210のベッド事情

 ベッドが壊れた。
 ほぼ成人に近い男子二人、それもわりと体格のいいスポーツ選手と、規格外にガタイのいい学生兼肉体労働者(花屋の仕事は立派な肉体労働である)を毎晩乗せてくれていたベッドの寿命はあっけなく訪れた。いや、二人を安らかな眠りに導き疲れを癒してくれる寝台の脚も、本来ならばもう少し長く務めを果たすことができたはずだ。週に一日とか二日とかたまには三日四日くらい行われるレクリエーションさえなければ。
 満身創痍だったベッドにとどめを刺したのはティーダだ。フリオニールはいつも通りベッドの端に腰かけて携帯のアラームをセットしていただけなのだが、風呂上がりでぽかぽかのティーダが飛びついてきたのが悪かった。いえーい、などと能天気な声と共に床を蹴った彼の身体をフリオニールが受け止めることなど造作もなかったが、その衝撃を受け止めかねたベッドの左側の脚はそうもいかなかった。
「……今、めきょって言った?」
「そうだな……」
 ふたり揃って恐る恐るシーツをめくると、思いつく応急処置ではどうしようもないほど明らかに脚が折れていた。ご臨終ってやつっすね、と呟くティーダの隣でフリオニールは頭を抱える。
 当面の間はマットレスを床に直置きして眠ればいいとして、問題は買い直しだ。奨学金とバイトで生活費を賄うフリオニールの懐は決して温かいわけではない。春からは晴れて大学院生となることが決まっているから、新しい教科書だとか資料だとかで金が飛んでいくことが分かっている。専門書はどれも高価だ、できれば節約したかった。
 フリオニールとティーダが一緒に住むようになって二年。高校を卒業してすぐに新興チームに入団したティーダは初めの一年は球団の規定通り寮で生活していたのだが、選手生活二年目に入ると一人暮らしが認められるようになった。おれフリオニールんちに住んでいい? とティーダは目を輝かせたが、ごく普通の学生にふさわしいワンルームに男二人が暮らすのはさすがに無理がある。いろいろと話し合った結果、生活費は全て折半にする約束で今住んでいる物件に引っ越したのだ。
 くだんのベッドは、フリオニールが大学に入学したときに買ったものだった。身体が大きいからとセミダブルサイズを選んだのだが、ここにティーダも同衾するようになったことでかかる物理的な負担は一気に高まったというわけだ。人間でいえば疲労骨折のようなものなのだろう、夜なのに(あるいは夜だからといって)浮かれたティーダだけのせいではない。
 のだが、それでもティーダなりに罪悪感を覚えているようだ。明くる朝にもまだしょんぼりしているのがいじらしくて、フリオニールはわざと気楽な調子で口を開いた。この際、出費のことなど考えてはいけない。
「新しいのを買おう、もう少し大きくて頑丈なやつ」
「うん……」
「もうすぐシーズンも始まるだろ、おまえの疲れがちゃんと取れるやつにしような」
「そうっすね……」
 うつむき加減でスクランブルエッグをつついているティーダは、垂れた耳と尻尾が見えそうな落ち込みぶりだ。ごめん、と繰り返す彼に何とか朝食を食べさせて練習に送り出す。明日はたまたまティーダの練習もフリオニールのバイトもないから、講義が終わり次第、家具屋に行くことに決めた。

 その日の夕食はティーダが準備してくれた。低脂肪高タンパクにビタミンたっぷりを心掛けるアスリートの食事を堪能し、後片付けをフリオニールが引き受ける。
「あのさ、明日なんだけど」
「ああ、どうした? 用事でもできたか?」
 新人王の座を射止め華々しいデビューを飾ってからというもの、ティーダの生活は並の選手よりもずっと忙しくなった。人懐っこい性格やサービス精神にあふれた振る舞いが功を奏して、さまざまな商品のイメージキャラクターに選ばれるようになったのだ。
 テレビや雑誌への露出はブリッツに関する真面目なものだけど決めているが、昨年の夏からは制汗剤のコマーシャルに出演しており、大変な人気を博している。ドラッグストアなどに配荷されるポスターにフリマアプリでなかなかいい値がついているのを発見したときは、フリオニールもどんな顔をすればいいのか分からなかった。弾けるような笑顔で制汗剤のボトルを手に映っている新進気鋭のエースは、何を隠そう自分の恋人なのだ。フリオニールには分かるそのよそゆきの笑顔が、何となく恨めしくなってしまったのも無理はない。
 そんなことはともかく、あちこちに引っ張りだこのティーダは突然打ち合わせの予定などを入れられることがある。一日フリーだからと計画したデートの予定がご破算になってしまったことも一度や二度ではない。今回もそのパターンだろうか、とフリオニールはわずかに落胆した。
