第一章 初夏



「悪くない働きぶりでしたわ、ハナマルを差し上げるほどではありませんけれど」
「はあ……」
「今日のところはこれでよござんす、気をつけてお帰りなさいな」
「し、失礼します……」
 いかつい外見——同年代の男子平均を優に上回る身長に、それをひ弱に見せないだけの体格のよさ、加えて銀髪もよく目立つ——に反して人のいいフリオニールは、化学教員室の整頓を体良く押し付けられていた。一緒に呼ばれたはずのクラスメイトは部活があるとかでとっとと逃げてしまい、渋々足を踏み入れた化学準備室でフリオニールを待ち受けていたのは、高飛車極まりない教師と、何をどうしたらこうなるのかさっぱり見当のつかないほどに溢れ返った本と試料の山だった。
 子供のような身長(と言うのは本人には禁句だ、何でもそれを指摘して文字通り真っ黒焦げにされた生徒がいるという)の化学教師に合わせて誂えられた設備は、フリオニールには小さ過ぎた。結局、這いつくばるようにして棚の中身を整え終えた頃には時計は午後五時まであと数分を伝えている。準備室を退出して、軋むように痛む腰を伸ばした。
 晴れていれば夕暮れ空が紫に染まる頃だったろう。帰宅しようと靴を履いたフリオニールを迎えたのは、横殴りに叩きつける強風と大粒の雨だった。天気予報が曖昧だったから、折り畳みの傘しか持っていない。雨だけならともかく、こう風が強くてはものの役にも立たないだろう。それでも未練がましく、愛想のない紺色の傘を広げようとした時だった。
「傘なんてさしてもムダっすよー!」
 ばちゃん、と水たまりが跳ねて、金色が視界に飛び込む。雨と風に塗り込められたこんな陰鬱な夕方に、その彩りは全く唐突かつ不似合いで、フリオニールは目を丸くした。
「きーてる? おーい」
 こんちはー、とひらひら手を振られて、それでやっと焦点が合った。フリオニールより頭ひとつ分低いところから、青い輝きがこちらを真っ直ぐに見ている。ゼリーとか飴とか、そういう菓子のように甘そうな青だ。
「……こんにちは」
「あ、生きてた。こんちはっす」
 咄嗟の返事に迷ってつい間抜けな挨拶を返してしまった。そのことを気に留める風もなく、目の前の人物がほっとしたように笑う。改めて彼の全身を眺めて、それでやっと、これが「あの」ティーダだ、と気づいた。
 ゴシップや噂話の類には疎いが、そのフリオニールでもティーダのことは知っている。そういえば、数日前に隣の席の奴がめくっていた雑誌に「エース・オブ・ザ・ブリッツ」だなんて冠つきで小特集が組まれていた。学年は違うけれど、校内でいつでも何人もの取り巻きを引き連れて歩いているのをよく見る。目につきやすい外見のせいで何かと絡まれやすく、できるだけ目立たないようにと心がけている自分とは正反対だ。同級生でも友達にはなれないだろうな、とぼんやり思ったこともあった。
 その彼が、目の前にいる。この雨の中何をしていたのか、頭のてっぺんに跳ねる毛から靴の爪先までずぶ濡れだ。滴り、滑り落ち、服に染みて重くする水をまるで意に介さない様子に、ああブリッツの選手というのはこういうものなのか、と妙に納得した。
「すごい雨っすよね、最近こんなんばっか」
「そう、だな……」
「昨日? 一昨日? も降ってたっすよね」
「ああ……」
「さすが梅雨! って感じっすね」
 棒立ちのフリオニールに、矢継ぎ早に話しかける彼は一体何を考えているのだろうか。そもそも初対面だ。こちらは彼のことを一方的に知っているけれど、向こうは自分のことなど知らないはずだった。フリオニールが面食らっているのにやっと気づいたか、ティーダがふっと笑った。
「先輩、いま『なんだこいつ』って思ってるっしょ」
「いや、そういうわけでは……」
 ほとんど反射的に否定すると、今度はけらけらと声を上げて笑い始めた。ごまかすのヘタすぎ、そう言っていつまでも笑っているから、居心地が悪くて仕方がない。
「あーウケた、すんません」
「……」
「てか先輩、おれのこと覚えてないっすよね」
「え、」
「やっぱそうだ」
 得心したように何度も頷くティーダに置き去りにされて、フリオニールは首を傾げた。覚えてない、とはどういう意味だろう。どこかでもう顔を合わせたことがあっただろうか。
「入学式の日に会ってるっすよ」
「……すまない、覚えてない」
「いいっす、大丈夫っす」
 びょうと吹き付ける風にティーダが目を細める、その表情にうっかり気を奪われた。フリオニールには不快なものでしかなかった雨と風に全身をぐっしょりと濡らして、それだというのにティーダは心地良さそうに口角を引き上げる。小さく息をついて、やっと呼吸が出来るようになったとでも言うようだ。まるで違う生き物を目にしている気分だった。
「フリオニール先輩、で合ってますよね?」
 その別種の生物の口から自分の名前が出て、フリオニールは目を瞠る。かろうじて頷くが、ティーダの方は疑問形を取りながらその実は確信していたようだ。
「あ、おれティーダっす。1-Cの」
「知ってる」
 やや被せ気味に返事をすると、知っててくれたんすね、嬉しいっす、と無邪気に歯を見せて笑う。知らぬもののない有名人が、まさか自分に認識されていることを喜ぶとは想像もしていなかったからフリオニールの方が戸惑ったままだ。
 どうにもペースを崩される、それに嫌な気がしない事実を持て余している。半端に広げかけた折り畳み傘をぶら下げてフリオニールは、立ち尽くすというのはこういう気分のことを言うのだろうか、と思った。
 廊下を歩くのを遠目に見ることは何度かあったが、間近に見るのは初めてだ——ティーダには申し訳ないが、入学式の日のことを覚えていないので——。それで、その金髪がどうやら地毛ではないことに気づく。どれだけ濡れたのか、雫が湧き出すように滴って、彼の額や首筋を伝っていった。
「先輩、そんな見られたら穴開くっす」
「すっ、すまない」
 さっきから謝ってばかりだ。自分がとんでもない間抜けになったような気がして、フリオニールはつい背筋を正す。
「で、先輩、どうするっすか?」
「どう、って」
 天に向かって伸びるティーダの指を追って、空を見上げた。どんよりと垂れ込めた雲は低く空に吊り下がり、存分に水分を含んだらしい灰色のカーテンはこれだけの強風だというのに微動だにしない。しばらく止まないのではないだろうか。
「止まないか……」
「どうっすかね、案外すぐ止んだりするかも」
 行くにせよ留まるにせよ、いずれにしても傘は何の役にも立たない。溜息をひとつついて傘をしまうと、ティーダがそこだけ晴天のような瞳を輝かせた。
「先輩も走るっすか?」
「えっ、いや、俺は……」
「先輩家どっち?」
 おれこっち、と指した方角は偶然にもフリオニールの帰路と同じだった。それよりも、先輩「も」走るか、とはどういう意味だ。当たり前だと言わんばかりに誘う態度が無性に可笑しくて、思わず噴き出す。これまで眉を顰めっぱなしだったフリオニールがやっと笑ったのを見て、ティーダは分かりやすくはしゃいだ。
「いいっすよね、一緒に帰りましょーよ先輩」
「走ってか?」
「とーぜん! こういう日は走るに限るっす」
「なんだ、それ」
 俺はそんなに速く走れないぞ、と言うと、そしたら待っててあげるっす、と嫌味なく返ってくる。肩に引っ掛けた鞄の中身は教科書とノートの類でずっしりと重い。一方のティーダは見れば手ぶらだ。何をしに学校に来ているのだと固い教師なら怒りそうだが、想像通りの姿ではあった。
「なーなー、先輩ってばー、絶対楽しいってー」
「わかったわかった、付き合ってやる」
「マジでっ」
 飛び跳ねんばかりに喜ぶティーダを制して、フリオニールは鞄の中身を教室に置いてくることにした。出来るだけ荷物は軽くしたかったし、濡れて乾いてページの波打った教科書を使い続けるのも気が進まない。だからここで待っていろ、と言うと、りょーかいっす! と何度も首を縦に振った。
 階段を数段飛ばしで駆け上がりながら、一体何をしているんだろうと思う。ほぼ初対面の、校内の人気者にとっ捕まって、これから豪雨の中を走って帰るのだ。どうしてティーダがこんなことをするのかさっぱり分からないが、きっとほんの気紛れなのだろう。彼が自分のことを知って、記憶していたことも。
 身軽になって出口に戻ってみると、ティーダはちゃんとそこにいた。買い物に行った主人を待つ仔犬のように、ちゃんと同じ場所に立っているのがなんともいじらしく思える。
「待たせたな」
「ちょうどよかったっすよ先輩、雨ちょっと弱くなってきたから」
 確かに、先ほどまではコンクリートにぶつかってバラバラと鳴っていた雨音が、今は少しばかり軽くなっている。どのみち濡れることに変わりはないのだが。
「そんじゃ、行きますか!」
「おう」
 地面を蹴って雨の中に躍り出た背中を追う。軽快なスタートダッシュを決めたティーダが、降り注ぐ雨に腕を広げる。陰鬱とした景色の中でそこだけ切り取ったように煌めいて見える姿に、フリオニールは目を眇めた。
 打ち付ける雨粒も今は煩わしくない。こんなことをすれば制服のズボンはクリーニングに出さなければならないだろうが、そんなことを気にするのはやめた。ティーダがペースを少し落として、フリオニールが追いつくのを待っている。
「……ははっ、」
 自分が笑ったのだと気づいたのは、声が転がり落ちてからだった。一度こぼれ落ちたものは止まらなくて、フリオニールは走りながら笑う。
「え、ちょ、先輩だいじょーぶ?」
「ははは、は、すまない大丈夫だ、ははっ」
「なんだよ、そんな笑うこと、っくく、なくねえ?」
「馬鹿みたいだと、思って、っははは」
「馬鹿って、ひひひ、なんだよもー」
 正体の分からない笑いは、あっさりティーダに伝染した。ばしゃばしゃと水たまりを蹴りながら、噛み殺そうにもこみ上げて止まらないものを扱いかねて顔を見合わせる。
 馬鹿みたいだ。今日初めて口を聞いたやつに唆されて、降りしきる雨の中をふたりで走っている。夏の始まりに似合うぬるい天の雫は容赦なく全身に纏わりつく。家でするはずだった予習も復習も全部投げ出して、身ひとつで意味もなく駆けている。ふたりの他に道を歩く人はなく、そのことがいっそう、思考のタガを外す。
 現実感がない。両足は確かにアスファルトを蹴るのに、走っている間じゅうずっと、数センチ浮いているような気がしていた。どうしても遅れるフリオニールを待ってその場でくるりとターンするティーダは、雨を手繰って空中を泳いでいるように見える。ふわりと微熱に浮かされたような感覚が、ひどく心地よかった。
「先輩、遅いっすよ」
「言っただろう」
 少しだけ、ねじの半周分だけ、どうかしてしまった。体温と同じ温度の雨を浴びて、笑いを堪えられないまま走って。だから、遅いと文句をつけながら差し出された手を取ってしまったのは、仕方のないことだった。





