残照

 長らくそこにあったと見える平たい缶に、ヴィンセントはたった今初めて気がついた。
 古ぼけたビニールのかかったレコードが並ぶ棚の一番下の段、その端に隠れていた缶はありきたりな菓子の詰め合わせ用のものらしい。塗装の剥げた端には錆が浮いている、かなりの年代物だ。ヴィンセントは秋の終わりの西陽に網膜を灼かれながら、大して重くもないその缶を引き出した。棚板に当たってかこん、と軽い音が鳴る。
 持ち主の許可もなく開けることにわずかに逡巡するヴィンセントの耳に、遠く控えめな咳が聞こえた。今は書斎にいるリーブは、今朝からこうして乾いた咳を繰り返している。明け方にひどく冷え込んだからだろうか。今夜は仕舞った上掛けを一枚、出しておいた方がいいかもしれない。
 缶を片手に立ち上がり、ソファに腰を下ろす。広く切られた窓から射す落日は、消える蝋燭の火が最後に一際強く燃えるように烈しさを増していた。リビングの床に長い影が落ちる、己の影法師がゆらりと揺らいだ気がしてヴィンセントはことさらにゆっくりと瞬きをした。
 舞う埃がきらきらと煌めいて落ちてゆくのを視界の端に感じながら、平たい缶を開ける。錆びている外観のわりに抵抗なく蓋が外れた。ヴィンセントが思うよりも頻繁に開け閉めされていたようだ。ぱこん、と間の抜けた音と共に視界に飛び込んできたのは、ばらばらと重なる大量のポラロイド写真だった。
(……なるほどな)
 思い返してみれば、かつてリーブが写真に凝っていた時期があった。もう二十年、二十五年ほど前だったか。彼は一度のめり込むと趣味の息が長く、カメラもそのうちのひとつだ。撮った後に何かと加工出来るデジタルよりも、どのようなものであれシャッターを切った瞬間の絵がそのまま浮かび上がって来るアナログの方が好きなのだと言っていた。そこに生来のせっかちな性格が加わって、撮った数分後には絵が見えるポラロイドが殊の外、お気に入りだった。
 一番上に乗っているのは、仲間たちの集合写真だ。ぺたぺたと貼りつく印画紙に指紋を付けぬよう、端を摘んで取り上げたヴィンセントは我知らず微笑していた。
 真ん中には花をいっぱいに飾った白いドレスで微笑むマリン。その横には緊張を隠しきれない顔でこちらを真っ直ぐに見ている白いタキシードの青年、反対側には涙で顔がぐしゃぐしゃのバレットだ。規格外のその巨躯は特別誂えの黒いタキシードに包まれている。三人を囲む面々もそれぞれに盛装して、ある者は穏やかに、またある者は弾けるように、いずれにせよ画面の中の誰もが笑っていた。
(マリンの結婚パーティか……何年前だったか)
 初めて会った頃はヴィンセントの膝上ほどまでしか背丈のなかったいとけない子供は、もう五年ほど前にもなるだろうこの春の日には目が覚めるような美しいレディになっていた。ハイスクールの同級生だというパートナーが、花嫁の紹介するどう見ても堅気ではない友人達を前に目を白黒させていたのを覚えている。
 なんでえ、俺ァてっきり嬢ちゃんはデンゼルと結婚すんのかと思ってたぜ、と不躾なことを言うシドの肩に、ティファ直伝の腰の入ったいいパンチを喰らわせたマリンは、だってデンゼルはお兄ちゃんだもの、と笑っていた。その言葉の通り、彼女は右手にバレット、左手にデンゼルを従えてバージンロードを意気揚々と行進し、その時ばかりはあどけない少女の顔をしていた。
(懐かしいな)
 そのふたりは今となっては一児の両親で、つまりバレットは「おじいちゃん」になっていた。がらっぱちな言動の下に繊細で臆病なところを隠した大男は待ち兼ねた孫にめろめろに籠絡され、やれ寝返りを打ったの、指を握っただの、つかまり立ちをしただのと成長記録を取るのに忙しい。
 マリンの結婚式の写真が一番上にあるということは、この缶の中身は少しばかり古いようだ。そういえば、このところリーブがカメラを構える姿を見ていなかった。「このところ」が年単位になってしまうのだから、年月を重ねるというのは恐ろしい。
 ヴィンセントは缶の中身をひとまとめに取り上げて、一枚ずつめくってゆく。ジュノンの海を輝かせる夜明けの太陽、洒落た雑貨屋のショウウインドウで日向ぼっこをする猫、うららかな陽光に散り始めたアーモンドの花、シヴァが降り立ちそうな勇壮な氷山は何年か前に旅行で訪れたアイシクル近くの海のものだろう。写っているのはそんな風景や動物ばかりで、ポートレートは存外少ない。何枚か送ったところで、ピンぼけの茶色い何かが現れた。これはヴィンセントが撮ったものだ。確か、ボーンビレッジで飼われているロバか何かを撮ろうとして鼻先を押し付けられたやつ。
(こんなものまで保管してあるとは)
 まめなのか雑なのか分からない。恐らく後者だろうな、と考えながら次の写真へ目を向ける。珍しく人間が写っていると思ったら、赤らんだ顔で破顔するユフィと呆れ顔で微笑むティファのツーショットだった。何かのパーティの時だろう。オッサンこっち撮ってよ、ほらティファこっち、もうユフィ呑みすぎよ、んなことないって! そんな声さえ聞こえてきそうないい写真だ。撮ろうと思って撮れるものではない。