「あ、いやそうじゃなくて。大丈夫、明日は何があっても休むってお願いしてあるから」
 その言葉に思わずほっと息をついた。重々覚悟はしていても、やはり約束が反故になるのは寂しい。それに、フリオニールを置いて出かけなくてはならないティーダのほうだっていつも心苦しそうにするから、それを見送るのもつらかった。
「行きたい家具屋、ってかベッド屋? 寝具屋? あるんだけど、そこでいい?」
「構わないが……」
「ワッカがさ、最近ベッド新しくしたって言ってて。めちゃくちゃ寝心地いいんだって」
 その名前はフリオニールもよく知っていた。ティーダの所属するチームの大黒柱ともいえるベテランだ。若い選手の多いチームにあって珍しく妻子持ちで、ヒーローインタビューが苦手なのも含めてサポーターたちからは愛されている。ティーダを可愛がってくれていて、ふたり揃って彼の家にお招きに預かったこともあった。奥方はちょっときつい感じの美人だが、家のあちこちに転がっていたぬいぐるみの半分以上は娘のものではなく彼女のものだそうだ。人間とはかくも奥深いものである。
「イナミちゃんもすげー気に入ってんだって。ちょっと気にならねえ?」
「そうだな、寝心地くらいは試してみたいな」
 ベテランのワッカが使っているというのだから値もそれなりに張るのではないかと思ったが、そこはぐっと呑み込む。こういうところでけちくさいことを言ってはいけない、稼ぎはなくとも平気な顔をしていなければ。
 それでも多少怖気づいたフリオニールの返事に、ティーダは嬉しそうに笑った。
「そんじゃ明日、三時半だよな。駅前で待ってるから」
「ああ、よろしくな」
 風呂に向かうティーダの背中を見送って、皿を洗い終えたフリオニールはネットバンキングの画面を開く。もともと行こうと思っていた「お値段以上」がキャッチフレーズの家具屋ならば全額払うことも可能だったが、そうは問屋がおろさないようだ。頼む、何とか保ってくれ俺の残高。七割、せめて六割くらいは払いたい。例えバイトのシフトを増やすことになったとしても。

 講義を終えて待ち合わせ場所に向かい、女子高生に取り囲まれてきゃあきゃあ言われているティーダを何とか救出する。お付き合いを始めて早六年、行く先々でファンにとっ捕まるティーダを嫌みなく騒がれず脱出させるスキルは我ながらなかなかのものだ。
 年若いファンの方が物分かりがいい。あっさりティーダを解放してくれた女子高生たちに、さすがティーダさんお友達もイケメンですね、と黄色い声を出されたのには辟易したが、何はともあれ電車に乗った。目的地まではそう遠くない。
「イケメンだって」
「やめてくれ、恥ずかしい」
「なんで、いいじゃん。ほんとのことだし」
 にやにや笑いで揶揄うティーダの腕を引いて、ターミナル駅で降りる。少し早い時間だからか、覚悟していたほどの人込みではなかった。こっち、と先導するティーダを追って辿り着いたのは、フリオニールでも聞いたことのある有名寝具メーカーのショールームだ。
「ここって……」
 ショーウィンドーのモニターでは、世界大会でも表彰台常連のフィギュアスケーターが、自宅でも海外でももう手放せません、と喋っている。その横には有名なエアラインのロゴと共に「ファースト・ビジネスクラスで使用されています」のポップ。間違いない、これはとんでもなく高価なやつだ。
 怖気づくフリオニールをよそに、ティーダはてくてくと気安く足を踏み入れる。即座に寄ってきた貫禄のある男性店員にも怯むことなく、アポ取ってます、ティーダですと愛想笑いして見せた。
「ティーダ様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
 あれよあれよという間に奥のスペースに通された。ベッドを買いに来てハーブティーを出されるだなんて思ってもおらず硬直しっぱなしのフリオニールの横で、ティーダは茶菓子のビスケットを口に放り込む。
「この度はワッカ様のご紹介ということで」
「そうなんすよ、めちゃくちゃいいって話聞いて。ちょうどうちもベッド古くなってきたから、買い替えようかなって。せっかくだからいいやつがいいなーって」
(壊れた、とは言わないんだな……)
「ありがとうございます」
 柔らかな物腰を崩さない店員が滑らかにラインナップを紹介し始める。サイズはどちらをお考えでしょうか、と尋ねられたティーダが、ふいにフリオニールに水を向けた。
「どーする? 思い切ってキングサイズいっとく?」
「はっ!?」
「おまえいっつも窮屈そうだったじゃん。せっかくだから百人乗っても大丈夫みたいなやつがいいかなって」
