不完全環のスペクトル、あるいは弟たちの挽歌

 帝都の中流階級の家に生まれたわたしは、少しばかり身体が頑丈で、少しばかり頭の出来がよかったようです。いいえ、身体の方は確かに頑丈でしたが、頭の方は単に記憶力に長けていたというだけに過ぎません。しかしそれさえあれば、義務教育のうちは勉学に苦労したことはありませんでした。下級役人をしている父も、販売業に従事する兼業主婦の母も、だからこれといってわたしに手をかけることはなかったように思います。
 わたしには二歳下に弟がひとりおりました。こちらはあまり要領がよくなく、学校からもらう通知表はたいてい可ばかりが並んでおりました。その弟の数少ない取り柄のひとつが工作で、十五の歳を数える頃にはどこからか丸太の切れ端などを手に入れては像のようなものを彫るようになりました。それらのうちのいくつかはひとから褒められるような出来であったようです。
 弟は彫刻を専門に学びたいと言い出しました。父も母も、それで生計を立てることはできるまいと思いつつも、弟を強いて止めることはしませんでした。弟が美術学校の試験を受けることを両親が承諾したその次の日の夜、確か弟はもう就寝していたのでしょう、ダイニングテーブルを囲んでわたしは両親と向かい合って座っていました。母の手元には美術学校の学費やら入学金やらをまとめた資料が重なっており、父は腕を組んでテーブルの端を睨み付けるように見ていました。

 そうしてわたしは帝国大学に進学することを決めたのです。ご存知の通り、帝国大学の第三学科はジャッジ養成コースと呼ばれていました。今もそうでしょう。入学試験でそれなりの水準を満たせば入学金が免除になり、毎期の定期試験で成績を維持すれば学費もいくらか割り引かれる制度がありました。階級社会のアルケイディアで、一定の栄達を求めようとするのならば手段はあまり多くありません。その数少ない手段のひとつが、第三学科からジャッジになることでした。
 わたしは帝国大学に合格し、入学金を免除されて第三学科に入学しました。他の学科とは異なり、第三学科のカリキュラムは座学だけではありません。全員が専門の寮に入ることを義務付けられ、それ自体がすでに軍隊であるかのような厳格な時間割で生活することになりました。

 入学から三年経つと、入局試験です。いかにジャッジ養成コース出身であろうとも、公安総局に必ず採用されるというわけではなく、毎年二割ほどが落第します。そうなれば退学するか留年するかで、留年すれば下級生に囲まれて肩身の狭い思いをすることになりますから、みなそれなりに真剣でした。筆記試験――実情はどうあれジャッジは「法の執行人」ですから、少なくとも試験では検察官や弁護士を目指す連中とほとんど同様の法学知識が要求されるのです――と実技試験、それから現役のジャッジたちによる面接があり、大学卒業の半年前に合否が発表されるのが常でした。
 わたしは自分の番号を合格者の一覧に見つけました。よもや落ちはしないだろうと思っていましたが、それでも緊張の糸が解けたことを覚えています。発表から間を置かず合格者が講堂に集められありがたい訓示があり、それから二晩の間は実家で過ごすことが認められていました。わたしも深く考えることなく、少ない私物をまとめて市内の実家に戻ったのです。

 両親はたいそう喜びました。父は下級とはいえ役人であったため兵役を経験しておらず、前線におけるジャッジの悪評などはおよそ他人事であって、これから自分の娘がどこに行って何をするのかなど、わたしの両親にはうまく想像できなかったのでしょう。ジャッジの給料は帝都の平均よりもさらに高く、なおかつ安定していることは知られていましたので、彼らはそれを喜んだのです。わたしも両親に対しては、筆記試験にややこしい問題が出たことや、実技試験でうっかり足をすべらせそうになったことなどを話題にしながら、それでも受かってよかったよ、と胸を撫で下ろしてみせたのでした。
 けれど弟は違いました。彼の部屋はすっかりアトリエのようになり、壁際のシングルベッドも含めてどこもかしこも木屑にまみれてたいそう埃っぽくなっていたのを覚えています。大小の彫刻刀やのこぎりなどが転がる床に彼はぺたりと腰を下ろし、皮を剥いだだけの木の塊を抱えてわたしを見上げる目には奇妙な色が浮かんでいました。彼はわたしにひとこと、ごめん、と言ったのです。
 彼の目を滲ませていた不思議な色の名前は、あるいは疚しさや憐れみといったものに近かったかもしれません。けれどわたしには、彼がなぜそう言うのか、なぜそんな目で見るのか、想像することもできなかったのです。