 一番下になっていた数枚は、印画紙が粘着してしまっていた。写った画を痛めないよう慎重に剥がすとぺりぺり音がする。まず見えたのは室内から窓の外に向かって撮られた一枚、ちょうどこの部屋の、今ヴィンセントが腰掛けているソファのあたりからのアングルだ。すでに日は水平線の向こうに沈み、放たれた光の残り香が霞んだ空を焼いている。
 それから、あのレコード棚を切り取ったもの。隅に見切れた時計は午後六時半を指そうとしていた。去りゆく昼と訪れる夜のあわい独特の離人的な空気が漂い、掌ほどの小さな印画面は古い映画の一幕のように遠い。
 そして最後の一枚。これといった表情もなく、不意を突かれたような顔で映る無愛想な男――ヴィンセント自身だった。この家の寝室の窓際に、コーヒーカップを手にして立っている。身につけているのはくすんだ煉瓦色のニット、それはまさしく今日のヴィンセントが着ているものと同じだった。服だけではない、肩にかかる長い髪も、体型も、顔立ちも、姿かたちの全てが今ここにいるヴィンセントと変わらなかった。
(……そうか、あの時か)
 まるでたった五分前に撮ったばかりのような己の写真に指を這わせて、ヴィンセントは回想に沈む。書斎からまた乾いた咳が聞こえた。

 ある休日の夕方だ。たまたま立ち寄った骨董市で見つけたんです、悪くないでしょう、と笑うリーブが手にしていたのは、懐古趣味がたっぷりまぶされたクラシカルなデザインのカメラだった。
 ――今時フィルム写真とは恐れ入るな、現像をどうするつもりだ。
 その当時、すでに写真撮影といえばデジタルカメラが主流になって久しかった。加速する需要減少に押され、大手フィルムメーカーも業態変更や事業撤退を余儀なくされているというニュースが頻繁に聞かれていた頃だ。だからヴィンセントは皮肉交じりにそう訊いたのだが、一方でこの凝り性な男のことだから現像くらい自分でやると言い出しても不思議ではないなと思ってもいた。
 しかし、リーブはその問いにからからと笑った。
 ――確かにフィルムカメラに見えるでしょう。でもね……そうだヴィンセント、せっかくだから一枚撮ってみましょう。
 写真を撮られるのは苦手だと渋るヴィンセントはコーヒーを手にリビングのソファにしがみついた。梃子でも動かない構えに苦笑したリーブに言ってやる。
 ――どうせならもっと写真映えするものを撮れ。私ではなくて。
 ――あなただって充分過ぎるほど映えると思いますけどね。
 ――くだらん。海でも撮ってきたらどうだ。寝室の窓から見えるだろう。
 そうして読む気のない雑誌の表紙をめくれば、リーブはひょいと肩を竦めて寝室に引っ込んだ。半端に開いたままの扉から彼の気配を感じながら、ヴィンセントはやれやれと髪をかき上げる。
 リーブはひとたび何かにのめり込むとしばらくはそればかりになる。これから何かにつけて写真を撮らせろとうるさくなるに違いない。億劫だからほとぼりが冷めるまで旅にでも出ようか、どこか暖かいところにでも。薄情といえば確かに薄情なことを考えながら、残り少なくなったコーヒーを追加しようかとカップを手に立ち上がったところでリーブが呼んだ。
 ――ヴィンセント、来てください。いつもの子が。
 いつもの子、というのは、このあたりを根城にしている野良猫のことだ。野良のわりに人懐っこく、向こうもリーブが猫好きの構いたがりと知っているのかちょくちょく顔を出す。リーブに言わせれば野良ではなく地域猫だそうで、だから名前はつけていなかった。
 その猫といわば顔見知りの仲であるヴィンセントは、仕方なく寝室に進路を転換する。怪我でもしているのなら、リーブは間違いなく手当てをしてやろうとするだろう。
 ――どうした。
 ――見てください、あれ。いつの間にか子供が出来てたんですね。
 窓際に食らいつくリーブの横から下を覗き込めば、なるほどあの猫が子猫を三匹連れて道を歩いていた。色合いも毛並みの柄もどことなく似通っている。植え込みの枝をかき分けて進みながらも、たまに足を止めて幼い子供たちが追いつくのを待ってやっている姿はなるほど親のそれだった。
 ――しばらく見なかったのでどうしたかと思っていたんですが、元気そうでよかった。
 ――そうだな。
 三匹の子猫たちのうち、しんがりを務める一匹だけはかぎ尻尾だ。先端の折れた尻尾を振り振り、それでも上手くバランスを取って歩くのに健気なものを覚えてヴィンセントは去りゆく猫たちを見つめる。寝ぐらのあてはあるのだろうか、子猫たちが凍えなければいいが。
 ――ヴィンセント。
 いつの間にか数歩の距離を開けていたリーブの呼びかけにはっと視線を向ける。同時に、ばちん、とフラッシュが爆ぜた。
 ――盗み撮りか、局長殿。結構なご趣味だ。
 ――怒らないでください。ほら、すぐに出てきますから。
 むっとして眉を顰めるヴィンセントに気圧されたふうもなく、リーブはカメラの底から吐き出された白い紙片をぱたぱたと扇子のように振っている。
 ――これ、ポラロイドカメラなんですよ。そうは見えないでしょう?