 
 それから。てっきり有名人の気紛れだと思っていたフリオニールの前にティーダが現れたのは翌日のことで、その翌日も、さらに次の日も、彼はやって来た。フリオニール先輩いますか、とにこにこしながら、普通なら来づらいはずの他学年の教室に顔を出す。あまり連日のことなので、クラスの女子どころか男子までが色めきたったが、どうつつかれても探られても、フリオニールにはよく分からない、としか答えられなかった。
 何故彼がこうもひっついて来るのかは分からなかったが、ティーダと一緒にいるのは楽しかった。あの雨の日、まるで違う生き物のようだと思った通りに、ふたりは違うところばかりだった。性格も、学校というコミュニティにおける立ち位置も、興味のあることも、得意なこと苦手なことも、誂えたようにどれも一致しなかったから、差異を見出すたびにふたりは顔を見合わせて笑った。唯一通じるのは食べ物の好みだけで、それがまた何となく可笑しかった。
 ティーダに会うのは学校の中だけ、帰宅部のフリオニールと帰りの時間がかぶることは滅多にない。あの雨の日、ふたりはひとつの交差点で右と左に分かれたから、互いの家の正確な位置も知らない。メッセンジャーアプリのIDだけは交換していたが、どうせ学校に行けば会えるのだと思うとあえて使う気はしなかった。
 いつの間にか梅雨は明け、夏休みまでの日付を指折り数えるようになっていた頃だった。
「なあフリオニール」
 夕方のホームルームを終えて、生徒たちが三々五々散らばって行った。放課後の始まり、たいていの生徒は部活に向かう。フリオニールは荷物をまとめながら、うんざりするような暑さの中、アスファルトに炙られて帰るのが億劫だと思っていた。その肩を、クラスメイトが叩く。
「最近、あいつ……ティーダと仲良さそうだよな」
「それが、どうかしたか?」
「いや、お節介っつーか、余計なことだとは思うんだけどさ……」
 もごもごと言いづらそうに語尾を濁らせる彼は、確か水泳部だったはずだ。そう親しいわけでもないのに、何を話したいのだろうか、と首を傾げる。クラスメイトは、教室が空になるのを待っているようだった。