 それから三年半が経ち、わたしは第四局に配属されました。
 帝国大学を卒業するのと同時に、わたしを含む試験合格者たちは法務庁づけの内示を受け取りました。公安総局は法務庁の下部組織だからです。ゆくゆくは各局に配属されるわけですが、それまでの数年間は初等兵扱いとなり、さまざまな研修を受ける生活が始まりました。
 ジャッジの鎧を支給されたのは入庁から一年後、それからはインターンのようにさまざまな局を数か月ごとに転属して、やっと正式配属先が決まるのです。希望する入局先を申請する機会はありましたが、これが何の参考にもされないことは誰もが知っていました。
 第四局というのは、配属先としてはあまり人気のないところでした。想像は難しくないと思いますが、そもそもジャッジを志願するような連中は八割がたが男性で、しかも性規範の強固な者ばかりでしたから。わたしたちが入局する時にはすでに第四局のマスターはジャッジ・ドレイスで、おんなに顎で使われるなんてたまったものじゃない、などとくだらないことを言ってはばからない者がひとりふたりでは済まないほどでした。
 わたしはその口さがない物言いに反感を覚えながら、ジャッジマスターでさえあんなことを陰で言われてしまうのならば自分などどんな目に遭うものか、と暗澹とした思いを持たずにはいられなかったものです。事実、大学でもただ女性であるというだけで嫌な経験はいくらでもありました。だからこそ、ジャッジ・ドレイス麾下の第四局ならば少しはまともではないかと期待していたのです。

 入局当日、わたしたち新人は初めて正式にジャッジ・ドレイスと対面しました。規定通りに鎧一式を身につけ、気をつけの姿勢を執るわたしたちを一通り見渡したジャッジマスターは、特に微笑むようなこともなく兜を脱ぐように言い、従って素顔を晒したわたしたちをもう一度順繰りに眺めると、こう言いました。
「すまないが、わたしは他人の顔を覚えるのが苦手だ。名前を呼べなかったり、間違った名前で呼んでしまったりするだろうが、しばらくは許してほしい」
 努力はするが、と語尾を濁した彼女の斜め後ろで、その副官が小さく笑いを噛み殺しました。ジャッジ・ドレイスはそれを視線だけで振り返って睨みつけましたが、副官はこともない顔つきで、やはり名札を導入しては、などと嘯くのでした。
「そのようなみっともない真似をさせられるか」
「そうでもしないといつまで経っても覚えられませんでしょう。曲がりなりにもこの第四局の最高責任者なのですから、解決策も真剣にお考えになるべきでは」
「曲がりなりにもとは何だ。わたしとて考えてはいる」
「この三年ほど、毎年同じようにおっしゃっているようですが」
「……やかましい」
 苦虫を噛み潰したような、の見本のような表情のジャッジ・ドレイスに、飄々とした呆れ顔の副官。そのありさまは入局初日のひよっこたちに披露すべきものではありませんでしたが、それでわたしたちの緊張がほぐれたのも確かでした。後から先輩局員たちが教えてくれたところによれば、ジャッジマスターと副官は入局当初からの同期とのことで、あれほどバランスのとれたツートップも珍しいとのことでした。

