【ghost】幽霊、亡霊、幻影。
風のない夜だ。夜行性の鳥が溜息のような声で鳴いている。
ひたりと肌に貼りつく空気はティーダの体温にちょうど一致して、どこまでも歩いて行けそうな錯覚をもたらす。現実から数センチだけ乖離したような爪先の感触。
キャンプからほど近い湖のほとりに、ティーダは立っている。一昨日満ちた月は、誰かにかじられたようにほんの少しだけ欠けている。こんな訳の分からない世界でも、月は満ち欠けを繰り返すのだと思うと妙に可笑しかった。
「……おかしいのは、こっちか」
胸の高さまで伸びる葦のような草を掻き分けて、ティーダは独りごちる。聞くもののないはずの言葉に、しかし応じる声があることに彼は驚かない。
「何がおかしいの、ティーダ」
「……久しぶりっすね」
「そうだね、このところ、君は忙しそうだったから」
涼やかでありながら、どこか老成した印象の少年の声。姿なきそれがほんの少し意地の悪い響きを孕むのに、ティーダは苦笑する。
「寂しかったのかよ?」
「まあね。君が気づいてくれなければ、僕は存在できないから」
「悪かったって。ちゃんと思い出しただろ」
「知ってるよ。ずっと見てたもの」
その言葉にうん、と頷いて、ティーダは上着と靴を脱ぎ捨てる。目の前の水面が、風もないのにゆらりと同心円を描いた。裸足で踏みしめた草と湿った土の感触がくすぐったかった。
「そうだよな、ずっと居てくれてるもんな」
「それが僕にできるたったひとつのことだから」
「そんなことねえよ、いろいろ教えてくれただろ、あの時だって」
胸の前にかざした手の中に、ティーダのクリスタルが現れる。映し出すものを何も持たないそれは、淡い月影を受けて濡れたように輝いた。
「……僕は、まだ後悔してる」
「なんでだよ。他になかっただろ」
「うん。でも……」
声の主が呑み込んだ言葉の続きを、ティーダは知っている。だから微笑んだ。この世界の戦士たちには見せたことのない顔で。
「よかったんだよ、全部」
よっ、と真上にクリスタルを放り投げて消し、ティーダは湖を覗き込む。同心円の中心に、浅黒い肌の子供の爪先と、垂れる深紫の衣が逆さまに映った。
「そうだろ、バハムート」
ティーダは彼の本当の名を知らない。彼もその名をティーダに告げることはない。現し身の名を呼ばれた少年は、何回分かの呼吸を数えながらためらって、そうだね、と囁いた。
この世のものではない存在は鏡に映らない、と言ったのは誰だったか。いつかの不寝番の暇つぶしに、バッツあたりがそう話していたのかもしれない。
静謐に広がる湖の水面は、下弦の月のもとで水鏡となる。その鏡は、見えぬものの姿を映し、そしてティーダの姿を映さない。
自分の鏡像が消えたことに気づいたのは、クリスタルを手に入れた直後だった。朝目が覚めて、顔を洗おうと覗き込んだ川面に自らの姿が映らないことに気づいたティーダは、奇妙に落ち着いていた。
ジェクトと引き換えに手に入れたクリスタルは、失った記憶を伴っていた。そうして全てを理解していたから、濡れた顔を拭いながら思ったことは、ああやっぱり、だけだった。
死んだわけではない、なぜなら命として生まれたわけではなかったから。生死の別はティーダには当てはまらない。仕分けるのであれば存在しているか否かでしかなくて、自分は本当は存在しないはずであると分かっていた。
心臓は脈を打ち、流れる血は傷つけばそこから噴き出す。肌はそれなりに温かいし、空腹にもなる。
けれど、ティーダは存在しない。そのことを思い出してしまったから、どんな鏡にももうその姿は映らない。
此岸と彼岸を隔てる一枚のガラスを経由して、ティーダと紫衣の少年は相対している。鏡の中にだけ存在する祈り子は、鏡に映らない夢の申し子に問う。
「きみは、僕を憎んでいない?」
「おまえを? まさか」
きょとんと目を丸くする太陽の子に、祈り子は唇を噛む。憎んでもらいたかった。恨んで欲しかった。あの時、彼の存在と引き換えに世界を救わせたことを。その決断を強いたことを。