 持ち重りのしそうなカメラを軽く掲げるリーブは、新しい玩具を手に入れた少年のように得意げだ。いや、ように、という比喩は正しくない。こういう時のリーブはよそ行きの堅苦しい面を放り捨てて子供に戻ってしまう。
 ――ああほら、少しずつ見えてきた。
 ぼんやりと人の形に浮き上がり始めた印画紙を見つめるリーブは満たされた顔だった。何がそんなに嬉しいんだ、何の身構えも出来なかったのに、と少しばかり恨めしい気分で問えば、だってあなたの写真ですから、と眉根を下げて笑うから、ヴィンセントは何も言えなくなってしまった。

「ヴィンセント、お茶にしませんか」
 ぱたり、とスリッパを引きずってリビングに顔を出したリーブは、やはり空咳をひとつしてからヴィンセントの手にあるものを見て目を丸くした。
「それは」
「悪いな、勝手に開けさせてもらった」
 厚いレンズの向こうの目を細めて、リーブが緩く首を振る。手に抱えていたいくらかの小物をダイニングテーブルに下ろすと、こめかみを指先で撫でつけて不思議な笑みを浮かべた。
「見つかってしまいましたね」
 その顔はひとことでは形容し難い色を滲ませている。含羞、あるいは諦念、いくらかのばつの悪さ、それから郷愁、そして愛惜のような何か。何年生きても彼ほど人の感情に機敏になれないヴィンセントは、降り積もる砂が流れるようにするりと色を変えるリーブの想いをまたしても掴み損ねる。
 だから、わざとらしくどうでもいい軽口を叩いてみせた。
「隠すつもりもなかっただろう」
「隠してましたよ。僕の大切な宝物なんですから」
「ならこんなピンぼけなど一緒にしておくな」
 先ほど除けておいた、ヴィンセントの手による失敗作。ゆっくりと近づいてきたリーブはその一枚を見て、今度は快活に笑う。
「言ったでしょう、僕の宝物なんだって」
 そんなふうにして笑うと、目尻に刻まれた皺がいっそう深くなる。ヴィンセントの隣に腰を下ろした彼の髪はほとんど白くなり、かつては毎朝の煩わしさになっていた硬さはもうない。一昨年の冬から具合の悪い左膝を掌でさするのはもう癖になっていた。彼も老いた――無理もない。ヴィンセントがリーブと、正確にはケット・シー越しに出逢ってから、もう三十年近くが経とうとしていた。
「……ああ、懐かしいですね。その写真」
 ヴィンセントが手にしたままだった一枚を見て、リーブが掠れた声を出す。眼鏡に付いた埃を吹き払うその眼差しは、小さな印画紙に焼き付けられたヴィンセントの虚像に注がれていた。
 ちょうど今日、いまのような黄昏時、網膜を焦がすような残照に陰影を切り取られた部屋、今日と何ら変わることのない姿のヴィンセントがそこにいる。愛想笑いも、取り繕った澄まし顔もない、ただ呼ばれたから向けただけの顔で。
「あれ、このセーター、」
「これと同じだ」
「あなたは本当に物持ちがいいですね」
「おまえが分不相応に質の良いものばかり寄越すからな」
「とんでもない、僕はただ似合うと思って」
 乾いた蘇芳の花の色をしたニットを指先で引くリーブの目に、安堵に似た喜色が滲む。いくら良質だからといって、同じものを何十年も着ていると思うと気恥ずかしかった。
 他の写真に目を通すリーブの横顔から目を逸らして、ヴィンセントは己の両手を見た。かさかさに乾いて腱の浮いたリーブの手と並べば、その違いは恐ろしく明らかだ。
 確実に老いてゆくリーブ、変わらぬ姿のヴィンセント。数十年を共に過ごしてきたふたりの歩む速度は同じだったはずなのに、ヴィンセントの時計の針はついに動かなかった。ヴィンセントの左胸にはまだエンシェントマテリアが埋め込まれたままで、カオスが星に還っても、忌まわしき獣の宿命からヴィンセントは解放されなかった。老いることなく、死ぬこともない。どれだけの深傷を負おうともそれはたちどころに消え失せ、いかなる病魔もこの臓腑を蝕むことはない。
