『お熱いのがお好き』
エンドロールの前から、隣の人が眠ってしまったことには気付いていた。部屋の照明を落としてソファに並んで、買い替えたばかりの新しいテレビで流す古い映画。きっと彼の琴線には触れないだろうと思ったけれど、本人がそれでいいと言うから。
リーブはグラスに残ったブランデーを干し、さてどうやってこの人をベッドまで運ぼうかと考える。ソファで寝落ちしては首だの腰だのが痛いと文句を垂れていたのはほんの数日前のこと、ここで放置してしまえば明日の予定が狂ってしまう。だからリーブは、意を決してヴィンセントの肩を揺さぶった。
「ヴィンセント、寝るならベッドですよ」
この程度で素直に起き上がってくれるのなら苦労はしない。何十年も眠っていたくせに、この男は相変わらず眠るのが好きなのだ。どうせうたた寝してしまうならこちらの肩にでも凭れかかればいいものを、彼の人は可愛げなく反対側の肘置きに腕をついて首を反らせている。
「ヴィンセント」
とはいえ、こうして無防備な寝姿を晒してくれるのに悪い気のしない自分も甘い。どうせだからひたすら彼の名前を連呼してやろうか。Vincent、唇を噛んで音を呑み込んで、歯の隙間から鋭く吐いた息は口蓋にぶつかる舌にかちりと収められる。いい名前だ、呼ばうことにさえ快感を覚えるほどに。
「ヴィンセント、ゔぃーんせーんと」
何度目かも数えないまま繰り返した名前に、リーブ自身呆れ始めて気の抜けた笑いが混じり始めた頃、不意にヴィンセントが垂れた髪を掻き上げた。反ったままの首筋がひくりと震える。
「ヴィンセント、起きました?」
「……リーブ、本当のことを話そう」
「は?」
藪から棒に、妙に深刻な声を出した情人に思わず首を傾げる。ヴィンセントは髪を上げた手を額に置いたまま、固く目を瞑っている。
「私達は結婚できないんだ」
「はあ……条例の整備に時間がかかるもので。いきなりどうしたんです?」
神羅の支配していた頃は同性婚が認められなかった、その名残だ。リーブとて改正を急ぎたいのはやまやまなのだが(別に自分たちのためではなく、単にそうすべきだからだ)、復興途上のこの世界では民法周りは後手に回ってしまう。まさか今、その駄目出しをする気だろうか。
「まずな……私は本当は金髪ではない」
「どう見ても綺麗な黒髪ですが」
「それに、私は煙草を吸うんだ。四六時中吸っていないと気が済まん」
「嘘ばっかり」
と返したところで、ついにヴィンセントの瞼が開いた。きろりと眼球だけで睨みつけてくる赤瑪瑙の輝きに、あっ、と思い至る。
(あなた……寝てたんじゃなかったんですか)
“I’m gonna level with you”から始まる告白は、さっきまで流していた映画のラストシーンだ。こうしてたまに洒落っ気のある遊びを仕掛けてくるのだからたまらない。リーブはソファに深く背を預けて、正しい台詞を繋げた。
「僕は気にしませんよ」
それで満足したのか、鋭い眦を猫のように緩めたヴィンセントが芝居を重ねる。
「酷い過去もある。三年間もサクソフォン奏者と暮らしていた」
「許しましょう」
「子供を産むこともできん」
「養子を取ればいいじゃないですか」
「分からん奴だな、リーブ」
ぎし、と座面が軋む。投げ出したままのリーブの手を彼の手が掴み――その股間に押し付けた。
「私は男だ」
さすがに兆してはいないが、間違いなく女性の身体にはない肉の塊を掌に感じる。やれやれ、件の映画はやはり退屈だったようだ。眠る前の口直しが必要ということらしい。
珍しい彼からのおねだりと受け取って、リーブはことさらににんまりと笑ってみせた。
「なるほど、完璧な人間などいませんからね」
「その通りだ」
「ですが――」
空いた手を一気に伸ばして、彼の背に回す。部屋着のよれ始めた首回りに顔を埋めて、逃げられる前に前歯を立てた。
「僕にとっては、最高のパートナーです」
「……そんな台詞があったか」
「さあ?」
抵抗されないのをいいことに頰を擦り寄せれば、髭が当たるのをくすぐったがる黒猫が身を捩る。ヴィンセントは上機嫌だ。
出しっ放しのグラスもつまみの皿も明日でいい。引き寄せられる勢いのままに上体を倒して、リーブ、と呼ばれる名が心地よく耳朶を撫でるのにまた笑った。
臆病者の滑稽騒ぎ
五十日。七日間の一週間が七回巡ってもう一日。
