おかえり、ただいま。 – 1

【注意】
・現パロ210です。2は大学院生、10はブリッツのプロプレイヤーですが特に活用されていない設定です。
・ふたりとも二十代前半だと思ってください。
・Dom/Subユニバース設定に基づいています。
・平たくいうと、「支配したい・褒めてあげたい」のがDomで、「奉仕したい・褒められたい」のがSubです。
・で、ティーダがDomでフリオがSubです。命令するのはティーダで、されるのはフリオです。
・Dom/Subですが、SM要素はありません。
・書きっぱなしなので、矛盾などがあってもご容赦ください。
・「あっこれやだな」と思ったら見なかったことにしてください。

 がちゃん、と鍵の回る音がして、フリオニールは顔を上げた。目の前のコンロでは、片面に焼き色のついたハンバーグがじゅうじゅうと食欲をそそる香りを振りまいている。フライパンの横にはとろりと深い艶を放つキノコ入りのデミグラスソース、今夜は煮込みハンバーグだ。
 二つ目の鍵が開いた。出迎えたいところだが、今ハンバーグから目と手を離すわけにはいかない。彼の好みはレアに近いミディアム、一瞬目を離せば焼き過ぎてしまう微妙なラインだ。仕方のないこととはいえ、足元がそわそわと浮く。
「ただいまー」
「おかえり!」
 せめてもと、帰宅を告げる声に大きく返事をする。ぱたぱたとスリッパを引きずって、リビングの扉が開いた。がたん、と重い音を立てるのは大きなスーツケースだ。
「おかえり、ティーダ。すまない手が離せなくて」
「いーよ、ただいま。今日なに?」
「煮込みハンバーグだ」
「やった。キノコ入ってる?」
 ぱあっと顔を輝かせたティーダの鼻の頭が赤い。日中はそうでもなかったが、夜になって急に冷えたようだ。指で触れようとした髪から、ひんやりとした気配が伝わってくる。
 頭ひとつ分低いところから、ティーダの青い眼がフリオニールを見た。飴玉のようなそれが、きらりと輝く。伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた。
 一瞬の静寂を埋めるように、肉の焼ける音がする。フリオニールは呼吸を整えながら火を止めた。危うく焼きすぎてしまうところだった。
「……それ、まだかかんの?」
 肩に担いだままだったボストンバッグをどさりと落として、ティーダが問う。フライパンの中身を崩さぬようにソースの鍋に移しながら、フリオニールは悟られぬよう静かに唾を呑み込んだ。
「いや、あとは少し煮込むだけだ」
「そ? 分かった」
 じゃ先にやっちゃおうぜ、と軽い調子でバッグを引きずって行くティーダの背を見る。背筋をぞくりと這うものを堪えて、デミグラスソースにそっとハンバーグを沈めた。

 ティーダがこの家に帰ってくるのは実に二十日ぶりだった。季節が夏から秋へと移り変わり、競技としてのブリッツは来春までの長いオフシーズンに入っても、自他共に認める「エース・オブ・ザ・ブリッツ」は相変わらず多忙だった。
 彼の所属チームは先シーズンを準優勝で飾り、オフに突入するが早いか自主トレキャンプを開始した。何月であろうと燦々と陽の注ぐ南国で二週間少々。ことブリッツに関してはフリオニールをさえ驚かすストイックぶりを発揮するティーダは、一日の始まりと終わりに短いメッセージを送って寄越すだけで、朝から晩までひたすら水の中にいたらしい。キャンプ地は常夏の島でありながら、繁華街やリゾート客の楽しむ海岸から十分に距離を置いた球団のプライベートビーチだと、出かける前のティーダから聞かされていた。最寄りの飲み屋まで車で三十分、そうでもしないと誰がどんなすっぱ抜かれ方をするか分からないからな、と肩を竦めた若きエースは、奇妙に世馴れた顔をしていた。
