短い微睡みの中で、長い夢を見たようだった。
リーブは列車の席に座っている。骨董品じみた組み木造りの座席は苔色のベルベットに包まれ、腰から背を心地よく包み込んだ。飴色に磨かれた壁には数字のない時計が掛けられ、奇妙なことにその秒針は毎分五十八秒に至ると静止し、次に動き出す時には正時に跳躍するのだ。五十九秒目、一分間の最後の一秒を欠いた針の進行にリーブ以外の乗客は誰も気づいていない。
ボックス席ばかりの車内は三割程度しか埋まっておらず、リーブのようにひとりきりの客が多いようだった。視界の外から、それでもいくらかは存在しているのだろう共連れのある者たちの交わす言葉が微風じみてささめいている。時折鼻を掠める香りに何かを思い出しそうになるが、次の呼吸を始める前に香りも記憶も飛沫のように散ってしまう。黄色い光を放つ電燈がまばたきのようにちらちらと揺らぐ。
リーブは進行方向を向き、窓枠に肘を置いて窓の外を眺めていた。よほどの大編成なのか、線路がカーブを進むたび、先頭車両が遠くに霞む。汽車のように煙突を伸ばしたくろがねの車体は、やはり蒸気機関のようにゆるやかで鷹揚な振動を刻みながら、しかし流れる煙の一筋も見当たらないことが不思議だった。
(いいや、ぼくは蒸気機関車になど乗ったことはない。どうしてこの揺れが蒸気機関のそれだと分かるのか?)
時折、誰かの声がする。どれも聞き覚えのある声で、それらのいずれもが視界の隅に既視感のある気配を閃かせては行き交う。低く響く抑圧的な声、甲高く狂騒的な声、唸り軋る恫喝的な声、神経症を患った哄笑は薄汚れた白衣の裾を、嗜虐癖に汚れた驕慢な罵声は赤いハイヒールの爪先を。そのいちいちに気付かされるたび、リーブは腹の底に泥水を含んだ綿を詰め込まれたかのような不快感を覚える。
リーブの横にはひとつのぬいぐるみが置かれていた。二足歩行するはちわれ柄の猫のぬいぐるみだ。安っぽい王冠とぺらぺらのマントを縫い付けられて、白手袋をはめた手にはどうしたわけかメガホンを模したらしき筒を持っている。このぬいぐるみにも見覚えがある気がしたが、リーブの目は窓の外から大きく離れることができず、したがってぬいぐるみをきちんと改めることもできない。極端に戯画化された猫の細い手足がだらりと投げ出され、車体の振動に合わせてくたくたと揺れている。
窓の外は夜に見えたが、よく見るうちにそれは夜ではないのだと分かった。鋼青に深い桔梗色を染めたような天幕の上を、澄んだ水のように流れるものがある。快晴の野を渡る風のようにも、物理学の実験に使う液体窒素がこぼれたようにも見えるが、その透き通って軽やかな物質は時折紫苑の細かな波を立てたり、虹のスペクトラムを煌めかせたりしながら、その燐光のかけらをまるで輝く星のように散りばめて拡散してゆくのだ。
リーブは光の破片を遠い恒星に錯覚しながら、ひとつひとつを星座に見立てようとした。絡まる鎖のような星雲、稲妻のような五連星、三角標、カンテラ、シグナルとシグナレス、真鍮の薬莢、左手だけのガントレットの鋭い爪。突拍子もない思いつきは形を成す前に後方に置き去りになる。列車は音も立てず走る。
(この列車は何を動力に走っているのだろう)
石炭を焚いていないのだとすれば電気だろうか。いや、この手の機械を動かすのなら魔晄を電力に変換するのはかえって効率が悪いから、魔晄を利用しているはずだ——違う、もう魔晄は使わない。そう決めた。だから石油かもしれない。そうだとしたらガソリンの燃えるにおいがしてもいいはずだが、さっきから鼻腔を掠めるのは香のようなかぐわしさばかりだ。今は林檎のような香りがした。
「いいや、この列車に動力は必要ない。ただ動くように決まっているから動いている」
誰かが言った。その声も知っていた。しかしリーブは乾いた眼球を湿らせるために長いまばたきをしていたので、その声の持ち主を示唆する気配を掴み損ねた。
でたらめな星座づくりを諦めたリーブは、少し視線を下げた。この線路は野原を突っ切ってでもいるのか、時折りんどうに似た花が見える。優雅なグラスのような花の底に黄色が差し、渾々と湧き出す水のように、あるいは切々と降りしきる雨のように、短くまっすぐな草の合間で揺れている。
(ぼくはどうしてここにいるのだろう)