 どこをどう歩いて帰って来たのか、覚えていない。帰りにスーパーマーケットに寄って夕食の買い出しをするつもりだったのだが、居間のソファに倒れ込んだフリオニールはそのことを完全に失念していた。
 ——誰とでも寝るって、噂になってるんだよ。
 クラスメイトの言葉が耳の奥に蘇る。その気まずそうな顔の下に隠したつもりだろう下卑た好奇心が、目から覗いていた。
 ——何だそれ、ひどい噂じゃないか。
 ——噂だけどさ、でもおまえ、最近あいつに懐かれてるみたいだったから。
 ——何が言いたいんだ。
 ——や、気を付けろよってこと。あいつはブリッツ部で、俺水泳部だろ。近いから、噂って言ってもけっこう信憑性あるし。
 締め切った部屋の中で蒸されるようで、手探りでエアコンの電源を入れる。唸るような音と共に冷気が吹き付けたが、汗に濡れたシャツはいつまでも不快な感触で背中にへばりついていた。
 ——何かあったら、相談乗れるからさ。上手く距離置いた方がいいぜ。
 そう言い残して立ち去ったクラスメイトの引き攣った笑いが、今になって不気味だった。心配するていで、眉を顰めて、出所の分からない噂で人を貶める。相談に乗るだって? それは、噂を肯定する悪い要素を探してこいと命ずるのに等しい誘い文句だ。
 きっと彼は、フリオニールが数日後に、やっぱりティーダがそういう奴だったと報告するのを手ぐすね引いて待っているのだ。さもなければ、フリオニールとティーダがすでに「そういう」仲だと、そんな次の噂を他の誰かに先駆けて手に入れたいのだろう。別れ際に肩を叩いた掌の温度が気持ち悪かった。
「……ティーダはそんな奴じゃない」
 ソファの座面に顔を押しつけて、わざと声に出す。ティーダはそんな奴じゃない。そんな、誰彼構わず身体だけ繋げていっときの快感に溺れるような奴じゃない。だって自分は知っている。彼がどれだけブリッツに真摯に打ち込んでいるかを。エースと呼ばれながら、そんな称号は何の役にも立たないと、いつだって自分の足りないところを補おうと努力しているのだ。スタメンだってユース選抜だって、一瞬でも気を抜けばすぐに陥落してしまうと言っていた。部の朝練に放課後の練習、それからユースの練習、休みの日だって外部のプールを借りて個人練習に励んでいる。朝から晩まで文字通りブリッツ漬けの彼が、そんなことに時間を割くはずがない。——けれど。
「…………」
 絶対に違う、と言い切ることも出来なかった。学校という狭い世界の外で、彼が何をしているのかフリオニールは知らない。家族のことも、友達付き合いのことも、お互いに話さなかったし、訊かなかった。
 キュウリ味の炭酸飲料をふたりで分け合ってまずいまずいと大騒ぎしたのは三日前。模擬試合でチームメイトの肘がぶつかったと口の端を切って来たのは二日前。トレーニング用の新しいシューズが欲しいと言う彼と携帯を一緒に覗き込んだのが昨日。メロンパンはしっとりがいいか、さくさくがいいかで激論を交わしたのが今日。
 意外と食べ物の好き嫌いがないこと、鮮やかな色遣いが好きで、けれど道具類はきちんと機能性も重視すること、髪を自分で染めるくらいには器用なこと、メッセンジャーアプリがずっと鳴っていてもフリオニールといる時は滅多に携帯を開かないこと、目が合うと一瞬逸らして、それからまっすぐに見つめてくること。
 ティーダについて知っていることはたくさんある。あのクラスメイトよりもずっといろいろなことを知っている。たった一月足らずの付き合いでも、彼がどんな声で笑うのか、その時あの青い瞳がどんな風に輝くのか、フリオニールは知っている。
 ティーダは友達だ。学年が違っても、付き合いが短くても、分かりやすい繋がりがなくても、始まり方が少しくらい奇妙でも、ティーダはフリオニールの友達だ。交友関係が狭くなりがちなフリオニールにとって、友達だ、と言える人間はそう多くない。指折り数えられるほどの、そのひとり。
 信じたかった。ティーダはそんな奴ではないと信じたくて、それでも本当は自分の知らないところに、自分の知らない顔をしたティーダがいるのではないかと疑念が頭をもたげる。制服かトレーニングウェアを着た彼しか知らないから、そう考えるのが普通ではないかと理屈が疑念を唆す。
「……はぁ」
 ごうごうと音を立てるエアコンが冷気を吐き出し続けている。気がつかぬまま、ずいぶんと長いこと考え込んでいたらしい。買い物に行かなくては、面倒を見てくれている叔父が今夜出張から帰ってくるはずだった。




 昼休みを告げる鐘が鳴るが早いかいつもの通りに顔を出したティーダを見て、昨日話しかけて来たクラスメイトがフリオニールを見る。その視線は下品で下世話な興味を隠そうともしない。
 フリオニールは努めて平静に、弁当を手に立ち上がった。不躾な視線を気にするそぶりなど見せないように、あえてゆっくりと歩き、廊下で待つティーダに合流する。
「今日も暑いな」
「っすね。朝練ちょー気持ちよかったっす」
 だろうな、と頷いて歩き出す。行き交う生徒たちがティーダだ、と囁くのももう慣れた。ふたりで向かうのは屋上だ。灼けつくような日射しなのは承知だが、場所を選べば意外と風通しはいいもので、昼の定位置だった。
 階段を上り切って重い鉄の扉を押し開ける。これだけ暑いと他の生徒はほとんどいない。中天に輝く太陽が落とす影は短くて濃い。吹き抜けた風に、ティーダの持っているコンビニのビニール袋ががさりと揺れた。
 給水塔の陰に並んで腰を下ろす。今日の数学が抜き打ちテストで、と唇を尖らせるティーダの日に焼けた横顔を改めて見つめた。
 一晩悩んだ結果、フリオニールはティーダを信じることに決めた。誰とでも寝るだなんてそんな話、結局は根も葉もない噂だと考えることにしたのだ。だってティーダは友達だから。一緒にいて楽しい、よく懐いてくれるこの歳下の友人を、大切にする方法は今のところそれしかなかった。
「で、どうだったんだ、テストは」
「聞くなよお、ボロッボロっすよ」
 はああ、と大きな溜息をついてから、焼きそばパンにかぶりつく。勉強というものを総じて苦手としているらしいティーダは、どうしてもブリッツが楽しくてそちらに逃げてしまうようだ。期末テストも思わしくなかったようで、補習を受けなくてはならないと話していた。
「先輩はどうだったんすか、期末」
「まあまあだな」
「うっわ、イヤミー」
 顔を顰めるティーダに笑う。両親を早くに亡くし、叔父を頼って暮らしているフリオニールは、大学も奨学金狙いだ。せいぜいが中の上の現状では、テストひとつも気が抜けない。担任からはもう少し点数を伸ばせ、今でギリギリだと言われていた。だからそこまで優秀だというわけではないのだが、ティーダにひとつくらい見栄を張りたいという気持ちもあった。
 あっという間にパンを腹に収めたティーダが、そうだと指を鳴らす。
「先輩、おれに勉強教えてくださいよ!」
「えっ」
「夏休みにさ、おれが練習ない日だけ。だめ?」
 遠慮なしに顔を覗き込まれて、箸でつまんだ卵焼きを取り落とすところだった。ティーダはどうもパーソナルスペースが狭いようだ。たまにフリオニールが動揺するくらい近くに寄ってくることがあって、その度に距離を測りかねてはまごついてしまう。
「先輩、来年大学受験すんだろ。したら良い復習にもなるしさ」
「まあ、そうだな……」
 ティーダの言うことはもっともだ。しかし、その勢いに思わず言い淀むと、彼の表情がすっと曇った。
「あ、メーワクっすか?」
「いっ、いや! 大丈夫だ!」
 上目遣いのクリアブルーがしゅんと彩度を落とす。慌てて否定した語気が自分でも驚くほど強くて、ティーダがただでさえ大きな瞳をさらに丸くした。
「大丈夫だ、やろう、勉強」
「え、いや、無理しないで欲しいっつーか、おれも急にぐいぐい行っちゃったし……」
「無理なんかしてない、その、俺でどこまで教えられるか分からないが」
 それでもよければ、と付け加えれば、やった、とティーダが笑う。まるで小さな太陽が目の前に落ちてきたようで、フリオニールは首筋を伝う汗を感じながら目を細めた。