「そりゃ、まるで恨んでないって言ったらまあ、それは嘘だけどさ。何でおれだったんだよ、って」
「……そうだよね」
「でも、みんなのおかげで、おれは今ここにいるんだよな、きっと」
彼の泳ぐ海をつくろう、と言ったのはシヴァの祈り子だった。祈り子たちのなかでも最も慈しみ深い彼女に応じた祈り子たちが最後の力で生み出した新たな夢の海で、ティーダは眠っていた。神々の闘争に喚ばれるまで。
何という皮肉だろうか。再び目覚めた夢はこの世界に生き、仲間を、友を、愛するものを手に入れて、再び父を殺し、再び消えるのだ。
「なあ、バハムート。おれ、またあの海に還れるのかな」
祈り子は答える術を持たなかった。わからない、と弱々しい声に微笑むティーダの爪先が、水面にさざ波を作った。
「……ティーダ、そこにいるのか?」
がさりと音がして、少年を呼ぶ声がする。ティーダはぐっと息を呑んで、それからことさらに勢いよく振り返った。
「フリオニール」
「どうしたんだ、こんなところで」
訝しげに問われるのを背に、ティーダは湖に身体を落とした。ばしゃりと水が跳ねていくつもの波紋が乱れ絡み合う。少年の腕が大きく水を掻いた。その姿が映らないことに、驚いた顔で立ち尽くす男が気づかぬように。
「ちょっと泳ごうかなって、月がキレイだからさ」
「だからって、夜にひとりは危ないだろう」
狩人らしく目のいい彼から逃れるように、波を曳きながら岸を離れる。祈り子の気配はまだそこにあるけれど、波に揺れる湖は最早その姿を映さない。
「フリオニール」
たっぷり離れてから振り返ると、岸辺のフリオニールが眉根を寄せてこちらを見つめているのがわかった。今夜の月よりも高い温度で光る瞳が、案ずるように眇められる。
「なあ、おれの名前、呼んでよ」
「……どうしたんだ、ティーダ、何かあったのか」
「何でもないよ、いいから、なあ」
名前を呼んで欲しかった。彼の声で、彼しか呼べない名前を呼んで欲しかった。そうすれば、ここにいることを許される気がしていた。
そう遠くない未来に自分は消えるだろう。光の粒になって、散る花よりも早く、何も残さずに消えてしまう。ジェクトがそうだったように。その様は、潔いとも美しいとも言えるかもしれない。ティーダはその近未来を、いずれ我が身に降りかかる事実として受け容れた。
けれど、今はまだ。
「なあ、フリオニール」
不意に風が走った。葦の葉がさざめいて、フリオニールの姿を覆い隠す。
「ティーダ」
下弦の月の欠けたところから吹いてくるような風を裂くように、フリオニールがティーダを呼んだ。ティーダ、戻ってこい、よく通るその声に、水に散り溶けそうな身体を繋ぎ留められる。
ざあ、と水面を掻き乱す風は、まるで月の女神が髪をなびかせるように優しい。月も星も葦も祈り子の影も、全てが水に沈む。
「ティーダ」
何度目かの呼びかけに、少年はすうと息を吸って水底に潜った。静かな渦を巻いて、全身を水に委ねる。揺らめく水面越しに、歪んで千切れた下弦の月を見た。
滑るように泳いで、フリオニールの足元にたどり着く。勢いをつけて土を蹴り、一気に飛び上がって彼の胸に飛び込んだ。一瞬の間も置かずに抱き締められて、その確かな熱さにこぼれた一雫の涙は、頰を濡らす水滴と混ざり合って消える。
「あまり心配させるな」
「……うん、ごめん」
「何があったか、言いたくないなら言わなくていい。だが俺は、」
フリオニールの言葉は、唇を塞がれて途切れた。くちづけた瞬間にひくりと強張ったそこは、すぐに柔らかく解けてティーダを受け入れる。表面だけをなぞって、食むように押し付けて、吐息が交じり合う、児戯のようなくちづけ。その稚拙な交唇を駆り立てる切実さが欲ではないと気づいたフリオニールの手が、ティーダの濡れた髪をそっと撫でた。
「……ありがとな、フリオニール」
やっと唇を離して、それでも離れがたく頰を寄せるティーダの額に、彼の額がこつりと重なる。その褐色の瞳が静寂を取り戻した水面に向けられることを恐れて、ティーダはまた唇を要求した。
――おれがどこにもいなくても、ここにいることを、赦して。