「だから安心しろって」
「安心?」
「ヤンチャする余裕も時間もないからさ」
 そう言って悪戯っぽく覗き込んでくる額を弾いて、何すんだよ、と尖らせた唇に触れたのも二十日前、この家から彼を見送った時だ。

 本当は付け合わせのパスタも茹でてしまいたかったのだが、後回しにするしかない。フリオニールは軽く手を洗うと、リビングのソファで待つティーダに歩み寄った。彼はつまらなそうな顔で携帯をいじっている。その反対の手に握られたものが見えて、フリオニールはぐっと唇を引き結んだ。そうして、やっとのことでこみ上げるものを抑えつける——ふつふつと湧き上がる歓喜を。
 ティーダはソファの左端に座っている。しかし、空いたスペースに座ることはしなかった。出来なかった。何故なら、まだ「許可」が下りていないからだ。フリオニールは静かに待つ。手を握りしめたのは、ほとんど無意識だった。
「……よっし、オッケー」
 呟きながら携帯を放り出したティーダが、フリオニールに笑いかける。凪の海の遠く深いところを汲み上げて閉じ込めたような、晴れやかな青がすっと細められた。
「待たせてごめんな、フリオニール。……『お座り』」
 その言葉が耳に届くが早いか、フリオニールは床に両膝をついた。胎の底が焦されるような興奮と、暖かな毛布に包まれたような安心を同時に覚えて、くらりと目眩がする。そうするのが当然のように差し出した頭にティーダの掌がぽんぽんと触れて、深く息を吐いた。
「ん、よくできました」
 満足げなティーダの声を聞いて、全身の緊張が抜ける。するりと滑り頤にたどり着いた彼の指に促されて視線を上げれば、ちゃり、と軽い金属の音がした。こっくりと深みのある栗色の革から、銀色の短い鎖が垂れている。その先端には雫形の藍晶石が、ティーダの瞳と同じ色に輝いていた。
「どうする? 自分で着ける?」
 その疑問符を掻き消すように首を横に振る。分かっていて毎回同じことを訊くのだ。意地が悪い、というのではなく、こんな他愛のないやりとりを重ねることで、彼は満たされる。自分もまた。
「そしたら、どうすんだっけ?」
「着けて……くれ、ティーダが」
 浅ましい愉悦に語尾が滲むのを、最早隠しきれない。フリオニールは膝をついたままにじり寄って、くっと顎を上げた。無防備に晒された喉笛を、ティーダの指先がくすぐる。
「ちゃんとお願いできてえらいっすね、フリオニールは」
 よしよし、と犬でもあやすような言いぶりに、抗い難い喜びと昂りを覚える。胴震いするのを押し留める必要はもうない。何故なら、自分を見下ろすティーダもまた、同じ喜悦を噛み締めているのは、間違いのないことなのだから。



 彼らはそういうように生まれついている。支配するDomと、服従するSub。傅かれるDomと、奉仕するSub。愛玩するDomと、哀願するSub。そのダイナミクスは絶対で、満たされない欲求に焦がれ死にたくなければ対となる存在を得る他にない。
 ティーダはDomで、フリオニールはSubだった。その事実に是も非もない。フリオニールの髪が銀色であることや、ティーダの瞳が青いことと同じように、彼らはSubでDomだった。その性質が発現し始める高校生の頃に出会って、互いにSwitchであると装ったまま知り合い、友人から親友となって、ゆっくりと線を越えて、二年前にティーダから首輪を贈られた。その背景にはいろいろと事情や事件もあったが、ともあれ今のふたりにとって重要なのは、互いの裡に、互いでしか満たしようのない欲求があって、満たし合うことを互いに許しているという事実だけだ。



