pulse

【pulse】脈拍、心拍、鼓動。

「それ、癖なのか?」
 え、と顔を上げる。今夜の見張りはクラウドとティーダだ。自然と途切れた会話の合間に、どうやらぼんやりしていたらしい。
 クラウドの碧い目が、焚火の炎を映して揺らめいている。静かな森の奥にある、穏やかな泉の水面のようだ。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「いいさ」
 おれ、なんか変だった? と聞くと、そうではないと低く柔らかく否定する。戦闘となればティーダよりも大きなバスターソードを軽々と振り回す重戦士だし、昼間はとんでもない冗談を飛ばしたりもするが、こういうときは泰然として落ち着きのある大人だ。
「こうやって」
 クラウドが両の掌で耳を覆った。
「俯いているのを、たまに見る」
「そ……うだっけ」
 戸惑いながら、クラウドの動きを模して耳殻を覆う。火の中でぱちりと枝の爆ぜる音が少しだけ遠くなり、かわりに、さあ、とホワイトノイズが走った。
「いつやってる?」
「昼間はやらないな。夜、こうやって見張りをしている時とか、寝る前だな」
「そっか……」
 癖というものは、無意識の行動なだけあって自分では気がつかないものだ。世界を遮断するようなかたち。自分の中に巣食う茫洋とした不安のようなものがこぼれ出してしまったような気がして、きまりが悪い。
「変だよな」
「そうか?」
 誤魔化すように笑うティーダから目を離して、クラウドは手元の枝を火に投げ入れた。夜の静かな風に乗って、燃える木の芳香が鼻をくすぐる。
「安心するんだろう」
「……?」
「心拍や血流の音が、本能的に人間を安心させるらしい」
 もう一度、耳を覆う。ごうごうと鳴るのが血の流れる音だろうか。じっと神経を集中させると、それが一定のリズムで波打っているのがわかる。決して綺麗な音ではないが、言われてみると確かに不思議な落ち着きがもたらされることに気づいた。
「なんでなんすかね」
「子宮の中にいたころに聞いていた音だから、という説があるがな」
「生まれる前のことなのに、身体は覚えてるんすね」
 身体が常に脳の支配下にあるわけではないということを、ティーダはスポーツ選手の本能として知っていた。試合中にものを考えないわけではない。しかし、脳では遅すぎることもある。「ゾーンに入る」というような言い方をするが、時には思考のくびきから放たれた肉体がより鮮やかに踊るのだ。だから、意識より前の記憶に身体が安らぐという話に違和感はなかった。
 それから、自分が夜になるとこうして走る血の音を聴いてしまう理由も、なんとなく理解した。うっすらと戻り始めた記憶が、根拠は分からないものの、眠りというものを恐れている。正しくは、眠ることだけではなくて、そのあとに起こる夢見というものを。
 おそろしい夢を見ることに怯えているわけではない。夢そのものが怖いのだ。ただ、このぞっとするような不気味さを上手く言葉にできないティーダは、クラウドに気づかれないよう細く息を吐いて、話題を変えた。

 それからしばらく経った。クラウドが、それからセシルがふたりのもとを離れ、フリオニールと過ごすようになって何度目かの夜だ。
 四人でいた頃は二人ずつで仮眠を回していたが、二人ではそうもいかない。ティーダたちは行動様式を変え、夜にまとめて眠るのではなく、数回に分けて数時間ずつ眠るようにしていた。
 自分の眠る番には、務めて体力の回復に集中する。相方のことを気にしながら、岩肌や樹に背を預けて眠るのには未だに慣れないが、眠らなければあっという間に参ってしまうことは分かっていた。
 ひずみをひとつ解放したところで、折良く休息にうってつけの丘を見つけた。柔らかな草が生い茂り、苔むした大きな岩がある。
「フリオニール、次おまえの番だろ」
「ああ、そうだったか」
 休もうぜ、と声をかけて岩陰に腰を下ろす。かさばる武器を下ろしながら、フリオニールが小さくため息をついた。
 疲れているのか、とは訊かない。疲れていて当たり前だ。イミテーションたちは次第に模倣の精度を上げていた。求めているクリスタルへはなかなか手が届かず、落ち着いて疲れを癒すことも許されない。
 ティーダに横顔をじっと見られていることに気づいたフリオニールが、ばつが悪そうに笑った。
「悪い、何でもない」
「なんでもない、って感じじゃねえよ」
「ちょっとだけな、今朝方、上手く休めなかったから」
 そのことにはティーダも気づいていた。明け方前に見張りを交代してフリオニールは横になったが、今ひとつ寝つけなかったようだ。スイッチの切り替えに失敗した、というやつだろう。
「ずっと気、張ってるもんな」
「ああ……駄目だな、どうも落ち着かなくて」
 でも大丈夫だ、気にしないでくれ、と笑う目許にうっすらと影ができている。さきほどもひずみの中ではそれなりの戦闘があった。このままでは、また休めないだろう。
 その時、いつかクラウドの言っていたことがふと脳裏に蘇った。
(……心臓の音が、落ち着かせる、か)
 マントを広げて横たわる場所を整えるフリオニールを眺めながら、手を左胸に当てる。どくん、どくん、と伝わってくる微細な振動に、これなら、と小さく顎を引いた。
 これなら、少しでも助けになるかもしれない。
「フリオニール、」
「ん?」
 振り返る彼に向かって、両腕を伸ばした。疑問符を浮かべるのをまどろっこしく思いながら、その頭を強引に抱え込む。
「ティーダ?」
「はい、耳ここ」
 上着の間で剥き出しになった胸に、ひんやりとした耳が当たった。耳飾りが硬く冷えていたが、すぐにティーダの体温に温められる。全身を硬直させたままのフリオニールを抱え直して、楽にしろよ、と言ってやる。
「あの、なんだ?」
「落ち着かねえ?」
「どちらかというと落ち着かない、が……」
 ティーダの腕が外れないので、フリオニールがもぞもぞと姿勢を変える。彼が寄り掛かりやすいように背後の岩に深く凭れてやれば、胴の上に乗るずっしりとした重みが妙に心地よかった。
「心臓の音って、安心するんだってさ」
「そうなのか」
「産まれる前に、胎の中で聴いてた音だからって」
 なるほど、と小さく相槌を打つフリオニールが、瞼を閉じたのが分かる。肌の上を睫毛が滑った。
 彼の首筋に触れた手首に、ティーダのそれよりも少し遅い脈拍が伝わってくる。決して一致はしない鼓動が何かを指し示すようで切なく、しかし安定したパルスに心が凪ぐ。
「おれの鼓動、聴こえる?」
「ああ……ちゃんと刻んでる」
 あたたかいな、と呟くフリオニールに、その言葉がどれだけティーダを喜ばせるか分かっているのだろうか。
 自身の存在が祈り子の見た夢だと思い出してから、ティーダには怖いものが増えた。眠ること、夢を見ること、それから「ティーダ」という夢が覚めてしまうこと。耳を手で覆っても、左胸を探っても、自分が感じている生命の証がただのまやかしに過ぎなかったら。
 だから、こうして素直に抱え込まれているフリオニールが、何の気遣いも衒いもなく自分の鼓動に温もりを覚えてくれたことに、胸が詰まる。
 フリオニールの呼吸が少しずつ深く遅くなる。救われたような、あるいは赦されたような想いで、ティーダは彼の長い後ろ髪に指を絡めた。