「いやあの、」
「なるほど、お二人でお休みになられるのですね。百人は乗せられませんが、お二人なら」
「そうっす。やっぱダブルでもきついかなー、どうすかね?」
「そうですね、お二人ともゆったりお休みになるのであればもう一回りか二回り……」
 どこから突っ込んでいいのかわからない展開に、待ってくれ、としか言えないフリオニール。サイズ表を見ていたティーダと店員が示し合わせたように戸惑いっぱなしの青年を見つめた。
「……キングサイズは、さすがに置けないと思う、んだが」
「あーそっか、キングサイズって実際どれくらいっすか?」
「そちらの壁際にある、青いシーツのものがキングサイズでございます。その横がクイーン、さらに横がワイドダブルですね」
 どうぞ実際に寝てみてください、と店員が微笑み、ティーダに引きずられるままにフリオニールも立ち上がった。ああもう、どうなってるんだ。こんなはずじゃなかったのに。

 結果、クイーンサイズお買い上げ。
「いやー、やっぱ実際寝てみると全然違うっすね! うっかり昼寝しちゃうとこだったっす」
「皆様そう仰いますね。お気に召して何よりでございます」
 二杯目のハーブティーに口をつけるティーダも、発注書を埋めてゆく店員もご機嫌で、青ざめているのはフリオニールだけだった。値段の予想がつかない。さっきから値札を探しているのだがどこにも見当たらないのだ。唯一、値段が書いてあるらしき一覧表はティーダが肘の下に敷いている。何とかして見られないものか。いや、見たところでどうなるわけでもないのだが。きょろきょろと瞳を動かしていると、ティーダが不意に手を打つ。
「そうだ、一緒にシーツとか買ったほうがいいよな?」
「ああ、そ、うだな……」
「したらさ、悪いけど見てきてくんない? おれ洗濯表示とかよく分かんないから」
「カバー類でしたらあちらでございます。ご案内いたします」
 音もなく忍び寄ってきた女性店員の声にぎくりと肩が跳ねる。どうぞこちらへ、と促されるままに席を立ち、カラフルな布の並ぶ棚の前に立ってからやっと、フリオニールは気づいた。
(やられた……!)  
 これはあれだ、相手が手洗いに立った隙に支払いを済ませるテクニックの応用だ。ばっと音さえ立てて振り返ると、ちょうどティーダが財布から何かを抜き出したところだった。向こうの話し声が聞こえないこの距離でも分かる、鋭い銀色の光を放つそれは――選ばれし者にのみ許された輝き、プラチナカード。
「お客様、いかがされましたか? ご気分が優れませんでしょうか」
「……いや、大丈夫です……」
 がっくりと肩を落とし、長躯を屈めるフリオニールに、女性店員がおろおろと声をかける。視界の隅に見えたシーツのプライスカードだけは、フリオニールにも無理なく支払える金額を伝えていた。

「そんな怒んなよ、悪かったって」
「……怒ってるわけじゃない」
「だってどーしてもあれがよかったんだもん、それっておれのわがままじゃん? だったらおれが払うのがスジっていうかさあ」
「…………」
「それにほら、家のこととかなんだかんだフリオにやってもらってるからさ。恩返し的な?」
「…………」
「なあってばあ、機嫌直してくれよお」
 猫撫で声を出しながら首に懐いてくるティーダに、今ばかりは向ける顔がない。情けなさでいっぱいだ。かたや有名スポーツ選手、かたや一介の学生。世界が違うのは分かっていたが、二人で暮らすこの家の中では対等でありたかったのに。
 長年使っていたからスプリングもヘタれているマットレスの上で、胡坐をかいたフリオニールの背中にティーダが張り付いている。さして大きくもないこの寝室に、クイーンサイズの高級ベッドが届くのは今週末の土曜日だ。きっとちぐはぐでみっともない感じがするだろう。大きくて立派で寝心地のいいベッドと、それを収めるだけで精いっぱいの小さな部屋。まるでティーダと自分のようだ。図体ばかり大きくたって、ひととしての器のほうが追い付かない。そんなことをまざまざと見せつけられて、自分一人だったら泣いていたかもしれない。
「……だってさ、ベッドって大事だろ。一日の三分の一はベッドの上にいるんだぜ。あ、フリオニールは四分の一くらいかもだけど。朝早いもんな」
 首根っこにしがみつくのをやめたティーダの体温が離れる。途端に寒さを覚えたフリオニールを宥めるように、彼は背中合わせに座って身体を凭れかけた。かすかな重みが心地よい。
「おれ、このベッド大好きだったんだ。おれのせいで壊しちゃったけど、でもここで毎日おまえと寝てたし、ふざけたりしたし、キモチイイこともたくさんしたし」
「……おまえのせいじゃない」