「……で、あとは右辺を計算すれば答えが出る」
「なーるほどー」
「自分でやってみろ」
「うっす」
 こくこくと頷いたティーダがシャープペンを握り直す。ノートの行からはみ出す元気のいい字を眺めながら、フリオニールはぬるくなり始めた麦茶を飲み干した。
 約束した通りにティーダがやって来たのは、夏休みが始まって六日目だった。ブリッツ部の練習が午前で終わりだというから、高校の正門で待ち合わせをして、途中ファストフードで空腹を満たしてからフリオニールの家に向かう。勉強する、と言ったのは嘘ではなかったようで、水着やらタオルやらが詰まったボストンバッグだけでなく、彼はちゃんと教科書やノートを持って来た、のだが。
「あ、先輩」
「どうした?」
「ふでばこ忘れたっす」
「おまえな……」
 てへへ、とごまかし笑いのティーダにデコピンを喰らわす一幕などもありつつ、ふたりはフリオニール宅のダイニングテーブルで向かい合わせに座っている。
 勉強が苦手なティーダだがやる気がまるでないわけではないようだ。今日は一番苦手な数学をやると言うのでフリオニールも数学の宿題を広げて、自分の問題を解きながら声を掛けられれば手助けをしてやる。まるで説明できないというような失態があっては、と内心どきどきしていたが、今のところは順調だった。
「うー……ここのカッコを外してー……掛けてー……」
 さっき教えてやった手順をぶつぶつ呟くティーダのグラスも空になっている。フリオニールは静かに椅子を立ち、キッチンに移動した。グラスを冷えた麦茶で満たして、ふと時計を見ると間もなく三時だ。そろそろ休憩にしてもいいかもしれない。確か冷凍庫にアイスがあったはずだ。
「んーとそれから……xをこっちに集めて……右から左に行くとプラスとマイナスが入れ替わって……」
 教えた通りにいちいち口に出しているのが可笑しい。つい綻んでしまった口許を見咎められないように、フリオニールは腰を屈めて冷凍庫を覗いた。
「んんっ……そんでこいつをこれで割れば…………できたっ」
「出来たか」
「うっす! xは3でyが7! どーすか!」
「正解だな、おめでとう」
「へっへー」
 高校生になってまで二次方程式か、と言ってはいけない。千里の道も一歩からだ。得意げな顔をするティーダに、二本の棒アイスを差し出す。
「休憩だ、どっちがいい」
「やった、何味っすか?」
「ソーダとミルク」
「んんー、究極の選択っすね……」
「こんなことでか」
 それじゃミルクにするっす、と言う彼に白い方を差し出してやって、揃って封を開けた。いただきます、と案外行儀のいいティーダの唇が、霜を纏うアイスに喰らいつく。
「二年生ってどんなことやるんすか」
「見るか?」
「うっわ、何この……ろ、ろぐ?」
「logな」
「ひー、先輩がめちゃくちゃ頭よく見える……」
「それ、気のせいだぞ」
 安っぽい水色を舐める度に、口の中がひんやりと温度を下げてゆく。前歯で齧れば冷気が神経を伝って、こめかみがぎゅうと締め付けられるように痛んだ。ティーダも同じことをしていたようで、眉を思いっきり寄せている。
「きーんって……」
「ああ……」
 窓の外は暑さが最も厳しい頃合だろう。蝉の大合唱がガラス越しに聞こえてくる。空調の効いた部屋でアイスなんか食べながら他愛のない話をしていることが、なんだかとんでもなく平和で贅沢な気がした。
「先輩は、どこの大学目指してるんすか」
「俺か? まだ固まってはないが……」
 今のところの第一志望の名前を挙げる。この街から三百キロメートルばかり離れた都市にある大学は、小規模ながら充実した研究ができると評判だった。
「あの大学は他の学部の講義も取りやすいし、転学部も難しくないそうだから」
「ふーん」
「具体的にやりたいことが決まっているわけじゃないからな、入学して色々講義を受けてみて、それから考えても遅くないかと」
 半分くらいは進路指導の教員の受け売りだ。話しているうちに何だか恥ずかしくなってきたが、ティーダはアイスから口を離して、すげえ、と感嘆した。
「すごくなんかないさ」
「いや、すごいっすよ。ちゃんと自分の将来のこと、考えてるってことだろ」
「おまえの方が俺にはすごく見えるけどな」
 まだ十六年しか生きていないのに、やりたいことを見つけて、しかもその道ではいっぱしのプレイヤーだ。誰もが持て囃すからではなく、一流のブリッツ選手になるとひたむきなティーダの姿が、フリオニールには羨ましかった。
「……別に、そんなんじゃないっすよ」
 その言葉が吐き捨てるようで、今度はフリオニールが目を丸くする。一瞬、すべての音が消えたような錯覚に襲われて、口から出かけたありきたりのフォローはどこかに消えてしまった。
「あ、すんません、変なこと言って」
「いや……」
「ちょっと最近、調子悪くて。気にしないで欲しいっす」
 スランプっすかねー、と打って変わって軽い声を出すティーダの口の端に、溶けかけたアイスが白くへばりついている。それを舐めとる舌が妙に赤く見えたことに動揺して、フリオニールは曖昧な相槌を打つのが精一杯だった。




 八月に入ると、ティーダは文字通り、朝から晩まで練習漬けになった。間もなく夏の全国大会が始まる。
 シード権を獲得したティーダたちの出番は三日後だった。観に行ってもいいものかと尋ねるフリオニールに、喜ぶかと思ったティーダはしかし煮え切らない態度だった。
「迷惑か?」
『あ、そういうんじゃなくて、その、おれ出ないかもしれないから』
 このところ勉強会は開けていない。そうなると顔を合わせるどころではなくて、夜も更けた頃に電話をかけたのだった。発信ボタンをタップしてからメッセージで都合を確認すべきだったと気づいたが、ティーダは二コール目が鳴り終える前に出た。
「そう、なのか?」
 スタメン入りしているとばかり思っていたから、返事が遅れた。さあ、と静かなホワイトノイズが走って、ティーダが何かを言い淀む気配がする。
『んー、当日まで分かんないっすけど……』
「そうか……」
『あ、でも、忙しくないなら見に来てください、先輩ブリッツの試合見たことないって言ってたもんな』
 少し早口で、やたらと明るい声を出す。何かあったのだろう、調子が悪いと言っていたから、思うようなプレーが出来ていないのかもしれない。
「見に行くよ、次も、その次も」
『そんな勝てないかもしれないっすよ』
「それなら来年があるさ、あまり気負うなよ」
 大会の話はそれで終わった。あとは他愛のない話——人みたいな形の茄子を見つけたこととか、死んだ蝉と死にそうな蝉の見分け方とか——をして、電話を切る。
 多忙な叔父はまた出張で、来週の今日までフリオニールは家にひとりだった。携帯を手にベッドに仰向けに転がって、そういえばティーダと電話をしたのは初めてだったな、とぼんやり思った。


 大会の初戦、チームは難なく勝利を収め、次はいきなり準々決勝だ。ばらばらと立ち上がる観客たちの流れに乗りながら、フリオニールはメッセンジャーを開いて送るべき言葉を探していた。
「なんか今日、噛み合ってない感じしなかったか?」
「なんかなー。勝ったけどイマイチ、流れ良くなかったよな」
「エース様のスタンドプレーって感じ?」
 後ろを歩く三人連れは同じ高校の生徒のようだ。訳知り顔で評論家のような物言いをする彼らが癪に触る。
(……スタンドプレーになってしまったのは誰のせいだ)
 ティーダは後半から出場した。彼と交代したフォワードは三年生、体格はよかったが今ひとつ攻めきれず、無得点のまま前半を終えた。代わって出たのが一年生でありながら知名度は抜群のティーダだ。
 後半が開始してすぐ、ティーダは果敢に攻めた。素人のフリオニールにも分かるほどぴったりとマークされ、ボールが渡った瞬間に張り付く選手は三人にも上り、それでも突破口を探してプールを縦横無尽に泳ぎ回った。その身のこなしは確かに超高校生級で、彼よりもずっと身体の大きな相手がなす術なく抜かれてゆく。フリオニールが身を乗り出し、拳を握ったのも当然のことだった。
 一本目のシュートは横から飛び付かれ、弾道がわずかに逸れて外れた。問題はその後だ。リターンボールを奪い取ったミッドフィルダーが、ティーダとは逆サイドのフォワードにばかり球を回し始めた。はじめはティーダをフリーにするための作戦かと思っていたが、様子がおかしい。ディフェンダーも含めてパス回しを繰り返し、何度か訪れた好機にも攻め上がる気配がなかった。
 結局、不意を突かれて取られたボールを、ほとんどゴールラインまで下がったティーダが奪い返した。まさかそこから、と思うような距離を泳いだティーダは、追いすがる敵チームを振り切って相手ゴールキーパーに真っ向勝負を挑んだ。蹴られたボールは水中だというのに恐ろしいほどの勢いで飛び、キーパーの伸ばした指を掠めてネットを揺らした。それがこの試合唯一の得点だ。
 スーパープレイに沸く観客席で、フリオニールは拳を握ったままプールを凝視していた。ゴールを決めたティーダはひとり、チームメイトと手を打ち合わせることもなく静かに定位置に戻っていった。
(ひどい試合だ)
 ブリッツボールをきちんと観戦するのは初めてだったが、それでもこの試合がたいそう不出来だということは分かった。どうしてあんなことをするのだろう。チームワークのかけらもないやり方。ティーダを爪弾きにして、それで負けてもいいとでも思ったのだろうか。
 人混みに紛れて歩きながら、どんどん腹が立ってくる。さっきまで後ろにいた連中とはいつの間にか離れたようでほっとするが、ゴールを決めた後のティーダの横顔を思い出すと、どんな言葉をかけてやればいいのか分からなかった。
 競技場の外は光に溢れている。白い石畳に照り返しが乱反射して、噎せ返るような暑さを前に足が止まる。出入り口のガラス扉がぎらりと輝いて、フリオニールは自分の爪先に視線を落とした。