 もうちょっとこっち来て、と囁かれて、ティーダの膝に縋りつくような姿勢を取る。フリオニールよりも身体の小さなティーダは、彼にこの姿勢を取らせるのがお気に入りだ。その嬉しそうな楽しそうな顔を見れば、乾いたスポンジが水を含むように胸の奥が潤ってゆく。
 二十日間だ、と改めて思う。プロのブリッツ選手であるティーダは遠征だ何だと家を留守にすることが多いから、これだけの日数離れているのも珍しいことではない。ふたりで暮らし始めてから、半年に一回はあることだ。かたや、大学院の修士課程で植物生態学を研究しているフリオニールはたまにフィールドワークに出掛けるくらいだから、「取り残される」のは圧倒的に自分の方が多い。結局のところ、相手のそばにいられないという意味では置いて行こうと行かれようと違いはないのだが、ティーダの気配があちこちに染みついた部屋でひとり生活するのは、覚悟していた以上にフリオニールを渇かせた。
 伸ばした首に、柔らかなフェルトの感触が巻きついた。ティーダがキャンプに出かける前までに着けていた首輪にはなかった暖かさだ。眉を上げると、首輪を締めながらティーダが笑った。
「急に寒くなっちゃったもんな。くすぐったくねえ?」
「大丈夫だ」
 着けていればそのうち体温に馴染む首輪のことなのに、その数分間のことを慮るティーダが照れくさそうな顔をする。彼はフリオニールを傷つけたり痛めつけたりすることを好まない。ひとことにDomと言ったって、いたぶり辱めるのが好きなタイプからどろどろに甘やかすのがいいというタイプまでいろいろだ。ティーダはどちらかといえば後者で、彼のDomらしい振る舞いといえばこうして首輪を着けさせることと、「おいで」「お座り」「待て」と命ずることや大袈裟なほどに褒めること、ごくたまに眼力でフリオニールに言うことを聞かせるくらいのものだった。
「できた、苦しくないよな?」
「ああ、ありがとう」
 金具にぶつかった青い石がキンと澄んだ音を立てる。鎖骨の間に垂れたそれを愛おしそうに撫でたティーダが、破顔してフリオニールの首筋に顔を埋めた。
「あー、帰ってきたぁ」
 ぎゅうと抱き締められながら、久しぶりのティーダの香りを堪能する。彼の髪の跳ねた部分が頰に当たってくすぐったい。
「おかえり、ティーダ」
「ううーフリオニール不足で死ぬとこだった……」
「死なれたら困るな」
「おまえは平気だったのかよー」
「……平気なわけないだろう」
 ぐりぐり擦り付ける動きを止めたティーダが低い声を出すのに、こちらも押し殺した声で返した。彼はたまにこうしてフリオニールを試すようなことを言う。自分が餓えているならフリオニールも同じだけ餓えているのだと、いいかげん理解してくれないものだろうか。
 分からないなら何度でも言うだけだ、とフリオニールが言葉を重ねれば、いいこ、と耳元で微笑するティーダが次の許可を出した。
「ぎゅってして、フリオニール」
 先ほどから膝の上で持て余していた両手を広げて、ソファから滑り落ちるティーダを思いっきり抱き留めた。ブリッツプールの中ではどんな巨漢も吹き飛ばしてゴールを決めるエースの身体が、今はフリオニールの腕の中にすっぽりと収まってご満悦だ。二十日間を取り戻すようにぴたりと密着する半身の体温に、揃って没頭する。ちゅーしよ、と誘う唇に逆らえるはずも、逆らう理由もなかった。

「……ティーダ、腹が減っただろう」
 散々貪り合った唇をやっとのことで離す。失念していたが、ティーダは十数時間のフライトの後だ。風呂にも入りたいだろうし、せっかく用意した夕飯も食べて欲しい。
 そう思って促すと、ティーダは存外にすんなりと身体を離した。
「先に風呂入ってきていい? カラダ、バキバキだ」
「だろうな」
 フリオニールの膝の上で、ううん、と伸びをしたティーダのどこかの関節が音を立てる。ビジネスクラスだとは言っていたが、狭い機内で座りっぱなしでは無理もないことだ。