 呪われたこの身体をライフストリームが迎え入れることはない。あらゆる生命はただ過ぎ去り、ヴィンセントはそれらすべてを見届けるのだ。恐らくはこの星が朽ち果てるその日まで。
 そのことについて、リーブもヴィンセントも何も言わなかった。何も話さなかった。口を噤んだまま、二十年以上が経った。ふたりが何かを語ることはこの先もないだろう。自らにそう禁じているというわけではなく、それはただ歴然とした事実に近い予感だった。
「……」
 今日はどうも物思いに耽ってしまうようでいけない。ヴィンセントはいつの間にか丸まっていた背中を伸ばして辺りを見渡す。
 リビングのあちらこちらに積まれた段ボール箱、半分ばかりがごそりと空になった棚。どの部屋も同じようなもので、リーブも書斎の片付けにひと段落つけてきたのだろう。彼は長年暮らしたこの部屋を引き払うことに決めた。五日後には引越しの業者が来て、一切合切を運び出すことになっている。
 リーブは先月、WRO総裁の座を辞した。局長の地位を後任に譲り渡した後、肩書きだけは大袈裟なその名誉職になおも五年ばかり縛られていた彼は、ようやっと肩の重荷を下ろして――本人曰く――悠々自適の老後生活に突入するというわけだ。最終日、支局の職員も含めたWROの総員に惜しまれながら送り出された彼は、その労をねぎらう仲間だけのささやかなパーティで、ひとつだけやり残したことがありました、と俯き加減で呟いた。
 WROの解体。神羅亡き後の世界で、この星を守るために、第二の神羅を生まぬためにと立ち上げた組織を解散すること、それが生みの親であるリーブの最後の悲願だった。世界はまだWROを必要としている、それはとりもなおさず、人々と星の生命を脅かす影が消え失せはしないということだった。リーブは彼の願った未来の全てを叶えることは出来なかった。
 マリンの結婚式の写真に辿り着いたリーブがまた咳き込んだ。痰が絡むわけでも喘鳴が出ているわけでもないが、こう繰り返すと気がかりだ。次の住まいはミディール近郊に決めていた。気候の良いところで温泉にでも浸かって暮らせば、こんな未病とは縁遠くなるだろう。
 咳を宥めるようにリーブの薄くなった背を叩いてやって、ヴィンセントは立ち上がった。どうかしたのかと視線で問う連れ合いを見下ろして、小さく肩を竦める。
「私とて茶の一杯くらいは淹れられる」
「電気ケトル、まだ出してありましたよね」
「仕舞った。ヤカンがあるからいい」
 言いながらキッチンの棚を開けて琺瑯のヤカンを取り出す。そんなものまだありましたっけ、と呆気に取られる家主は、慣れた手つきで水を注ぎ火にかけるヴィンセントを見てやがてくすくすと相好を崩した。
「あなたは本当に物持ちがいい」
 セーターといい、ヤカンといい。そういえば銃もそうでしたね。指折り上げてゆくリーブが、分かっていながらそのリストに加えないものがある。ヴィンセントはそれを指摘するでもなく、冷蔵庫から残り少ない蜂蜜を取り出した。
「――――でな」
「え、何か言いましたか? ヴィンセント」
「おまえは耳まで悪くしたのか」
「そんなあ」
 ヤカンの蓋がカタカタと震え始める。いつの間にか窓の外は夜に塗り替えられていた。世界を燃え上がる薔薇色に染め上げた残照をどれほど惜しんでも、静謐な眠りは必ず訪れる。その夜のかいなに沈むことの出来ない身を引きずりながら、ヴィンセントは何千回もの夜明けを迎えるのだろう。ライフストリームを循環する愛しい魂に、いつか再び邂逅する朝に巡り会うために。
「一度馴染んだものは手放せない性分だ、と言ったんだ」
 沸き立つ蒸気越しのその言葉に、リーブは目を細めた。