『ゴール見た。カッコよかったぞ。まずは一勝おめでとう』
 悩んだ挙句、そんな毒にも薬にもならない一言だけを送信したメッセージに、既読サインはまだ付かない。帰宅したフリオニールは言い訳程度にノートと参考書を広げ、三分おきにアプリを開いては嘆息していた。
 送ったメッセージに返事がない、すぐに既読が付かないと思い悩むなんて、まるで付き合い始めの女子のようだ。あまりに馬鹿馬鹿しい比喩に、ぶんぶんと勢いよく頭を振る。
 きっと落ち込んでいるだろう友人を励ましてやりたいだけだ。ティーダはこうなることを予想していたに違いない。試合を観に行きたい、と言った時の、奥歯に物が挟まったような言い方を思い出す。調子が悪いと言っていたのも、チームの様子が原因だろう。
 まだ一年生だから、やっかまれることはフリオニールにも想像できた。僻みや嫉みが陰湿な嫌がらせになるのはどこでもよくある話で、ブリッツ部に限った話ではない。それをまさか、大会のような大切な場でやるなんて。
 ティーダからの返信を待ちながら、何と言ってやればいいのかまだ決めかねていた。「気にするな」そんなことは無理に決まっている。「きっと上手くいく」何の保証もないのにそんな勝手なことは言えない。「顧問に相談してみたらどうだ」それでは何の解決にもならない。「次もこの調子でやってやれ」これこそ無責任極まりない。
 はあ、と吐いた溜息が重い。こと人付き合いにおいて自分が器用な方ではないという自覚はあったが、ここまで不甲斐ないとは思っていなかった。
 相変わらずうんともすんとも言わない携帯を机の隅に押しやって、参考書のページをめくる。日が暮れて短い夜が来ても、夕食を済ませても、眠る時間になっても、ティーダからの返信はなかった。




『昨日はありがとうございました』
 ティーダからのメッセージを受け取ったのは、翌日の夜明け頃だった。ノンレム睡眠の浅い微睡みの中で一瞬鳴動したデバイスに無意識に手を伸ばして、こじ開けた視界にティーダの名前を見つけて一気に覚醒する。
『帰って即寝落ちしちゃって。すんませんでした』
 ベッドの上で上体を起こし、途切れ途切れの文章を受信する画面を見つめる。時刻はまだ五時過ぎ、早朝のロードワークを日課にしている彼には決して早くはないのだろう。
『おはよう。よく眠れたか?』
『うわ、起こしちゃいました?』
『ちょうど起きたんだ』
 嘘ではない。たまたま眠りの浅くなった時間に着信に気づいただけだ。
『何もないのに朝早いって、ジジイっぽいっすね』
『たまたまだ!』
 にやにやと笑う顔が見えるような一文に、思わず顔が綻ぶ。一晩経って、少しは気分が上向いたのだろうか。そうだったらいい、と自分まで浮き立って、そのことに苦笑する。まったく、この友人には振り回されっ放しだ。
『目覚めちゃったなら、こっち来ません? 気持ちいいっすよ』
 メッセージと共に送られた写真には、朝日に照らされる浜辺が写っていた。ここからそう遠くない、自転車を走らせれば十分ほどの海だ。昼間ならば海水浴客でいっぱいになるが、今は画面の端にひとりのサーファーが逆光になっているだけだった。
 ティーダが独りでこの景色を眺めている姿が脳裏に浮かぶ。あの髪はどんな金色に輝くだろうか。よく晴れた真昼の海のような瞳に映るのはどんな風景なのだろうか。少し幼く見える横顔はどんな表情をしているのだろう。
 会いたい、と思った。明けてゆく朝を、ティーダと一緒に見たいと思った。彼が見る景色を教えて欲しかった。彼が聴くのと同じ音を聴いてみたかった。彼の世界を分けて欲しかった。
『今行く』
 たった四回のタップももどかしく送信して、クローゼットを開ける。抽斗の一番上にあるシャツとジーンズを引っ掴んで慌ただしく着替えた。せめて顔くらいは洗おうと階段を駆け降りながら、自分がこれまでになく高揚していることがひどく面映かった。