 第四局は南方総軍に属していたため、入局後ただちに前線へ出向く必要はありませんでした。地図の上での担当区域にはブルオミシェイスやビュエルバ、バーフォンハイムが含まれていましたが、これらの都市はいずれも反乱分子が多く潜伏している可能性があり、また戦略上の重要性が高いとのことで、実務は第九局に委ねられることが多かったように思います。わたしのような下っ端でさえ、ジャッジ・ドレイスとジャッジ・ガブラスが会話している姿をしばしば見かけたものです。
 ふたりの仲は特段良好にも見えませんでしたが、公安総局としての業務の連携はつつがなく行われているようでしたし、またふたりが共にラーサー殿下を護衛する立場でもあると教えられてからは、彼らの密談じみた立ち姿にもどこか頼もしさのようなものを覚えるようにさえなりました。
 おかしなものです。わたしとて勤務中はあの鎧に兜を身につけて、ひとりのヒュムではなく法の執行者たるジャッジとして存在することを求められ、また己もそのようにあろうと努めていたのに、訓練所の回廊などでたまさか兜を外してなにごとかを話し合うジャッジ・ドレイスとジャッジ・ガブラスの姿を見て安堵したのです。ふたりはどちらも表情の豊かな方ではありませんでしたし、ことにわたしがふたりを見かけるような機会にあっては周囲の視線を警戒もしていたのか、どちらも眉間に皺を寄せたままではありましたが、それでもあの姿を見れば彼らが血の通わぬ処刑人、情というものをまるで解さない暴力装置であるなどとは言えはしまいと、そんな暢気なことを思っていたのです。

 わたしはまだ理解していなかったのです。わたし自身が今や処刑人であることも、然るべき時が来れば力を執行するしかない立場であるということも、生きた血の温もりや細やかに織り成されるひとの想いさえもが、この暴力という機構にあってはひとつの部品となってしまうことも、何もかもを。

 その日、わたしがジャッジ・ドレイスの執務室にいたのはまったくの偶然でした。バーフォンハイムの治安維持に関していくらかきな臭い情報を第九局が集めたため、今後の対応について検討する場にわたしも招集されたのです。第四局からはマスターであるジャッジ・ドレイスとその副官、わたしの直接の上官にあたるジャッジと数名がおり、ひとまずは情報の整理が主な議題とのことで、ジャッジ・ガブラスは出席していませんでした。
 第九局から一通りの報告が終わり、ジャッジ・ドレイスやベテランの局員たちが質疑を始めたころでした。わたしの数年先輩にあたるジャッジが入室許可を求め、ジャッジ・ドレイスに一通の書類を手渡したのです。彼は兜を被ったままでしたが、ひどく動揺していることがわたしにもよくわかりました。
 ジャッジ・ドレイスは席を立つと、書類の一枚目に素早く目を通しました。その目が何かを確かめるように二度三度と同じ場所を往復したのち、彼女はわたしに執務室の扉を施錠するよう申し付けました。扉から一番近い場所に座っていたわたしはただちに指示に従い、念のためその場に立って警戒態勢を取りました。その時はまだ、単に緊急の案件が持ち込まれたのか、くらいにしか考えていなかったのです。あまつさえ、もしそうであるならばいよいよ出番だろうかとわずかな高揚すら覚えておりました。
 わたしは実にあさはかでした。腰の剣に手を添える定型の姿勢を保ち、執務室の全景を視野に収めながら、それでも何も見えていなかったのです。網膜に映しながら、ひとつひとつの要素が何を意味するかまるで考えもしなかったのです。

