは……俺たちは、ずっと一緒だった、よな?」
 唐突に過ぎる質問に、クラウドが面食らった顔をする。その横でセシルがぐっと眉を寄せた。
「どうしたんだいフリオニール、僕らはここに来てから離れたことなんかなかっただろう?」
「セシル、」
「俺と、セシルと、おまえの三人でずっと来ただろう、何があった」
 ふたりは心底からフリオニールを案じている。その表情から、声色から、そのことが自然と読み取れるほどに、自分たちは支え合ってきた。そうだ、そのことに間違いはない。間違いがあるとすれば。
「三人、だったのか」
「どう言う意味だ」
「もう一人、いたんじゃないのか」
 焚火を囲んで三角形の頂点にそれぞれが座るこの構図を、フリオニールは知らない。もうひとつあったはずだ、図形の頂点が。
「……やっぱり今日はここで休もう」
「ああ、そうだな。フリオニール、」
「やめてくれ!」
 手から滑り落ちた器が、地面に中身をぶちまけた。ふわりと空気に遊ぶ銀髪と、硬く尖った金髪が揃って緊張する。ああ、これもそうだ。もうひとりいたはずだ、金髪の、自分と同じ年頃の、誰かが。ふたりからの子供扱いに、自分と同じように唇を尖らせながら、それでも満更でもない顔で笑うような、誰かが。
「もうひとりいたはずだ、俺たちには」
 フリオニールの鋭い声に一瞬動きを止めたふたりがこちらを見た。セシルのくすんだ菫色の瞳と、クラウドの揺らぐ碧い瞳が、フリオニールを責めるように輝く。
「……そんなやつはいないよ、フリオニール」
「ああ、はじめから存在しなかった、何故なら」

 彼は夢まぼろしだったから。

 昏い声。セシルとクラウドの姿がぐしゃりと歪む。吐き気を覚えるような眩暈に押し潰されて、フリオニールは息を呑んだ。

 目を見開いた視界に、金色がいっぱいに広がる。わっ、と驚いた声を上げたティーダが、身をのけぞらせた。
「びっくりしたあ」
「……それはこっちの台詞だ」
「いきなり起きんなよな、ぐっすり寝てたくせに」
 透き通った飴玉のような青い瞳が、ぱちくりと瞬きながらフリオニールを見ている。のっそりと身を起こすと、まだ起きなくてもいいぜ、と言う。
「まだ夜明けてないし」
「そうか……」
 ひどく喉が渇いていた。枕元に置いていた水を口に含む。ティーダは横向きに寝そべったまま、折り畳んだ腕に頭を預けて欠伸をした。
「セシルとクラウドは」
「……どしたんだよフリオニール、おれらがここで寝てるってことは、ふたりが見張りだろ」
「ああ……いや、そうだな」
 おれにも水ちょーだい、と言うティーダに、水筒を渡してやる。けっこう飲んだな、と言われて、反射的にすまんと返した。
「フリオニール、」
 言うが早いか、腕を強く掴まれて引き倒される。ぼすんと音を立てて寝具に逆戻りするフリオニールの頰に、少し体温の高いティーダの手が触れた。
「変な夢でも見た?」
 ゆめ、と言われて背筋がぎくりと強張る。その反応に片眉を跳ね上げて、ティーダがそっと距離を詰めた。
「大丈夫だって、夢は夢だろ」
「ああ……」
「覚めちゃえば消えてなくなるんだからさ。気にすんなって」
 宥めるようなティーダの言葉が、その微笑が、氷のように肚の底にわだかまる。表情が晴れるどころか一層沈んでゆくフリオニールの胸に、少年はするりと擦り寄った。
「ほらフリオ、ぎゅって」
「……」
「もーなんだよ、どうしたんだよ」
 抱擁をねだって唇を尖らせるティーダが、だらりと力の抜けたままのフリオニールの腕を持ち上げた。自分のそれよりもいくらか細い腕が、背中に回り力を込める。
「こうしてたら怖くないだろ」
 だからもうちょっと寝ようぜ。そう囁く声に、フリオニールは縋り付いた。
「わ、なんだよ、苦しいって。そんなに怖い夢だったのか?」
「そうだ、な」
 仕方ねえなあ、とティーダは嬉しそうに笑った。暖かく湿った吐息が胸元をくすぐる。

 ――彼は、夢まぼろしだったから。

 夢は、覚めれば消える。それなら、おまえは。
「ちゃんとここにいるからさ、安心しろよ」
 必死に吸い込んだ息が喉で引き攣れた。顎の下をくすぐる金色の髪。緩く背を叩く掌の温度を追いかけたかったのに、世界が崩れるような眩暈に襲われて、フリオニールは瞑目した。