 この辺にいるっす、と送信されてきた位置情報を辿って自転車を走らせる。おざなりに整えた髪は風に煽られてぐしゃぐしゃになってしまっただろう。重いペダルを思いっきり踏み込んで、朝焼けの国道を駆ける。反対側の歩道に犬を散歩させている老人がいるだけで、車も思い出したようにしか通らない。太陽に焦される前の風はまだ涼しさを孕んで、潮騒を心地よく運んできた。
 ティーダは防波堤に腰を下ろしてフリオニールを待っていた。鮮やかな黄色のシャツを潮風にはためかせ、ハーフパンツから伸びる脚をぶらぶらと遊ばせながら、水平線を見つめている。安物の自転車のブレーキがぎいと鳴る、それがあまりにこの場に相応しくなくて、思わず息を呑んだ。
 彼が振り返る。広がる朝日は色のない光を惜しみなく投げかけ、少年の金糸の髪を空に溶かした。
「せんぱい」
「……おはよう」
「はよっす、マジで来てくれたんすね」
 掌ふたつぶんの距離を空けて座る。飲み物の一本でも持ってくるべきだったと気づいたのは、夏の太陽に網膜を射られてからだった。遠くの木立で蝉が遠慮がちに鳴き始める。
 ティーダは視線を海に戻して、小さく「ありがとうございます」と呟いた。
「大丈夫っすか先輩、無理してないっすか」
「してないさ、本当に偶然目が覚めたんだ」
 寄せては返す波は尽きることなく砂浜を洗う。沖の方でサーファーがボードから滑り落ちた。
「あのひと、いつもいるんすよ」
「そうなのか」
「今年の春からずっと。ちょっとずつ上手くなってる」
 それから、とティーダが続けるのに、フリオニールは黙って耳を傾けていた。校舎の中で会う時や、勉強会の時とは声のトーンが違う、その違いを見極めようと、じっと耳目を凝らす。
「さっきまでいたんすけど、おっきい犬散歩してるひともいて。ゴールデンレトリバー? っすかね、毛並みがよくてかわいいんす」
「そうか」
「あと、もうちょっとしたらこの辺ランニングしてるひとにもよく会うっす。たぶん社会人なんすけど、トライアスロンやってるって」
「それはすごいな」
「うん、めっちゃガタイいいんすよ、身長も先輩くらいあって」
 フリオニールはティーダの横顔を見ている。ティーダの視線は白く泡立つ波頭を追っているから、ふたりの視界は噛み合わない。
 ——ティーダは傷ついたままだ。そう気づくまでいくらも掛からなかった。それから、その傷は昨日ついたものだけではないということにも。
 彼は傷ついたそぶりは全く見せなかった。彼の表情は穏やかで、静謐ですらある。風のない遠海のような瞳は何も見ていないかのように透徹していて、唇は緩く結ばれたままだ。潮風が暖かな色合いの髪を揺らす。鳶が上空を旋回していた。
 いつだってティーダは明るかった。賑やかで、たまに喧しいほどいろいろなことを喋って、大きな口を開けて笑っていた。ゆっくり歩くのがまどろっこしいと言って小走りになるから、フリオニールはいつも少しだけ歩幅を広げていた。
 フリオニールはティーダのことを知らない。彼が身を置く世界の冷たさも、彼を苛む人々の視線と陰口も、こうして出会うまで彼がどんな道を歩んできたのかも、何も知らない。今になってそれを知った。知らない、ということを知った。
 どうして、と問い詰めることは簡単だ。何故教えてくれなかった、相談してくれなかったと、己の過失から目を背けて彼を責めることは容易い。けれど、それだけはしてはならないと分かっていた。フリオニールは所詮無力な子供で、例え相談されたとしても、いっときの気休め程度の言葉しか吐き出せないのは昨晩考え込んだ通りだ。
 自分には、何が出来るのだろうか。答えは見つからない。
「……昨日、変な試合見せちゃって、ごめんなさい」
 その声は今までで一番小さかったけれど、聞き逃すことはなかった。ティーダがやっとこちらを向く。その目許がどことなく赤らんで見えるのは、気のせいか、水平線を離れた太陽のせいか、それとも。
「せっかく来てくれたのに、つまんなかったっすよね」
「そんなことない」
 首を横に振る。ティーダは何も悪くないのだ、ひどい試合になってしまったのは彼ではなくてチームのせいなのは明らかだった。
「カッコよかったぞ、ほんとに。すごいゴールだった」
「そっすか? はは、照れるっすね」
「ほんとに、カッコよかった」
 稚拙な褒め言葉しか出てこないことが歯痒い。微笑のようなものを浮かべたティーダの眼差しが、フリオニールの内面の葛藤を見透かしているようで情けなくなった。
 自分がもっと大人だったら、彼の苦しみを上手く掬い上げてやれるのだろうか。自分がまだ未熟な存在であるということを、これほど疎ましく思ったことはなかった。
「……なんか、上手く行かなくて」
 ティーダがぽつりぽつりと話し始めるのに意識を集中させる。背後の国道を大型トラックが走り抜けて、防波堤を揺らした。
「目立つのは、昔からそうだから、気にしてなかったっす。おれの親父、おれがガキの頃にいなくなっちゃったんすけど、親父も有名なブリッツ選手だったから」
「そうなのか」
「はは、先輩、マジでブリッツのこと知らねえんだな」
「……すまん」
「ううん、先輩がそういうひとだから、おれも話せるっていうか」
 夏の盛りの太陽は、驚くほどの速度で空を昇る。いつの間にか空気が熱くなり始めていた。
「……いなくなった、というのは」
「失踪っつーんすかね、行方不明。トレーニングから帰ってこなくて、そのまんま。その後すぐ母親も病気で死んじゃって」
 あまりのことに呼吸が止まる。今よりもさらに幼い頃に、彼は両親をいちどきに失くしたのだ。
 それはフリオニールも同じだった。自分に両親の記憶はない。まだ赤子の頃に親を事故で失った彼は養父母に引き取られ、今は叔父の世話になっている。今までそんな話もしてこなかったのか、と虚を突かれてフリオニールは黙り込む。
 あれだけ一緒にいたのに。あの嵐の夕暮れがまるで何年も昔のことのように、当たり前のように隣にいたのに、自分たちは互いのことを分かち合わなかったのか。生い立ちに影を落とす深い影から逃げて、ことさらに明るいものばかりを見ようとしてきたのだ、と今になって気づく。
 フリオニールの内心を知ってか知らずか、ティーダが声を高めた。
「可哀想とか思わないで欲しいっす。面倒見てくれるひとならいたし、これがおれの普通だったから」
「……そうだな」
「いろんなひとに可哀想可哀想言われて、ブリッツ始めたらみんな親父のことばっかり話すし、まあキツかったけど、慣れたつもりでいたっす」
 少しずつ交通量が増えてきた。信号のないバイパスを、大小さまざまな自動車が走り抜けてゆく。そのごうごうと鳴る音にティーダの声が掻き消されてしまいそうで、掌ふたつぶんの距離をわずかに詰めたのはほとんど無意識だった。
「けど、高校入ってから、それだけじゃなくなってさ」
「……どういうことだ」
「先輩も聞いたことあるんじゃないかな、おれの噂」
 ランニングシューズを履いたティーダの踵が防波堤を蹴った。どこまでも静かなその声に、すっと背筋が冷える。脳裏を過るのは、あのクラスメイトのどこか卑屈な目だ。
 ——誰とでも寝るって、噂になってるんだよ。
「誰とでもそういうことするって。誰にでも媚びて、レギュラーもユースも親父の名前と身体使って取ったんだって」
「……馬鹿馬鹿しい」
「な、ほんと馬鹿みたいだよな」
 乾いた笑いを漏らす。冗談になり損なったその言葉に、フリオニールは曖昧に笑うしかない。
「馬鹿みたいだけどさ、ずっと言われてると案外しんどいんだなって」
「……」
「どんだけ真面目に練習しても、チームの連中と仲良くしようとしても、全然だめでさ。やればやるほど空回りして」
 ああもうどうでもいいや、って思ったんだ、あの日。
「あの日……」
「あの雨降ってた日、先輩と初めてちゃんと話した日。覚えてる?」
 覚えている。忘れようにも忘れられない、あんな嵐の中、初めてティーダと話をして、勢いに乗せられるままに降り頻る雨風の中を駆け出した、あの日のこと。
「ぜーんぶどうでもよくなっちゃって、なんか叫びたい気分でさ。うわーってなった瞬間に、先輩が見えたんだ」
「うわー、か」
「うん、うわーっ! って。チクショー! とか、なんでもよかったんだけどさ」
 うわー、と言いながら顔をくしゃりと歪めるティーダを見て、思わず口許が綻ぶ。それに気づいたティーダも、照れ臭そうに笑った。
「……誰もいないと思ったのに、ひとが出てきてさ。後ろからだったけど、すぐに分かった。あ、あのひとだって」
 すい、と視線が逸らされた。さっきまで沖の方で波に挑んでいたサーファーは、今日はもう引き上げるらしい。ボードを重そうに引きずる彼がティーダに向かって片手を挙げて、ティーダも手を振って応える。ちょっとだけ、と遠慮がちに言ってから声を張り上げた。
「もー終わりっすかー?」
「おう、これから仕事だからな」
「今日けっこう乗れてましたよね! 仕事がんばってください!」
「サンキュなー!」
 夏休みの高校生には関係のないことだが、そういえば今日は平日だった。遠すぎて顔もよく分からないサーファーが去ってゆく。仲がいいんだな、と言えば、名前も仕事も知らないっすけどね、と目を細めた。
「なんだっけ、そうだ、先輩に会った日のことだ」
「ああ」
「なんかおればっか喋ってる」
「聞かせてくれ」
 聞きたいんだ、おまえの話を。ティーダに倣って水平線を辿りながら、口を突いて出たその言葉は本心だった。フリオニールには他のやり方が分からなかった。いやというほど傷ついて、今やっとその片鱗を覗かせてくれた友人に報いるための方法は、他に考えられなかった。
「なあ先輩、おれのこと思い出した?」
「……入学式の日のことか?」
「うん」
「悪い、思い出せない」
「そっか」
 そうだよな、とティーダはそれきり口を噤んでしまった。彼が覚えているのに、自分はまるで思い出せないことに強い罪悪感を覚えて、思わずすまない、と謝罪が出る。ティーダはううん、と首を振った。
「いいんす、おれの自己満足みたいなもんだから」
「しかし、」
「ほんとにいいんだって、むしろ気にさせてすんません」
「思い出したいんだ」
「……なんで? おれがしつこいから?」
 そうではない、と否定する。そうではなくて——どうしてだろうか。
「その……何と言ったらいいか」
「おればっか覚えてるから悔しい?」
「それもある、気がするんだが」
 突然膨れ上がった疑問を持て余して、糸口を探す。絡まり合ってどうしようもなくなった毛糸玉を転がすように途方に暮れた。
「俺は……おまえが」
「……おれが?」
「その……嬉しいんだ、おまえと友達になれて」
「うん」
「おまえは、今まで俺が会ってきた誰とも違うから、だから……」
 何かを掴みかけた瞬間、バイパスを走る車がクラクションを鳴らした。ぱぁん、と弾ける音に必要以上に肩を震わせてしまう。それきり二の句が継げなくなったフリオニールを見て、ティーダが困ったように笑った。
「先輩、ちょっと歩きません? 引き潮だから、今」