 ジャッジ・ドレイスは会議用の机を離れ、執務机の脇に立っていました。ほんの四、五枚の書類でしたが、一枚一枚をことさらに繰り返し読んでいました。最後の一枚を読み終えたのを見計らって席を立ちかけた副官を片手のみで制し、二枚目と三枚目にもう一度目を通したようでした。それから窓の外を見遣り、静かに細い息を吐き出しました。彼女は副官の名を呼びました。
「はっ」
 副官はその場で立ち上がり、敬礼しました。わたしからはその表情がどうなっているかは見えませんでしたが、緊張のあまりに耳鳴りがしたのを覚えています。
 ジャッジ・ドレイスは執務机に置いた時計に目を落としました。日付と時刻とが静かに確認され、その時わたしは初めて、何かがおかしい、と思ったのです。わたしたちのジャッジマスターは第九局からの出席者に向かって、日付と時刻を復唱するよう求めました。彼らのうち最も年嵩のジャッジが、復唱しながら手元の紙に書きつけました。
 ジャッジマスターによる日時の確認。その意味を、あの執務室にいた全員が知っています。すなわち、ジャッジ特権の行使による令状なしの逮捕です。
「――反逆罪の疑いで貴官を拘束する」
 そんな、と震える声をこぼしたのは、わたしの上官だったでしょうか。敬礼を解いた副官は微動だにせず、ただジャッジ・ドレイスを見ているようでした。

 副官の抵抗なく武装解除を行い、わたしたちはジャッジマスターの執務棟の地下にある「ホール」に移動しました。ホールとは便宜上の名称であり、実際の用途は尋問と――ほとんどの場合はそこから自動的に連なる――処刑執行です。
 執務室ふたつぶんほどのスペースはパーテーションで半分に区切られており、片方には尋問用の机と椅子、もう片方はがらんどうになっていて、隅にロッカーがひとつだけ置かれています。床はつるりとした膠泥が敷き詰められており、壁に沿って排水溝が通っていました。地下ですから天井はやや低いはずですが、ものがほとんど置かれていないせいで音がひどく反響するのです。
 拘束された副官は両腕をそれぞれ第四局と第九局のジャッジに掴まれ、それでも自らの意思で歩いていました。先頭にはジャッジ・ドレイス、その後ろに先ほど日時確認を行った第九局のジャッジ(この場合、彼がジャッジ・ドレイスによる審判の証人となります)が続き、副官を挟んでわたしは列の最後尾におりました。がちゃがちゃと擦れる鎧の不協和音ばかりが耳につき、なぜ自分がここにいるのか、まるでわからなくなっていたのです。

 ホールに到着し、ジャッジ・ドレイスと副官は机を挟んで相対しました。その他の面々がふたりを囲むように少しの距離を置いて立ち、わたしもその輪に加わってジャッジ・ドレイスの斜め後ろに身を置きました。副官はどこか茫洋とした、あるいはいっそくつろいだような表情で「かつての」上官の視線を受け止めたようでした。

