Día de Muertos

 水面に浸した爪先が、波紋の下で屈折する。細波の反射する光が緑がかった赤に傾斜して、フリオニールは目を眇めた。

 この世界の太陽は七色に歪曲していて、目の眩む毒々しさにフリオニールはひどく居心地の悪い思いをする。幾たびもの夜を明かしても慣れはしない。何かの間違いではないかと訝る自分を、間違いはお前のほうだと嘲笑する陽光だ。
 間違っているのはお前のほうだ。定かではない記憶の向こう側で繰り返しそう宣う傲慢な声がする。これは果たして本当に俺の記憶なのだろうか、この声が自分のそれのように響くのは思い違いだろうか。手の中でナイフに括り付けた鎖がぎしりと鳴る。
 ぐにゃり捻じ曲がる自分の足先を見るに耐えず、逃した視線の先で湖面が裂ける。やっと無色に解放された光が散って、そのまばゆさを畏れるように瞼が降りてしまう。一瞬のあとにこじ開けた視界に、飛沫を纏って舞い上がる姿が飛び込んだ。フリオニールの認識にある「正しい」光を束ねたような少年は、飛び上がった勢いが嘘のようになめらかに静かに着水する。
 ああ、呑まれてしまう。肌から染み通って筋肉を侵し、血と内臓を腐らせ、骨を朽ちさせるような太陽に、その光線に毒された水に、彼が引き摺り込まれてしまう。己とてその水に両の足を突っ込んでいることをとうに忘れて、フリオニールは彼の名前を呼ぶ。ティーダ。聞こえているだろうか、底まで見通せるくせにぎらりと反対色の鬩ぎ合う水が、彼の鼓膜を覆って妨害しているのではないか。水面を割ってひょこりと跳ねた毛先から雫が滴り、その雫が今度は不快な紫に輝くものだから、まるで彼が溶解されているかのように錯覚する。
 彼は頭のてっぺんだけを空気に触れさせて、水に身を委ねているらしい。時折思い出したかのようにすいと水を掻く手脚の他は、安らぎの大いなるかいなに抱かれてぴくりとも動かない。常のひとであるならば絶えず吐き出すはずの気泡すら見えず、揺らぐオパールに閉じ込められてしまったようだと、その稚拙な比喩に他ならぬ自身が背を震わせる。
 浅瀬に立ち上がったフリオニールの呼ばう声は、きっと届いていない。けれど、何度目かの呼びかけに応じるように、おそらくはそれはただの偶然なのだが、ティーダが音もなく浮上し始める。水を斜めに昇って近づいてくるその手に、虹色に偏光する波越しに見てさえ鮮やかな濃い橙が握られているのを認めた。
「ティーダ」
「あー、気持ちよかった。ごめんな、退屈だったよな」
 ようやっと顔を出したティーダが呼吸をしたことに、滑稽なほど安堵する。同じ空気を吸って吐いてそれで命を繋いでいるのだと確かめなければ、陽光に腐敗した水に彼が溶けて解けて滲んで消えてしまうあの埒もない空想を振り払えなかった。
 フリオニールのいる浅瀬に危なげなく立ち上がったティーダは、これ、と手の中のものを差し出す。折り重なる帯を寄せて絞り上げたような花弁は深く重い赤みを含んだ黄色、それを支える茎は磨りガラスを纏ったような緑で真っ直ぐと伸びている。見覚えのある花だ、マリーゴールドという名前ではなかっただろうか。
 どうしたんだと訊けば、ぽつりと一輪が浮いていたのを見つけたのだという。別に花ならなんでもいいってわけじゃないのは知ってる、と言うから、返答に困って唇を曖昧な笑みの形に歪めた。奪われた花はあの花ひとつきりであって、しかもあの花は「花」ではない。加えて、フリオニールを戸惑わせた理由は他にもある。
「これさ、おれに似てるって」
 前にセシルに言われたことがある、そう言うティーダに倣って花を見る。大きく広がった花弁の形といい色彩といい、あのたおやかに見えてどうしようにも軍人らしい気質が見え隠れする男が、これをティーダに擬えるのも分からないでもなかった。そうかもな、と呟く自分の声が想定以上に沈鬱を帯びていて、わずかに目を瞠る少年から目を逸らす。
「おれだって喜んでるわけじゃないからな、花なんかに喩えられたって」
「いや、そういう意味じゃない」
 そういうことじゃない、と繰り返す視線の先の柑子色は大きな頭を重たげに垂れ、喘鳴を繰り返す肺病患者のように揺れている。この花を知っている。
 これは死人の花だ。秋の終わり、明日になれば萎れて枯れる盛りのマリーゴールドをありったけ摘んで、死者の魂を迎えるのだ。噎せ返るその匂いさえ嗅覚に蘇り、亡き人を偲ぶ祭壇の笑う髑髏が浮く幻視が視覚野を刺す。
「なあこれ、何て花なんだ?」
「マリーゴールドだ、……それは」
 祝祭の花だ、去り行く秋と引き換えに、もういなくなってしまった人々の魂だけが還ってくる二日間の祝祭を彩る花だ。
 ふうん、と鼻を鳴らしたティーダが手にした花を翳す。不気味なハレーションを起こす忌まわしい空の色に、彼は気付いていないのだろうか。
「じゃあ、いい花なんだな」
 その言葉にフリオニールは息を呑む。永久に喪われた者を悼み、目に見えぬ束の間の帰還をことほぎ歓待する、死者の日はハレの日だ。何も入っていない抽斗を、何も入っていないと知りながら開けるような空虚な祭だとしても。
「だって、これが目印になるんだろ?」
「……そうだな」
 夜の深い闇の中でさえ自ずから光を放つような山吹色を手繰って、死者は懐かしい場所を探す。かつて慈しみ、愛おしみ、その腕に抱いたひとに、たった一目まみえるために。
 これだけ豪奢な彩りであれば、きっと迷わない。そう言って笑う彼の手を強く引いた。ふたりの踝が突き立った水面がばしゃりと跳ねて、極彩色の水鏡が何も映さなくなる。
「わ、なんだよ」
「なんでもない」
「おまえまで濡れちゃうだろ」
「いい」
 鎧を脱いだ胸元にひやりと浸み通る温度を厭わしく思った。ティーダはなされるがままに抱き締められている。その手がぶら下げる花弁から滴る雫の音を聴いた。
「こんな花はいらない」
 お前によく似た花は、お前を導くための花ではない。死者の道標が、分かたれる世界を繫ぎ留めることは決してない。
 拘束する腕の強さに少しだけ苦しそうな息を吐いたティーダは、そうだな、と呟いた。
「おまえは、死者じゃない」
 少しだけ速い脈拍に縋り付くように、彼の首筋に顔を埋めて目を閉じる。だから、当たり前だろ、と応えるその顔に浮かぶものにも、ぱきりと折れた茎の鮮烈な緑色にも、中天に跪座する太陽がずるりと滑り落ちるように輝いたことにも、フリオニールは気づかなかった。