 石段を降りると、スニーカーの底で細かい砂がきしりと鳴った。たかだか数メートルの防波堤を降りるだけで、こんなに海が近い。寄せる波の飛沫が降り掛かるような気がして、無意識に頬に触れていた。
 一歩踏み出す度に甲に砂が乗る。わずかに沈み込むような感触は、そういえばずいぶん久しぶりだ。
 ティーダは一歩半前を歩いている。波打ち際の色濃い砂のラインを辿るその姿は、不思議に重さを感じさせなかった。
「……あのさ、おれ、先輩の言いたいこと、分かるっす」
「そうなのか? 俺には分からない」
「思い込みかもしんないっすけど、でもそんな気がする」
 たぶんおれら、同じこと考えてる。くるりと身を翻したティーダは歌うようにそう言った。
「友達、って思ってくれたの、嬉しいっす」
「ああ」
「嬉しいけど、でもやっぱ違うっす」
「ちが、う?」
 謎かけじみた言葉に首を捻る。引く波がしゅわしゅわとソーダ水に似た音を鳴らしていた。
「先輩、ほんとニブいよな。ニブいっつーか、分かんないフリしてんのか知らないけど」
「どういう、」
「……———、———————」
 突如として割り込んできたのは、けたたましいクラクションに、重いタイヤがアスファルトに擦れるブレーキ音。クラクションは長く尾を引き、ひとの怒鳴り声、それら全ての無粋極まる雑音に、ティーダの声は揉み消されてしまった。
「ティーダ、今なんて」
「うっそだろ」
「すまない、その、」
「あーもう!」
 がしがしと髪を掻き乱したティーダが天を仰ぐ。すうっと息を吸い、視線はペールブルーの空に向けたまま、怒鳴るような声が。
「先輩が! 好きです! って言ったんだよ!」
 不意に押し寄せた大きな波に爪先が呑まれた。キャンバス地のスニーカーはなす術なく水を吸い込み靴下に滲んだが、その不快な感触にも気付けなかった。
「……す、きって、」
「先輩そこまでいくと無神経だからな? 何回も言わすなっつーの!」
 きっととんでもなく間抜けな顔をしていたに違いない。ぶんぶんと頭を振ったティーダの頰が、それどころか首筋までが紅潮していることに気づくと、もう駄目だった。血が頭へ駆け登ってゆくのが分かる。思わず口許を掌で覆った。
「それは、その、」
「言っとくけどそーゆー意味だからな!」
「そういう、って、それは」
「だぁからっ」
 ばしゃん、と波を蹴ってティーダが動く。一瞬で詰まった距離に、世界が止まる。あれだけ騒がしかったバイパスも、絶えず寄せては返す潮騒も、全てがその瞬間、息を潜めた。
 唇の端に生温い感触、目の下をくすぐる塩素に傷んだ金の髪、ふわりと香るのは潮風の気配を孕んだ乾いた太陽の匂い、勢いのまま砂に足を取られてつんのめったティーダの肩がフリオニールの胸を叩いた。
「ティー、ダ、」
「……こういうことだっての」
 よろめいたティーダの腕を取って支えてしまったのは無意識だ。頭ひとつ分ほど低いところから、青い瞳が睨むように挑むようにフリオニールを見上げている。その色に、あの雨の夕方を思い出した。まるで甘いゼリーや飴玉のようだと、あの時思ったのだった。光は真っ直ぐに放たれるのに、その底はどこか不思議な揺らぎを覗かせている。
「……先輩、腕痛いっす」
「あっ、ああ、すまない、」
「謝ってばっか、口癖だよな、それ」
 瞬き一回分よりもほんの少しだけ長く触れられていた口の端が疼く。そこに重なったはずのティーダの唇を見た。ああ、彼が幼く見えるのは、この唇のせいなのかもしれない。手入れなどろくにしていないだろうにつるりと滑らかに乾いてぽってりと厚い、剥き出しの粘膜の端。すっと尖った顎はまだふっくらとした頰に繋がって、少年らしい危ういバランスを保っていた。
「どう思った、っすか」
「……どう、って」
「気持ち悪い、とか、嫌だ、とか、おれの顔も見たくねえ、とか」
 並び立てた例示がどれもティーダには似つかわしくなくて、彼が怯えていることに今さら気がついた。どうして自分はこうも鈍重なのだろう、ティーダはいつだって自分の三倍速でいろいろなものごとを掴み取るというのに。
 全てが遅すぎた。フリオニールは思う。ティーダの抱えていた痛みも、生い立ちに落ちる影を分かち合うことも、彼の想いも、それから、自分がずっと言い訳をしていたことにも。どれもこれももっと早く気付けたはずだった。ティーダがそうしたように。自分はあまりに遅かった。
 ——けれど。
「分かったんだ」
「……なにが、」
「分かった、全部、今」
 厚く重いカーテンを一気に開け放ったように、視界と思考がクリアになる。今だ、今やっと分かった。
 言い訳をしていた。ティーダは友人だと、大切な友達だと、これからずっと付き合ってゆける親友なのだと。
 彼が律儀に毎日教室を訪れるのを待つ昼休みの始まり、屋上で隣に座り込む距離の近さが心地よかったこと、食べているものを一口くれとか、勉強を教えろとか、そんな他愛もない甘えが満更でもなかったこと、ふたりでいる時は彼が携帯に触れもしないことに覚えた優越感。
 電話越しの声が精彩を欠いていたと感じたとき、ブリッツプールの中で孤立した背中が小さく見えたとき、競技場の雑踏で何を言ってやれるかと必死に頭を悩ませたとき、寝ぼけまなこがメッセージの送信者を見るなり覚醒したとき、ジーンズのポケットに携帯と財布だけを突っ込んで自転車に跨ったとき、防波堤の上で明ける空を眺める彼を見つけたとき。
 友達だから、一緒にいて楽しい。友達だから、励ましてやりたい。友達だから、少しくらいいいところを見せたい。友達だから、心配になる。友達だから、会いたい。友達だから、彼の見るものが見たい。友達だから、友達だから。
「……ティーダは、すごいな」
「なんすか、それ」
「俺が見ないふりしてきたものと、向き合ってきたんだな」
「なあ先輩、分かんねえよ」
「俺も、おまえが好きだ」
「ちょっと待ってって、急すぎて、」
「いきなりなのはおまえも同じだろ」
 額が触れ合うほど近くに顔がある。焦点の合わない視界に金と青がぼやけて混ざり合って、彼の顔をちゃんと見たいのに、身体は動かなかった。
「好きだ」
「……せんぱい」
「友達だけど、好きだ」
「友達だから、じゃなくて?」
「それもあるし、そうじゃないのもある」
「なんだよソレ」
 呆れたような笑い声を漏らすティーダの呼気が前髪を揺らした。つられて笑いながら、フリオニールはやっとのことで一歩退く。ティーダの腕を掴んだまま。
「ひとつに決めなくてもいいんだよな」
「どーゆーこと?」
 ティーダがきょとんと目を丸くすると、あどけなさがいっそう強まる。胸の底を突き上げるようなこの感覚が、もしかしたらキスしたいとか、抱き締めたいとか、そういう衝動なのかもしれない。
「おまえは俺の親友だ、ティーダ」
「うん……」
「それで、俺はおまえのことが好きだ。その、友達じゃない意味でも」
「……うん」
「どっちも、じゃ駄目なのか?」
「どっちも」
「どっちも」
 自分が恐ろしく子供じみたことを言っていると思って、また笑い出しそうになる。あれも欲しい、これも欲しいなんて、おもちゃ屋で駄々をこねる幼児そのものだ。そういえばそんなわがままを言ったことはなかったな、と思い出す。ティーダもそうだろうか。
「……いーんじゃないすか、どっちも、で」
「ああ」
「けどその……いいんすか先輩、ちゃんと考えなくて」
「どういう意味だ?」
「いや、その、こういう言い方はアレだけど、流されて、的な感じだったら」
 歯切れの悪いティーダの言葉に、今度はこちらが目を丸くする番だった。確かにティーダの指摘は真っ当だ。自分の目を自ら曇らせていたことに気付いて、全てをはっきりと理解した高揚でフリオニールは浮かれているけれど、ティーダからすればさっきまで戸惑いまごついていたフリオニールがこんなことを言い出すのに困惑するだろう。無理もない。
「そのさ、同情で、とか、そういうのマジ耐えらんないから」
「同情なんかじゃない」
「……けど」
「どうしたら安心するんだ、ティーダは」
「……」
 恋愛経験が皆無に等しいフリオニールには、今何が必要なのか分からない。抱き締めればいいのか、キスをすればいいのか、好きだと何回でも言えばいいのか、思いつくそれら全てがどうにも陳腐で表層的な気がしてしまう。
 きっとそんな単純なことじゃない。今この場を凌げればそれでいい、という話ではない。
「疑ってる、ってわけじゃないんすけど」
「……」
「先輩が、そのうち正気に戻ったらどうしようかって……」
「正気って」
「『おれは しょうきに もどった!』ってなったらどうしようって」
 いつか話した、少し古いゲームの有名な台詞を使ってことさらにおどけて見せるティーダがいじらしい。ずっと掴んだままだったその腕を、強く引き寄せた。
「わっ、」
「最初から俺は正気だぞ」
「それ、別のゲーム」
「そうだったか」
「しかも台詞違う、そこ本気って言うとこだからな」
 存外に大人しく腕の中に収まったティーダの、染まっていない髪の根元が見えた。全身に力が入って、ひどく緊張しているのはふたり揃って同じだった。
「誰かに見られるっすよー」
「そうかもな」
「シャレじゃ済まないっすよー」
「そうかもな」
「クッソ、いきなり開き直りやがった……」
「そうだな」
 ティーダが額をフリオニールの胸に押し付ける。ぐりぐりと押されながら、ここは唇と言わずともそれこそ額あたりにキスすべきだったのか、と思った。