「……弁明があるならば聞こう」
 それは通例の尋問手続とは異なるやり方でした。ジャッジ・ドレイスは手にしていた書類を机の上に放り出し、もう互いが何もかも承知であるという前提で、すなわちこの対話の帰結はひとつしかないと言い聞かせるように、「被疑者」の発言を許したのです。
 被疑者――先刻まで第四局の副官であった人物は、机の上に両の掌を置いて、少し笑ったようでした。
「そうすべきだからです、ジャッジ・ドレイス」
「何のために」
「帝国のために」
「帝国のために――殿下を殺めようと」
「相違ありません」
 いまやただの聴衆となったわたしたちは、ふたたび息を呑みました。罪状は反逆罪、今しがたの発言に従えば、被疑者はラーサー・ファルナス・ソリドール殿下の暗殺を企図したということなのでしょうか。
 とても信じ難いことでした。そもそも第四局は筆頭のジャッジ・ドレイスが殿下の護衛を務めることから、総じてソリドール家の内情にあたっては比較的穏健な立場を取っていたはずです。執政官であるヴェイン・カルダス・ソリドール閣下の強権的なやり口に反感を覚える雰囲気がないわけでもありませんでしたが、ことラーサー殿下に関してはむしろ個人としても好意的な者が多くを占めている、とわたしは思っていたのです。
 わたしたちの動揺を抑えるように、ジャッジ・ドレイスが机の端を指で叩きました。小手が板に当たり、こぉん、と音が響きます。
「首謀者は」
「わたしですよ」
「協力者は」
「誰も。わたしひとりです」
「おまえが単独で計画したことだと?」
「その通りです」
 あくまでも落ち着き払った態度を崩さない被疑者に、書類のうち一枚が突きつけられました。書かれている字が細かくわたしからは見えませんでしたが、内容は時系列の説明のようです。
「――月――日に、おまえが――と接触した記録がある」
「ええ、会いました。昔世話になったことがありまして、ただ挨拶を」
「ただ挨拶のために、小一時間もか」
「昔話に花が咲いたとでも言えばよろしいか」
「ではその一週間後に、市街で――らと会談したのは?」
「会談など大仰な。ただの会食ですよ、ジャッジ・ドレイス」
 尋問が続きました。マニュアルに載っているよりはいくらか非儀式的なやりとりでしたが、いずれにせよ被疑者が他者との共謀を否認し続けたことに変わりはありません。ジャッジ・ドレイスは時系列の最後まで逐一追及を繰り返し、副官はそのいずれもが暗殺の企てとは無関係であると主張しました。否認しなかったのはただひとつ、彼がラーサー殿下を殺めようとした、その一点のみでした。
「なぜだ」
「……」
「なぜ、殿下の御命を」
「偉大なるこの帝国の」
「それはもういい。殿下を弑し奉ることがなぜ帝国のためになる」
 被疑者は両目を閉じ、わずかに面を伏せて静かに呼吸を繰り返しました。静寂。わたしの向かいに立つジャッジの身じろぎによって生じた金属音が、ホールに白々しく響きました。
「――あなたにはわからない、ジャッジ・ドレイス」
「何が言いたい」
 ジャッジ・ドレイスの声は、その言葉ほどは苛立っていませんでした。むしろ、謎かけをされたこどものような戸惑いさえ含まれているように、わたしには感じたのです。
 彼女に相対する男は瞼を上げました。細かな皺の刻まれた目尻は笑み慣れたことを示し、乾いた唇は呆れたような弧を描くのです――ちょうどわたしの入局初日、顔を覚えるのが苦手だと弁解したジャッジマスターに向かってしたのと、同じように。
「もういいでしょう。始めてください」

 帝国刑法の上では、反逆罪の法定刑は死刑のみと定められています。例外はなく、過去の事例を遡っても判決から執行までの猶予が与えられたことはほとんどありません。それゆえにこの「ホール」が選ばれたのでしょう。