 ハンバーグを焼く前に風呂の準備を済ませておいてよかった。ティーダが片付けようとする荷物を引き受けて、そのままバスルームに送り出す。
「あ、パンツ」
「用意しておくから」
「サンキュ」
 覗くなよ、と冗談めかすティーダの額にもう一度唇を落とした。ぱたんと閉まるドアを背に、彼が風呂に入っている間に済ませる用事を頭の中で数え上げる。
 荷物の片付けは、自分が風呂に入るついででいいだろう。まずはティーダの着替えを用意して、それから途中だった夕食を完成させる。冷蔵庫を開けて、ビール瓶が冷えていることを確かめた。食べるものの好みが似ていても、ビールに関しては一致しないふたりの気に入りの銘柄がそれぞれ二本ずつ。ティーダは普段酒を呑まないから、今日呑んでもせいぜい一本空くか空かないかだろう。フリオニールは強いよな、とたまに羨む声を出すが、その赤らんだ顔を見るのも好きだった。
 ティーダの寝間着と下着をクローゼットから取り出すついでに、昼のうちに整えておいたベッドも確認する。ぴんと張ったシーツに、高さの違う枕が四つ。ひとつがフリオニールのもので、三つはティーダが使う。枕がいっぱいあると安心するんだよな、と昔から言っていたが、ふたりで眠る時は結局どれも使わない。明日は久しぶりに腕が痺れるな、と考えて、まんざらでもなくひとり笑った。
 二十日ぶりの再会で、何もなくオヤスミ、はあり得ないだろう。ふたりともごくごく健全な年頃の男子だ。潤滑剤やもろもろがサイドボードに収まっているのを確かめて、寝室を後にした。
 再びバスルームに入ると、磨りガラスの向こうに見える影がびくりと震えた。
「着替え、置いとくぞ」
「ん、ありがと」
 そのまま足早にキッチンに戻る。無粋なことをして機嫌を損ねるわけにはいかない。フリオニールには不要だが、ティーダには準備が必要だ。



 Domだからといって、肉体まで制圧するわけではない。彼らの場合、抱くのはフリオニールの方だった。初めて、いざ、というときに、そうしたいと言ったのはティーダだ。
「おれはフリオニールのこと、親友だと思ってるから」
 その言葉を嬉しく思いながらも、どういう意味だろうか、と首を傾げずにはいられない。確かにふたりは友人から関係を始めて、周囲からは相棒と形容されるほど馬の合う親友だった。ふたりの関係にDomとSubの要素が入ってきてからもそれは変わらない。
「おれはDomだし、フリオニールはおれのSubだけど、でも対等でいたいんだ」
 おれの、と所有格付きで呼ばれて、フリオニールの中のSubが歓喜する。この人しかいない、と決めたDomに占有を宣言されることほどSubを満たすものはない。それだけでSub spaceに入ってしまいそうなのを堪えて、ティーダの言葉の続きを待つ。
「もしフリオニールが抱かれたいってんなら、おれだって喜んでそうするっす。結局さ、おまえならどっちでもいいんだ、おれ」
「俺だって同じだ」
「だよな。だったらさ、フリオニールが上になってよ。おれ、フリオニールに抱かれたい」
 どっちが突っ込むかで優劣がつくわけじゃないけどさ、バランス取れる気がするじゃん、と逸らされた視線が、強い眼力を伴って戻ってきた。それだけで脊髄に電流が走るような快感をもたらす、Domの何かを命ずる瞳だ。
「なあ、おれのこと、いっぱい気持ちよくして」
 それが命令ならば、従うだけだ。例え自分がSubでなかったとしても、頷いていただろう。アイオライトのように偏光する青の奥に潜む甘えを、出会った時からフリオニールが拒絶できた試しはないのだ。