夜色の河床の上を、流体の玻璃のような水が流れてゆく。一瞬とて同じかたちにはならない物質は何かを惜しむようにその飛沫を凍らせて、狐火のように輝きを放つ。あのかけらをこの手に掴んで内側を覗けば、きっとマグネシウムを燃やしたような炎が揺れているのだと、リーブは確信していた。己がいる場所も、ここに在る理由も、まるで見当がつかないというのに。
(この列車はどこまでゆくのだろう)
ころん、と水滴が硝子を転がるような音がした。ころん、ころんと抑揚を欠いた音は鈴の鳴るのにも似て、リーブは不意に胸が急くのを感じる。あの音を追わねばならないと思った。
列車は止まらない。次の停車駅を告げるアナウンスもないまま、空席ばかりの車内にはすすきの葉が擦れ合うようなささめきばかりが波紋のように広がっては途切れるばかりだ。降りなくては。列車が止まらないのなら、この窓から飛び降りてでも——
「ねえ、どこまで行くの?」
リーブは息を呑んだ。声の主はリーブの向かいに座っている。知っている声だ。けれど生の声を聞くのはこれが初めてだったかもしれない。前はいつも——越しにしか聞くことができなかったから。
「……さあ、どこまででしょう」
リーブは答えた。視線は動かぬまま、窓の外で散らばる光を見ている。水銀を千切って振り撒いたような輝きは、あるものは青白く、あるものは橙色にたゆたっている。向かいに座っている誰かがくすくすと笑った。視界の端に揺れるのは、夜明けの水平線や鴇の翼に似た桃色の裾だ。
「でも、『ここ』じゃないってわかってる。よね」
「……さあ、どうでしょう」
「ううん、わかってる。あなたは知ってるよ。あなたの行き先は『ここ』じゃないって」
リーブはひどく哀しくなった。なぜそんなことを言われねばならないのか理解できなかった。『ここ』で降りてはいけないことが、降りてはいけないと念を押されたことが気に入らなかった。そして同時に、『ここ』で降りてはいけないと自分がわかっていた、それなのに降りてしまいたいという衝動を抑えきれなかったことに忸怩たる思いを抱いた。
ころん、とひとつ響いたきり、あの音は止んでいた。リーブは諦めるしかなかった。向かいに座っていた人物は静かに席を立ち、それきり戻ってこなかった。
「切符を拝見いたします」
次に聞こえたのは、リーブの知らない声だった。窓の外しか見られなかったはずの視点がぐるりと動き、声の主を捉える。背の高い車掌は赤い帽子を被り、黄色い電燈を背にしているせいで顔の様子がよく見えない。ぼんやりとしているリーブに向かって彼はもう一度、切符を拝見いたします、と繰り返した。ぜんまいじかけのように一定の調子だった。
リーブは困惑した。切符など持っていない、と思う。少なくともそのようなものを手にした覚えはなかった。リーブは気づいたらこの列車に乗っていて、そのために誰かに願い出たことも、あるいは要請されたこともなかったのだ。
しかし車掌は粛然と右手を差し出し、リーブが切符を取り出すのを待っている。そのほかに選択肢などないのだとでも言いたげだ。隣のボックス席に座るひとが車掌の向こうに覗き、思案げにこちらを見ているのがわかった。
リーブは焦りながらあちこちのポケットに手を突っ込んだ。シャツの胸ポケットには使い慣れた万年筆、右のポケットにはいつから入っているかわからない飴玉とくしゃくしゃによじれたレシート、左のポケットには少額のコイン。どれも切符らしくはない。ジャケットの隠しポケットに指を差し込むと、コピー用紙を八つ折りにしたものらしき紙が入っている。その感触に海馬がさざめいた。
——これは契約書だ。リーブのデスクの奥深くにしまったままにしていた、署名欄がついに埋まることのなかった契約書だ。
ずるりと引っ張り出した書類をリーブが改める前に、車掌の手がその紙を取り上げた。ぱさりと乾いた音とともに広げ、車掌はふむ、と小さく息を吐いた。
「こちらは三次空間の方からお持ちになったのですか」
その質問の意味を捉えかねて、リーブは呼吸を止めた。わからない、と言葉にするのがなぜか躊躇われた。その様子をじっと見ていた車掌は、なるほど、と何度か頷いた。その動きは妙に人間くさかった。
「よろしゅうございます。ご協力ありがとうございます」