 わたしたちの副官だったひとは自ら席を立ち、ジャッジ・ドレイスを促しさえしてパーテーションの反対側へと向かいました。排水溝の走る壁から数歩分の距離を置いて、両膝を床に着いたのです。
「執行の準備を」
 ジャッジ・ドレイスに命じられ、わたしは弾かれるようにロッカーに走りました。デッキブラシやホースなどの清掃用具――何を片付けるためのものかは言うまでもありません――の他に、こまごまとしたものをまとめた麻袋があります。そこから拘束用のロープと目隠し用の布、口枷などを引っ張り出して、つんのめりそうになる足を動かして「死刑囚」の傍らに跪きました。
 彼はわたしを一瞥しました。彼とは入局以来、何度か言葉を交わしてきました。何かの拍子に弟の話をしたこともあり、彼自身もまた兄を持つ弟だったと言っていました。勤務時間のうちは高位のジャッジらしく厳格でしたが、それでも第四局の潤滑剤と呼ばれるほど場の空気を和らげるのが上手なひとでした。ジャッジ・ドレイスはいい副官を持ったと、他局で言われていると聞いたことも一度や二度ではありません。
 そのひとが今から処刑されるのです。他でもない、ジャッジ・ドレイスの手によって。そしてわたしは処刑のために、何ら抵抗の意志を見せないこのひとを拘束しようとしている。その事実が一気に押し寄せて、わたしは恐慌を来しました。口の中いっぱいに氷の塊を詰め込まれたように喉が引き攣り、肘から下が不随意に震えます。背中を冷たくぬるつく汗が濡らし、今にもロープを取り落とさんばかりだったところに、誰かが声を上げました。
「お待ちくださいジャッジ・ドレイス、執行は拙速では」
 それは第九局のひとりでした。彼は敬礼の姿勢のまま言い募ります。
「尋問でジャッジ・ドレイスが指摘された通り、共謀の可能性は否定できません。いま少し追及すべきではありませんか」
 彼の言葉は妥当なものだったでしょう。本人の証言のみで単独犯と結論づけるには、罪状があまりに大きすぎます。ラーサー殿下の命が危ういのであればなおのこと、ひとりを処刑して謀略を潰えさせることができると考えるべきではない。それはむしろ、殿下に極めて近しいジャッジ・ドレイスの口からこそ聞かれて然るべき言葉だったのかもしれません。
 しかし、ジャッジ・ドレイスは首を横に振りました。
「この者が接触した人物は一通り挙がっている。そこから線を繋ぐのは貴殿らの仕事ではないか、第九局」
「しかし……」
「処刑はただちに執行する――執行されねばならない」
 なぜならば、反逆の罪は死をもって贖われねばならない。遅延は許されない。ましてや、
「この者は第四局の構成員だ。わたしの麾下だ。わたしの腹心だ。腹心だった」
「……」
「ここでわたしが処刑せねばどうなる」
 何が起こるかは火を見るよりも明らかでしょう。ジャッジ・ドレイスは己が腹心を庇い立てするために執行を遅延させたのだと、誰もが噂するに違いありません。殿下の守護を任されながら何たる体たらくか、その腹でいかなる打算を弄しているものかと、中傷混じりの呵責を受けることは容易く想像できるのです。

 わたしの隣で、膝を着いた男が小さく息を吐きました。その視線はジャッジ・ドレイスの足元に置かれたまま、彼の唇が小さく動いたのをわたしは見ました。
 そうだ、それでいい。声なき声で、彼は確かにそう言ったのです。

「責を受けるのがわたしひとりならばいっそ構わん。しかしわたしは第四局を守る義務がある」
 ゆえに処刑は執行する。いま、ただちに。一刻の猶予もなく。
 ジャッジ・ドレイスは決然と言い切り、わたしを見据えました。まだ終わっていなかったのかとでも言わんばかりの目に射られ、わたしはまごまごと手を動かすより他になかったのです。両腕を後ろ手に戒め、胴にロープを回して固定。足首同士も縄を巻いて暴れぬようにし、目元を折り畳んだ布で覆い、後頭部で締める。講義や訓練で学んだ通りの手順でしたが、これらの拘束が意味するところを考えることなど、わたしにはできませんでした。

 口枷を嵌めるのは最後です。その前に執行人が遺言を尋ねることになっていました。ジャッジ・ドレイスが一筋の乱れもなく抜刀します。戦闘時は二刀を巧みに操る彼女の手の中で、今はその片方だけが照明を反射しました。
「何か言い残すことはあるか」
 定型句に、両目を覆われた男が顎を上げました。問いかけの主を探すように。
「ドレイス」
 肩書抜きの呼びかけに応えて、わたしたちのジャッジマスターが剣を持ち上げました。口枷を手にしたまま呆然とするわたしの腕を、上官が強く引きました。ほとんど放り出されるようにしてたたらを踏むわたしの鎧の悲鳴に、最期のひとことが掻き消されてしまうのです。
「きみでよかった」

 ごとん、と重いものが落ちたのはその一瞬あとのことでした。

「――間に合わなかったか」
 ホールの無音を、蝶番の軋む音が破りました。防音のために厚く重い扉から駆け込んできたのは、誰あろう第九局のマスター、ジャッジ・ガブラスです。
「遅らせてくれんかと思ったが」
「恐れながら……」
「いい、仕方なかろう」
 ジャッジ・ガブラスは鎧さえ身につけず、平服のいでたちでした。ひょっとしたら非番だったのかもしれません。彼のこめかみに汗の粒が光っていることに不可解な現実味を覚えて、わたしは使われなかった口枷を握り締めました。