 シャワーの音を聴きながら、沸いた湯にパスタを放り込む。三口あるコンロはフル稼働だ。今日はメインの味付けが濃いから、スープはたっぷり野菜のコンソメスープにする。それぞれの鍋に加熱を任せて、バゲットをスライスした。パスタとパンで炭水化物過多な気がしないでもないが、たまにはいいだろう。
 バゲットを天板に並べてオーブンに突っ込んだところで、バスルームの水音が止む。続いて、どぷんという音と共に、「うあー……」と呻き声のようなものが聞こえてきた。湯に浸かってリラックスしているだろうティーダの姿が見えるようで、自然と口許が綻ぶ。
 冷蔵庫の野菜室を覗き、そういえばプチトマトを買ったのだったと思い出した。今夜のメニューは彩りが今ひとつだからちょうどいい。ハンバーグの上にでも乗せておこう。
 速茹でのパスタを見守っていたタイマーが電子音を鳴らした。ざるに揚げて水気を切り、熱いうちにバターを絡めてパセリを振る。そうこうしているうちにティーダが浴槽から上がったようだ。煮込みハンバーグ用のグラタン皿を水で濡らし、今度は電子レンジを使って温める。同時にデミグラスソースの鍋に火をつけた。我ながらなかなか手際がいい。
「フリオニールー」
「どうした?」
「ハンバーグに卵乗っけてー」
 浴室のドアの向こうから、ティーダがねだるのに分かったと返事をする。
「目玉焼きか?」
「んー、うん」
 先ほどまでパスタを茹でていたコンロにフライパンを乗せて、卵を割り入れた。黄身が綺麗に出ているとティーダが喜ぶから、ごく弱火で蓋も差し水もしない。焼けるまでにスープをよそい、ハンバーグの盛り付けを始める。ちょうどバゲットも温まった。タイミングは完璧だ。
「いい匂い」
 濡れた髪をタオルで拭いながら、ティーダがキッチンを覗き込む。つるりとした頰は上気し、健康的に日焼けした肌が水分を纏わせて、シャンプーの清潔な香りを漂わせていた。ぽたりと雫を滴らせる髪を乾かしてやりたい。うずうずと奉仕欲が疼く。
「フリオニールの飯、食いたかった」
「今日は栄養バランス考えてないぞ」
「一日くらいいいって。キャンプの飯もまずくはないけどさ、管理栄養士のウンチク毎回聞かされるんだぜ、あれじゃ食事じゃなくて補給だよ」
 思い出したのか、げんなりとした顔を見せる。フリオニールは小さく笑って、じゃあ座ってくれ、と彼を促した。
「なんか手伝う?」
「いや、俺がやりたいんだからやらせてくれ」
「そっか、ありがとな」
 湿ったままのタオルを肩に掛けてダイニングテーブルに座るから、また世話を焼きたくなってしまう。乾いたタオルに替えて、出来ればドライヤーまでかけてしまいたい、けれど温かいうちに食べてほしいから、せめてタオルドライくらいはさせて欲しい。そんなことを考えながら、目を輝かせるティーダの前に皿を並べる。
「ビール呑むか?」
「ん、じゃあ呑む!」
 最後によく冷えた瓶を取り出して、黄金色に泡立つ液体で満たしたグラスを差し出した。よし、あとは髪を乾かしてやるだけだ。新しいタオルを取りに行こうとした時だった。
「どこ行くんだよ」
「いや、タオルを……髪を乾かさせてくれ」
「いーよそんなん」
 グラスを片手にティーダが唇を尖らせる。命ずるというにはまだ優しい調子のそれに戸惑って足を止めると、
「フリオニールはおれと一緒に飯食うの」
 ほらおまえのビールも持って来いって、おれ腹減って死にそう。そう言うから、フリオニールは諦めるしかなかった。
 しぶしぶ自分の酒も用意して、ティーダの向かいに座る。湿ったままの金髪を恨めしく見ながらグラスを持ち上げると、心底おかしそうにティーダが笑った。
「とりあえず乾杯な」
「……ああ、お疲れ様」
 かちん、とグラスが触れ合う。風呂上がりで喉が渇いていたのだろう、それは見事な呑みっぷりを見せるティーダを眺めていると、彼は口の周りに付いた泡を舐めとって言った。