「いいえ、」
身を翻しかけた車掌は、リーブの声に気づくとぴたりと動きを止めた。その動きもまたぜんまいじかけのようだったが、リーブにはそれを可笑しいと思う余裕がなかった。
「すみません、この切符はどこまで行くのでしょうか」
リーブの問いに、車掌は赤い帽子を小さく持ち上げた。そうして先ほどと同じ軌道を辿って身を翻し、別の車両へ歩き去ってしまった。
「その質問に意味はない。切符の行き先を知っているのはおまえだけだ」
誰かが言った。先刻、この列車の動力について奇妙なことを言ったのと同じ声だった。しかしリーブは戻ってきた書類を折りたたんでポケットにしまうのに夢中で、またしてもその声の主の気配を掴み損ねた。
野茨の匂いがする、と感じた。野茨の花など見たこともないのに、この香りは野茨に違いないと思った。
リーブはまた窓の外を見ていた。遠くに走っている河の、さらに向こう岸が俄かに赤く染まる。そうして鋼色の景色の中に柳の木の黒い影が浮かび上がり、淡く発光するりんどうがさっと色褪せた。絶えず煌めいていた星の色も今は焼けた針のように鋭い赤に輝き、はるか遠い炎はリチウムを燃やしたように鮮烈な紅で地平線を染めている。
(あれは何の火だろう、何を燃やせばあれほどに赤く輝く炎が生まれるのだろう)
その緋色も、リーブは知っていた。酸素が燃える炎よりも深い赤に輝くのは、獣の心臓から滴るようなあの瞳のはずだ。——誰の?
「あれは、————の」
ふっ、と音を立てるように炎が消えた。辺りが闇に沈む。ああ、と誰かが諦めの吐息を漏らすのが聞こえる。じわりと冷たい空気が広がり、それは静かに触手を伸ばしてリーブの脳髄に忍び込む。寒い。冷たい。怖い。寂しい。本能的な恐怖に駆られて、凍えつく声帯がひきつれるままに叫び出す、その瞬間だった。
「何を恐れることがある、リーブ」
その声とともに、車内に灯りがともった。白熱灯の黄色い光に、飴色の車内が照らし出される。苔色のベルベットに包まれた座席、毎分五十八秒から零秒へと跳躍する秒針、姿は見えない誰かと誰かが交わすささめき。列車は揺れる。音もなく噴煙もなく、夜の線路を滑るように走る。次の停車駅を告げるアナウンスも、最終目的地を示す案内もないまま、走ってゆく。
「わかっているだろう、『私』を探してはいけないと」
リーブは座席の背に身を預け、深く息を吸い込んだ。向かいに誰かが座っている。この列車は動くように決まっているから動いているのだと言った人。切符の行き先を知っているのはリーブだけだと告げた人。あの燃え上がる炎と同じ色の双眸を持つ人。ゆっくりと瞼を閉じ、開いて見れば、リーブの正面には確かに『彼』が座っていた。
「……ぼくは、あなたと行こうと思っていたんです」
そう思っていた。『彼』とこの先まで行けるのだと思っていた。信じていた。あまりにも無邪気に。疑いもしなかった。置いてゆくのであれば自分の方なのだと、そればかり考えていた。自分がはぐれてしまうだなんて考えもしなかった。
『彼』はリーブの言葉に静かに頷いた。そうだな、と囁く声は、チェロの低音弦を指先で柔らかく弾いて生まれる音が響くのに似ていた。
「ああ、そうだ。リーブ、私もそう考えていた」
けれど、と『彼』は言う。その先に続くはずの言葉をリーブは知っている。
そうだ。リーブはかつて『彼』と共にこの列車に乗っていた。一緒に窓の外を眺め、ひとつの林檎を分かち合い、低いささめきを交わし、同じ視界でひとつの星座を繋ごうとした。しかし、共に行くことはできない。できなかった。『彼』の切符はリーブとは違う行き先を示していた。『彼』はその切符を手に、リーブが降りられなかった駅で降りて行ったのだ。
列車は長い下り坂に差し掛かったようだ。遠く、進行方向の彼方から白い光が射すのを感じる。時間がない。リーブは口を開き、しかし喘ぐように呼吸するばかりで言葉は喉元につかえてしまう。
言わなくてはならないのに。伝えなくてはならない、たったひとつの言葉を、リーブはずっと、あの切符よりも後生大事に握りしめてきたというのに。『彼』の名を呼んで、それさえ伝えられれば、そうすれば自分はこの切符の終点までの長い旅を耐えられるはずなのに。