「サンキュ。――だからさ、次はもっとたくさんいろんな思い出作りたいなって思ったんすよ。長く使えて、ちょっとやそっとじゃヘタれなくってさ、何年経っても、ここでいろんな楽しいことしたなって覚えてられるように」
 だからちょっと調子乗った、ごめん。そう言った声が罪悪感にしょぼくれていた今朝を思い出させて、フリオニールはついに肩の力を抜いてしまった。
「悪い、俺もつまらない意地を張った」
「んなことねえよ」
 結局のところ、惚れ抜いた相手に見事に格好つけられて拗ねていただけだ。まだ二十歳そこそこのティーダがプラチナカードの持ち主だったというのもショックだったし、シーツ選びを口実に支払いの場から追いやられたのも情けなかった。けれどそれも所詮はフリオニールのプライドの問題で、ティーダの想いが分かればいとも容易く絆されてしまうのだ。
 フリオニールはくるりと振り返って、まだ不安そうに申し訳なさそうに揺れているティーダの瞳を見た。ふたりの出会ったあの街の海の色、この世で一番美しい青だ。
「……俺はベッドがなくても忘れないけどな。全部」
 それでも最後にちくりと一刺ししてやるつもりの台詞は、フリオニールのすけべ、と笑うティーダに混ぜっ返されてあえなく不発に終わった。

 数日後の土曜日。意気揚々と練習に出かけて行ったティーダを見送り、フリオニールは新しいベッドを迎えた。二人がかりでやって来た宅配兼組み立て業者への差し入れ缶コーヒーも抜かりなく手渡し、ずいぶん奮発されましたね、と感嘆する彼らに曖昧な笑いを返す。
「ベッド届いても先に寝たらダメだかんな!」
 抜け駆け禁止! と念を押したティーダの言葉に忠実に、寝室に足を踏み入れることなく彼の帰りを待つ。今日の夕飯はちょっと豪華に海鮮たっぷりのアクアパッツァだ。顔見知りの魚屋がいいスズキを仕入れていた。せっかくだからたまにはワインも開けてしまおう。飲み口が軽い白がいい。ティーダは酸味や渋みの強いものは苦手だ。
 日が暮れて、あとは魚に火を通すばかりとなったところでティーダが帰ってくる。手洗いうがいもそこそこにフリオニールの腕を引いて、寝室の扉の前に立った。
「もう見た?」
「ちょっとだけな」
「マジかよ、ずりい」
「組み立て確認に必要だったんだ、ざっと見ただけだぞ」
 わざとらしく膨れた恋人の頰をつつく。ふにふにと柔らかい感触を楽しんでも、振り払おうとするティーダの手はふにゃふにゃとじゃれついてくるだけだ。二人して浮かれている。
「そんじゃ、オープン!」
 じゃーん、と効果音つきで扉を開く。目に飛び込んできた光景に、フリオニールとティーダは同時に噴き出した。
「ははは、なんだこれすげえ! デカい!」
「すごいな、部屋ごとベッドみたいだ」
 さして広くもない寝室に鎮座ましますクイーンサイズ。入り口から一歩踏み出せばもうベッドだ。足側にあるクローゼットの扉がかろうじて開くほどしか隙間がない。ひとことで言えば、みっちり、という感じだ。
「うわー、めっちゃテンション上がる! おれ一番乗り!」
「あっずるいぞティーダ!」
 勢いをつけて頭から滑り込むティーダを追って、フリオニールもベッドに倒れる。さすがは最高級品、二人が同時に飛び込んでもびくともせず、適度な硬さのスプリングが包み込むように身体を受け止めた。
 うひゃーすげー、といつもより高い声のティーダがころころと端まで転がり、またころころと戻ってくる。二回転半できた! と笑いを弾けさせる彼を抱き止めて、フリオニールも半回転した。ちょうど、ティーダを押し倒すような姿勢に。
「んっ……」
 両腕に閉じ込めたティーダの首筋に顔を埋めて、その香りを深く吸い込む。練習の後だからかシャワーでは流しきれなかった塩素のにおい、その向こうにいつもの彼の香りがする。きれいな水のような、あたたかな陽だまりのような香り、フリオニールを安らがせ、そして身体の奥に眠る種火に風を送り込む香りだ。
「……フリオニールのすけべ」
「この間聞いたな、それ」
 期せずして昂り始めたものに気づいたティーダが悪戯に笑う。わざとらしく受け流すと、下から突き上げるように彼の熱がフリオニールの腰に押し付けられた。
「あーあ、おれ腹減ってたのに」
「じゃあ先に飯にするか?」
「うっわ、白々しいっす」
 するりと伸びた腕がフリオニールの首にかかった。引き寄せられて唇を重ねる直前、ティーダの囁いた言葉に思わず笑ってしまう。
「これもある意味初夜じゃねえ?」
「ベッドにとっては初仕事の方が正しいんじゃないか?」
 そんなんどっちでもいいから、しよ。ティーダらしい誘い文句に、フリオニールが抗う理由などどこにもなかった。