「フリオニール、たまにオカンっぽくなるよな」
「おかん」
「なんつうの、概念上の母親っつーか、世話の焼き方が」
「……」
 自分としては世話を焼いているわけではなくて、あくまでも奉仕のつもりなのだが、肝心の恋人にそう言われてしまうと立つ瀬がない。渋い顔でビールを啜るフリオニールを見て、ティーダはスープ用のスプーンをひらひらと振った。
「分かってるって、それがフリオニールのやり方だっていうのは」
「しかし」
「単にちょっと面白いなって思うだけ」
 面白がられても困るのだが。自分のどのあたりがそう思わせるのだろうかと考え込みそうになるが、お、このスープ美味い、と呟くのが聞こえれば、そのささやかな悩みも棚上げだ。フリオニールもフォークを取って、デミグラスソースから頭を出すキノコに突き刺した。



「あー美味かった! ご馳走さまでしたっ」
「お粗末様でした」
 主菜からバゲットまで、綺麗にぺろりと平らげてくれたティーダを見ているうちに、こちらの腹まで満たされてしまった。空いた皿をシンクに積み上げる。
「ティーダ、デザート入るか?」
「ん、何?」
「梨がある」
「やった、食う!」
 大成するスポーツ選手というのはそういうものなのだろう、ティーダはなかなかの健啖家だった。毎日毎食これに付き合っていたら、日によっては家と大学の間を行き来するくらいしかないフリオニールの方が肥ってしまいそうだ。
「今剥くからちょっと待っててくれ」
 そう言うと、シンクの目の前のカウンターにティーダが両肘をついて顔を出した。
「あれ作ってくれよ、うさぎ」
「梨でか?」
「出来ない?」
「出来るが、可愛くはならないぞ」
「奥ゆかしくっていいんじゃね?」
 奥ゆかしい、という堅苦しい言い方がなんだかおかしい。フリオニールは冷蔵庫から取り出した梨をよく洗って、果物ナイフで八つ割りにする。淀みなく動く手を、ティーダがじっと見ている。食事をしているうちに、彼の髪はすっかり乾いてしまった。それが妙に口惜しいのをごまかすように、芯をえぐり取る。
「そんなに珍しいものでもないだろう」
「いいじゃん、おれフリオニールが料理してんの見るの好き」
「こんなのは料理のうちに入らないぞ」
「まあまあ、おれのことは気にせず」
 他愛のない言葉を交わしながら、リクエスト通り切り込みを入れた皮を残した。林檎のようにはっきりとはしていない色味は、なるほど奥ゆかしいと言えなくもないかもしれない。
 ガラスのボウルに梨のうさぎが放り込まれてゆく。旬なだけあってずいぶん大ぶりの梨だったから、ひとつで充分だろう。自分は食べなくとも構わない。もうひとつある分は、明日の朝食——果たして「朝」になるかどうかは甚だ怪しいが——に残しておく。
 好きなだけ食ってくれ、とボウルを差し出すと、受け取ったティーダがこてんと首を傾げた。
「もう腹いっぱい?」
「ああ、久しぶりに食いすぎたな」
 今日のように主菜副菜にスープまで用意するのはティーダがいる時だけで、自分ひとりならばたいていはワンプレートだ。と言えば聞こえはいいが、要するにパスタだけとか、肉と野菜の炒め物だけとか、そういう質素なもので済ませてしまう。料理は嫌いではないが、食べてくれる相手がいないのでは張り合いがない。
 ふうん、とティーダがつまらなそうな声を出した。シンクのタップを開けて皿洗いを始めようとすると、
「なーなーフリオニール」
「なんだ?」
「『こっちおいで』」
 不意を突かれて肩が震える。今のは間違いなく「命令」だった。慌てて水を止めると、ティーダがDomの顔で笑う。はやく、と急かされて、濡れた手を乱雑に拭ってダイニングに戻った。
「ここ座って」