 腹減った、とぼやくティーダと並んで砂浜を歩く。太陽はすでに見上げるほどの高さにまで昇り、じりじりと焦がすような暑さが肌にまとわりつく。遠くの方にゴミ拾いのボランティアたちが散らばっていた。
「てか、マジで覚えてないのかよ、入学式の日のこと」
「だからすまないと言ってるだろう」
「すまんで済めば警察いらねえっつーの」
「警察沙汰にするようなことなのか」
「ものの! たとえ!」
 波打ち際で長いこと立ったままだったフリオニールのスニーカーはすっかり湿って、細かい砂粒がびっしりと張り付いていた。これは帰ったら洗わないといけないだろう。
「せんぱい、思い出す努力の跡が見えませーん」
「努力はしたぞ」
「うそくせー」
「本当だ」
 本当だ。本当に、あの雨の日以来ずっと記憶を辿っていた。たった数か月前のことなのにこうもすっきりさっぱり忘れてしまうと、若年性痴呆症を疑ってしまう。入学式の日、確かにフリオニールは学校にいた。受付の手伝いをやらされて、新入生に渡すパンフレットだの保護者向けのガイダンスだのが詰まった箱を開けていたはずだ。
「いいかげん、どこで会ったか教えてくれないか」
「うーん、訊き方に誠意がない。減点っす」
「何点だ」
「にせんろっぴゃくきゅうじゅうななてん」
「適当だな」
「テキトーっす」
 道路へ上がる階段に、ティーダが先に足をかける。段を登ったことで目線の高さが合った。
「講堂に行く渡り廊下って、二箇所あるだろ」
「ああ」
「その、受付してなかった方。奥の方の渡り廊下」
「……ああ!」
 言われて、霧が晴れるように一気に記憶が蘇った。


 受付の後ろに積んであったパンフレットの箱がどうやら足りない、と気づいたのは、運営委員の女子だった。新入生たちの列は引きも切らず、今のうちに探しに行ってくれないかと、お人好しのフリオニールに白羽の矢が立ったのはいつものことだ。心当たりの場所は講堂のステージ裏と聞いて、小走りに受付を離れた。
 ステージ裏の物置に行くには、奥の渡り廊下から入らなくてはならない。急ぐフリオニールは、薄暗く人気のないそこに人影を見つけた。金髪の少年を、何人かの生徒が取り囲んでいる。
 どことなく嫌な感じを覚えて、フリオニールはわざと足音を立てた。それを耳ざとく聞きつけたらしい連中がばたばたと走り去り、残されたのは金髪だけだ。ややオーバーサイズの学生服を着て、あどけない顔を顰めている。
「……どうかしたのか」
「なんでもないっす」
 ぷいと目を逸らされて、余計な手出しはしない方が良さそうだと思った。そのまま通り抜けようとするフリオニールの背中に、入学式の受付ってどっちですか、と声が投げられる。あっちだ、と振り向きざまに指さすと、あざっす、と言い残した少年は走り去った。
 パンフレットの収まった箱を抱えて受付に戻った時には、彼はすでに中に入った後だったようだ。もうすぐ開式しちゃう、と慌てる受付の生徒たちに混ざって手を動かすうちに、さっき見たもののことはすっかり忘れてしまった。


「あの時の、おまえだったのか!」
「うわー、それ演技でやってたらオスカー取れるぜ」
「演技じゃない、そうか……あの時か……」
 何かしら因縁でもつけられていたのだろうティーダを、フリオニールは期せずして救ったわけだ。まるで覚えていなかった、どうして忘れていたのだろう。
 クラスメイトたちとの雑談でティーダの存在を知って、教室を移動する時にあれがそうだよと教えられて、でもその時に入学式の日に会った少年と彼を結びつけることができなかった。ただ、賑やかそうなやつだな、と思っただけだ。きっと知り合いになんかならないだろう、とも。
 そういう意味では、フリオニールは一貫してティーダに無関心だった。ずぶ濡れの彼に声をかけられるまで。
「ま、そういうとこがおれにはよかったんだけどさ」
「そうなのか?」
「変なフィルターなしでおれのこと見ててくれただろ」
 それが嬉しかった、と言いながら階段を登る彼の手を、フリオニールはそっと掴んだ。あの雨の日と同じように。




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