 彼は恐縮する自分の部下にひとつ頷き、場に視線を走らせました。彼の網膜には、転がった首と胴とを繋ぐ夥しいまでの血溜まりと未だ雫を滴らせる鋒、その刃をぶら下げる腕の持ち主とが映っていたでしょう。
 ジャッジ・ドレイスは剣を振り下ろしたまま微動だにしませんでした。正しく帝国の刃であるその身を証明するような鋭利な断罪を遂行した彼女は、まばたきさえ惜しみ双眸を見開いて、血溜まりに反射する己の鎧の輝きを凝視していたのです。頬をひとすじの緋が汚し、端から乾き始めたその色が浮き上がるようでした。

 証人役のジャッジが、逮捕と執行の日時とを書き留めたメモをジャッジ・ガブラスに手渡しました。彼らは小声で言い交わし、さらに数枚の手書きの紙がジャッジ・ガブラスの手に渡ります。おそらくは尋問の内容を記したものでしょう。紙束を片手にした彼が一歩を踏み出したとき、不意にジャッジ・ドレイスがわたしの名を呼びました。
「これの始末を」
「か、しこまりました」
 乾いた喉が張り付いて、声が掠れていました。ようようのことで返事をしたわたしの肩を上官が叩き、できるか、と問うのにもぎこちなく頷くより他にありません。床の清掃を、その前に死体袋を用意しなくては――わたしが必死に頭をめぐらせる一方、ジャッジ・ガブラスはジャッジ・ドレイスを無言のまま見ていました。どこか既視感のあるその視線を探る術も持たず、わたしは「始末」のために踵を返しました。

 ホールを出る寸前、扉を押し開けながら背後を振り返ると、血漿を払い落として納刀したジャッジ・ドレイスとすれ違うように立ったジャッジ・ガブラスが、何事かを囁きかけたのが見えました。応答があったのかなかったのか、いずれにせよジャッジ・ガブラスは同席のジャッジたちを呼び集めて遺骸の検分を始め、ジャッジ・ドレイスはその場を数歩離れながら右手の親指で頬を――返り血をぞんざいな手つきで拭ったのでした。
 そうするジャッジ・ドレイスの表情までは、わたしには見えません。しかし、小手を嵌めたままの指では拭いきれなかった赤褐色の広がる頬の下で、音さえ殺してほどける吐息があったことは、あるいはわたしだけが知り得たのかもしれません。

 扉の向こうには長い廊下が伸びていました。備品庫を目指して歩きながら、わたしは思い出したのです。先ほどのジャッジ・ガブラスの視線、そこに含まれていた気配が、わたしの弟から受けた――わたしがジャッジになることが決まったその夜の――まなざしと同じであったことを。

 いま、わたしの目の前にはひとつの彫像があります。両の掌に載るほどの小さな土台にいくつかの環が転がった、木彫りの作品です。生の木を刻んだきり、彩色も加工もされぬその像は、数日前に実家の弟から届けられたものでした。第四局に勤め始めて以来、実家に足を運ぶことも滅多になくなったわたしへ宛てた小包には、この像の他は一通の手紙さえも入っていませんでした。
 積み重なる環のほとんどはどこかが千切れ、欠け、朽ちたような断面を晒しています。しかしそれでも、そのうちのひとつふたつは弱々しくも全円を保っています。

 香りの立たない木の塊。説明されない構造。秘匿されたままの意図。千切れた環。疚しさと憐れみとが揺らぐまなざし。

 そうしてやっとわたしは、己がどれほど弟を羨み、そして憎んでいるのかを認めたのです。ジャッジの鎧を脱ぎ捨てることを、それでも許せぬままに。

 

【おまけ:注釈付き校正記録版へ】