 先にソファに腰を下ろしたティーダが、横の空いている座面をぽんぽんと叩く。許しを得て座ると、さっき渡したばかりのボウルを差し出された。首を傾げながら受け取ると、目の前でティーダの口がぱかりと開く。
「あーん」
「そういうことか」
「ほーゆーほと」
 うさぎをひとつ摘み上げて、大きく開いた口に潜り込ませる。唾液で濡れた舌の赤さにこみ上げるものを感じて、ティーダの白い前歯が果汁を湛えた果肉に食い込むのをつい見つめてしまった。
「エロい目で見んなよな」
「……仕方ないだろ」
 しゃくしゃくと爽やかな咀嚼音。実があまり大きいから味が薄かったらと危惧していたが、どうやら杞憂だったようだ。いくらでも食えそう、と笑む口に、頭をかじられたうさぎの残りを押し込んでやる。わざとらしく迎え舌をするのは行儀が悪いが、こんな時にそれを咎めるつもりはフリオニールにはなかった。本当に母親じみてくるし、何よりティーダの企ては明らかだ。乗らないという選択肢はない。
「足りなかったか?」
「どっちが?」
「夕飯だ」
「そっち? そっちはじゅーぶん、ほんと美味かったし。いっつもありがとな」
 これは別腹、と嘯く唇に、うさぎの耳を這わせる。はむはむとうごめいた肉厚の粘膜が、また一片、梨を咥えた。口角から漏れる唾液か果汁か判然としないものをちゅうと啜るティーダの目は、すっかり焔を宿している。身綺麗にして、空腹が満たされたらいよいよそっちの順番というわけだ。
「フリオニールもいっこ食べれば、美味いぜ」
「ああ、そうだな」
 生返事をしながら、フリオニールは動かない。「好きにしていい」と命令されてはいないからだ。何より、ここまでティーダの求めるものを手際よく整えたことに対する労いも欲しかった。
「そんじゃ、はい、あーん」
 フリオニールの心情をきちんと過不足なく理解したティーダが、摘み上げた果実を差し出した。促されるままに口を開き、与えられるものを甘受する。これからの「運動」を考えればひとくちふたくちで充分だ。久しぶりに恋人の素肌に触れられるのに、腹が重いのでは恰好がつかない。Subとはいえオスとしての本能もきちんとあるのだ。貪り合うのに邪魔な要素は残したくない。
 この一片だけにしておこう、ともぐもぐしながら内心考えていると、ティーダがくすりと笑う。
「フリオニール、かわいい」
「……そうか」
「うん、ちょーかわいい。おれのフリオニール、めっちゃかわいい」
「言っておくが、おまえもかわいいからな」
「へへっ」
 側から見る人がいれば、なんと馬鹿馬鹿しいやり取りだと思うだろう。大きいとは言えないソファに身を寄せ合って、果物を互いの口に差し込みながらかわいいのなんだのと幼稚な睦言を交わしているのだから。冷静になればこちらだって呆れかえって恥じ入りたくなるような状態だ。しかし、ティーダもフリオニールもここで我に返るような野暮な真似をするつもりはない。お待ちかねの時間は、もう始まっている。
 先に痺れを切らしたのは、当然と言うべきかティーダの方だった。器の中にあとふたかけを残したところで、腕をするりと伸ばしてフリオニールの首を引き寄せる。
「いいこ、おれの言うこと聞けるよな?」
 こくりと頷いて、フリオニールは器をローテーブルの端に置いた。ガラスの天面にボウルがぶつかって、がちゃんと耳障りな音を立てたが、ティーダはそれを咎めなかった。
「次はカッコいいフリオニール見せて」
 首輪から垂れる鎖を指で引いて、不埒な唇が煽動する。こうしてフリオニールを喜ばせる「命令」ばかりしては甘やかすDomの深い青い瞳に囚われながら、その身体を抱え上げた。もう一歩だって彼を歩かせるつもりはなかった。




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