『彼』が微笑した。薄い唇がかすかな弧を描く。その唇の感触を知りたかった。
「リーブ、おまえはおまえの切符をしっかり持っていろ」
列車が速度をわずかに速める。白い光が空を染める。
「その切符を決して失くしてはいけない」
列車は光に呑まれるように走る。清冽な白のただなかにリーブは放り出される。『彼』が席を立つ。夜の底から紡ぎ出したようなまっすぐな黒髪が、ほつれた紅のマントの裾が揺れる。左手だけのガントレットが金属音を鳴らす。
「次に会ったときに、その『切符』を見せてくれ」
世界が収縮する。色のない光が一点に凝集し、すべてが無音の境界に吸い込まれる。
リーブは瞼を閉じた。わずかな香りさえ残さない『彼』の名を呼び、伝え損ねた言葉を祈りのように唱えて、そうして——
「——局長! 時間ですよ、局長!」
がくん、と全身を痙攣させてリーブは目を覚ました。飛び起きた、と言った方が正しい。その勢いで、仮眠用にしているソファから滑り落ちかけたのは不徳の致すところだ。
もたもたとみっともなく姿勢を正し、座面に腰を落ち着ける。肘置きに寄りかかるように背を伸ばしながら、乱れているだろう髪をごまかすように手櫛で撫でつけた。
「いやはや……どれくらい眠ってしまいましたかね」
「ほんの三、四十分ってところですけど。仮眠でそこまで深く寝入るとは思ってませんでした」
リーブは気まずく肩をすくめて、目の前に立つ人物を見上げた。彼は数か月前から、リーブの護衛として働くことになった青年だ。真新しいスーツのジャケットに包まれた肩を居心地悪そうにもぞもぞさせている。
今夜は義理で顔を出さなくてはならないパーティがあるのだが、リーブが今日の仕事をひと段落させたところでまだ出発するには早い時間だった。暇つぶしにこの青年をからかって遊ぼう——具体的には、ワルツでも踊らせてやろう——としたのだが、暇ならひと休みしたらどうですか、今夜の最終目標はセブンスヘブンなんでしょ、と可愛げなくあしらわれて仮眠室に押し込まれて、このざまだ。ほんの少し横になってうたた寝するつもりだったが、どうも長い夢でも見たようにぼんやりしている。
「体調悪いんじゃないですか。何か要ります?」
「お気遣いどうも。水を一杯いただけますか」
青年はさして気負うそぶりもなく、しかし物音ひとつ立てぬ身のこなしで仮眠室を出て行った。程なくして壁一枚挟んだキチネットから水音が聞こえる。リーブはもう一度伸びをして、そろそろ着替えなくてはと立ち上がった。
「局長、水どうぞ」
「ありがとうございます。もう出ますよね」
「まだ急ぐような時間じゃないんでごゆっくり。おれ、車回してきます」
冷たい水で満たされたグラスを置いて、青年は踵を返す。ふと思いついて、リーブは彼の名前を呼んだ。
「今度、面白いもの見せてあげますね」
「……局長の面白いものって何ですか、ちょっと怖いんですけど」
「受け取りようによっては怖いかもしれませんけど。でも、君がこの間サインした紙と大して変わりませんよ」
「意味がわからなくて余計に怖い」
辟易した顔を残して、青年は立ち去った。『彼』には顔も身体つきも声もまるで似ていないというのに、歩き方には奇妙な既視感があるのだから毎回笑ってしまう。
さて、あの『切符』をどこにしまったのだったか。どうせデスクの引き出しの、どれかの一番奥に眠っているだろう。あの青年が半年前にサインしたのと同じフォーマット、登場人物の片方の名前だけが違って、署名欄の片方が空欄のままの書類。リーブの悔恨と諦念と意地と含羞とがないまぜになった、一枚のうすっぺらい紙切れ。
折を見て捨ててしまおうと何度も思ったものだったが、あれが『切符』だと言われてしまったのだから仕方がない。次に会ったときに見せたら、『彼』は笑うだろう。なんだこれは、こんなものをいつから用意していたんだと、呆れたり怯えたりしながら笑ってくれるはずだ。
その予行演習として、『彼』の忘れ形見に笑われておくのも悪くはない。問題は、青年が笑ってくれるか、あるいは大いに気味悪がるか、どちらかといえば後者の可能性がずっと高いところだったが——忘れ形見が途中下車を願い出ないことを祈るしかないと思うと、思いつきでずいぶんなことを言ってしまったなとリーブは自嘲するしかなかった。