一時的な滞在としては長く、しかし定住と言うには短すぎる。最初の五日は新鮮で、次の三日で馴染んで、続く十日は楽しくて、そのあと落ち着いた七日を過ごしたら次第に不安になってくる。不整脈の心電図のような気分にリーブが怯えてきたことなど、ヴィンセントにはよくわかっていた。何故ならそれは、いつ帰ってきていつ出ていくかも知れないヴィンセントのせいに他ならないからだ。
今日この局面に至るまで何も言ってやらなかった己を棚に上げて、ヴィンセントは大いにため息をついた。ひと一人分の間隔を置いて同じソファに座るリーブの肩がひくりと震えるのが、哀れなほどに可愛くてかわいそうだ。
訊けなかったのか。いい歳こいたおとなが、たったひとことを。次はいつからどこへ出かけるのかと、言葉にしてしまえばそれだけのことなのに、三週間も四週間も溜め込んで、いつもより強い酒を何杯も呑み下して、やっとのことで、それもこちらを見もせずに口走るとは。
ヴィンセントはグラスを傾け、溶けたロックアイスのかけらをわざと口を開いたまま噛み砕いた。ばりんぼりんと間抜けな音がするから笑うなり叱るなりすればいいものを、リーブはますます所在なさげに身を縮める。それを見ていたら腹の底がざわりとした。怒りと欲情はたまによく似ている。
「その程度のこと、酒など呑まずに訊いてみせろ」
乾き始めたヴィンセントのグラスとは対照的に、リーブの方はまだ半分も進んでいない。わざと乱暴に伸ばした手でグラスを取り上げて、ヴィンセントはそれを一気に干した。
「私はここにいる」
そう決めた、という言葉尻を呑み込むようにリーブが呼吸を止める。
「どうだリーブ、これが酒の力を借りるほどの返事というものだ」
立派なジジイ×ちゃんとジジイになれたジジイ
「立ち枯れた爺相手では勃たんか」
こちらを案ずるような、いっそ申し訳なさのようなものさえ漂わせる声色が、実のところほとんど喧嘩を売っているのだとリーブは知っている。重ねてきた年月に裏打ちされた直感だ。
もはや三十年にもなんなんとする時間を、リーブとヴィンセントは分かち合ってきた。ごく親しい友人として、中盤からは共同生活者として。
偶発的にしか触れたことのない彼の指が、いまリーブの手甲に重なっている。皮膚は乾き、肉が落ちて筋ばかり目立つ元事務屋の手を、骨のつがいかたも明らかな元戦闘員の潰れた指先が確かめる。
ざり、と擦れる老いた肌の摩擦に、久しく覚えなかった熱さが腹の底を突き上げた。吐き気にも似ているが嫌悪はない。顎の付け根から唾液がどっと溢れ出し、背骨と腰骨盤の境目が焦れる。この感覚についた名前を、リーブは確かに思い出すことができた。
は、と勢いをつけて吐いた息は嘲笑の様相を呈した。ヴィンセントは眉さえ動かさずこちらを見ている。観察されている。
「お前が勃たんのなら仕方がないが」
そう決めつけられたことには反発したいところだが、リーブは殊勝らしく続く言葉を待つ。ヴィンセントの言葉を遮ることは容易いが、遮ればその続きは二度と聞けない。これも経験則だ。
「私はおまえで勃つぞ」
右の口角だけを吊り上げて笑うヴィンセントは、もう一度、おまえが勃たないのなら、と繰り返す。おまえが勃たないのなら、私が抱いてやろうか。
「……お断りしますよ」
声が掠れていた。みっともないほどの――興奮のために。
ヴィンセントの髪が揺れる。三十年前に比べればさすがに艶とコシを失いはしたものの、いく筋かの白髪が装飾品のように見える程度には整っている。ああ、こういうところが可愛げないのだ。この男はいつまで経っても。
「何も試さへんうちに白旗揚げるんは、僕の信念に反しますので」
いいざま、手の甲にかぶさる彼の指を取ろうとしたが、それよりもヴィンセントが立ち上がる方が早かった。二十三年前に買って以来、ふたりのおとこの体重を支え続けてきたソファが静かに軋む。
「逃げるんですか、ヴィンセント」
「ばかを言え」
ばさりと空気が鳴り、リーブの視界が一気に薄暗くなった。ヴィンセントが羽織っていた大判のブランケットを投げられたのだ、と気づいた瞬間、己のものとはちがうにおいが鼻腔を満たす。三十年を共に過ごしても、リーブはリーブでありヴィンセントはヴィンセントであって、決して溶け合うことのない異なる個体である、ということがとてつもない説得力でもって押し寄せてきた。
「おまえの心意気に免じて、今日は私が準備をしてやろう。……せいぜい気合を入れておくことだ」
足音が遠ざかり、浴室のドアを開閉する音が聞こえる。リーブはブランケットを頭からかぶったまま、どちらかといえば脳溢血を心配した方がよさそうだ、と思った。