ミスター・ヴァーティゴ – 3




【番外編】


 スイートルームの分厚いガラスは地上の喧騒を遮って、部屋の中はひどく静かだ。空調と空気清浄機が動く微かな音と、ティーダの寝息だけがフリオニールの耳に届く。
 時刻は夜中の二時半を回ったところだ。照明を落としたベッドルームのデスクに広げたラップトップに向かって、フリオニールは今日のティーダの映像を編集していた。
 スポンサーがコマーシャルに使うために大枚を叩いてプロダクションに委託するだろう映像はともかく、ティーダのウェブサイトに載せるものは自分で編集すると昔から決めている。彼の危うさまでをも理解して一番美しく、緊迫感のあるものに仕立て上げる自信があった。それは自惚れや、ましてや惚れた弱みなんかではなく、死の淵に挑み続けるティーダを長いこと見てきたのは自分だからだ。見てきたというのか、見せつけられてきたというのか。
 さまざまな方向のカットから動画に仕立てるアングルを選んでいく。BGMはどうしようか、と考えるフリオニールのジーンズのポケットがぶーんと振動した。電話だ。
 抜き出した端末の液晶に表示された名前を認めて、わずかに目を瞠る。意外な人物だ——ある意味ではフリオニールの先達でもある。静かに寝室を出て、受話アイコンをタップした。
「アーロン」
『……夜中に悪いな』
 彼の声を聞くのはずいぶんと久しぶりだ。かれこれ一年にもなるだろうか。思わず背筋を正したくなるような深みのある低音は、今はほんの少しの申し訳なさを滲ませている。
「いや、大丈夫だ。ティーダは寝てるが」
『だろうな。スラックラインの後だ』
 無理もない、と口許を緩ませたのだろう。
『ジェクトも綱渡りの後は寝たら起きん』
「はは……」

 ティーダの父、ジェクトはエクストリーム・スポーツのパイオニアで、今フリオニールに電話を掛けてきたアーロンはそのサポートパートナーだ。つまりフリオニールとアーロンはともに、世界で一、二を争う命知らずの伴侶役ということになる。
 ティーダとフリオニールが公私にわたるパートナーであるのと同様、ジェクトとアーロンもまたそういう仲であるらしい。仮にも父親が同性と、ということにティーダはまるで拘らないらしく、むしろアーロンを親代わりに幼少期を過ごしてきたが故に、実父よりも彼のことを素直に信頼しているようだった。

「見ててくれたんだな、ティーダが喜ぶ」
『ジェクトがうるさくてな、回線を繋ぐのに苦労した』
「どこにいるんだ?」
『それは言えんさ』
 相変わらず口が堅い。アーロンは余計なことは言わない男だが、こと居場所に関しては決して言及しない。ジェクトの意志を尊重して、相手が誰であれ秘密を守るその姿勢には、義理堅いという以上のものがあった。もとより聞き出せるとも思っていなかったフリオニールは話題を変える。
「何時間か前にジェクトが電話くれただろ」
『ああ、無視されたと怒っていたな』
「後で折り返させるつもりだったんだが、悪かった。何かあったのか?」
『どうせ大した用件ではない、お前も分かっているだろうが』
 よくやったと褒めてやりたいのに、王者の自負と子供じみた悪戯心が先に立ってしまうジェクトがティーダに喧嘩を売るのはいつものことだった。息子も息子でそれに正面から噛み付くものだから、親子の電話はいつでも怒鳴り合いだ。それを回線のあちらとこちらで聞いて苦笑いしている世話役ふたりは、揃って溜息をついた。
『無粋な真似をして悪かったな』
「あっ、いや……べつに」
『ほう?取り込み中とばかり思ってたがな』
 くつくつと忍び笑うアーロンの方が一枚も二枚も上手だ。ジェクトのパートナーは伊達では務まらないということだろう。
『手間をかけるが、明日ティーダから電話を掛けさせてやってくれるか』
「もちろん」
 頷いて、手近にあったメモパッドに書き留める。電話口でアーロンがふと息を吐いた。
『……全く困った連中だな』
「ほんとにな……こっちの気も知らないで」
『そう思うのか?』
「え?」
『あいつらが分かっていないとでも本当に思っているのか、フリオニール』
 一瞬の静寂の中で、どこにいるかも分からない男に腹の内を探られた気がした。背にぞくりとしたものが走る。
『……まあいいさ。忘れてくれ』
「アーロン、」
『お前も休めよ。ティーダの面倒を見てやれるのはお前だけだ』
 じゃあな、と一方的に通話が切れる。静かな夜の一角に放り出されたように、フリオニールは端末を見つめていた。



 翌日、昼になってやっと目を覚ましたティーダは、フリオニールに言われるまでもなく電話を手にした。絨毯に放り投げられたままだったそれを充電器に繋いでおいてやったのはもちろんフリオニールだが、この程度で恩着せがましいことは言わない。
「……あ、オヤジ? おれ。……寝てたんだよ、悪かったって。……はァ?」
 素っ頓狂な声を上げて、隣で様子を伺うフリオニールの腕を掴む。
「フリオニール、オヤジのサイト開けて!」
 その剣幕に慌ててブラウザを立ち上げる。一流ホテルの通信サービスが軽やかに走り、読み込まれたページの真ん中ではライブ配信中の動画が流れていた。
 画面の向こうで、携帯を耳に当てたジェクトがこちらに手を振っている。見るものを射抜く深紅の瞳はゴーグルに隠され、背景は雪に覆われていた。
「てっめえ、どこだよそれ!」
『はははー、見て分からねえか、ガガゼトだ』
 これだから坊ちゃんは、などと揶揄う声が、ティーダの携帯とフリオニールのラップトップから同時に聞こえてくる。
『つーことでよ、ジェクト様による史上初、ガガゼト最高峰からのフリースタイルスキーだ。ネット付きのスラックラインごときで得意になってるガキが調子こいてんじゃねえぞ!』
 この男は、動画が世界中に配信されているのを分かってやっているのだ。画面隅の閲覧者カウンターが猛スピードで回っている。
『それじゃあな!見てろよ、行くぜ!』
 言うが早いか端末を画面のこちらに向かって放り——カメラを操作するアーロンに投げたのだろう——爆発的な勢いでスタートを切る。映像はジェクトのヘッドセットと、並走するドローンのものに切り替わった。
「〜〜〜くっそーーーー!」
 ロンゾ族の聖地である霊峰ガガゼトは、立ち入り許可を得るだけでも年単位の時間を要する。いつの間に準備を進めていたものか、これがキングの力なのか、あるいはアーロンが恐ろしく有能なのか。その両方だろう。唖然とするフリオニールの肩を、立ち上がったティーダががしりと掴んだ。
「おれも!おれもガガゼト滑る!」
「おっ、落ち着けティーダ、」
「落ち着いてられっかってんだ!くそオヤジー!ぜってー負かすーー!」
 白銀の世界を飛ぶように滑り抜けるジェクトの姿を凝視するティーダに、フリオニールは項垂れた。特に理由はないが、アーロンに八つ当たりでもしてやりたい気分だった。