ミスター・ヴァーティゴ – 1

 

 ティーダは死に取り憑かれている。

 モニタ越しに見る空には色がない。画面の真ん中を向こう側まで伸びて行くワイヤロープが揺れる。縄の行く先は何階建てかも分からない高層ビルだ。インカムからはびょうびょうと吹き荒れる風の音と、密やかなティーダの呼吸だけが聞こえてくる。フリオニールは画面から目を離し、空を仰いだ。
 目尻の吊り上がった瞳をすいと細めて目を凝らす。150メートル上にティーダがいる。ここザナルカンドでも一際高いふたつのビルの間を、彼はこれから綱渡りするのだ。命綱なしで。
『——フリオニール、見えるか?』
 鼓膜に直接ティーダの声が響く。フリオニールはインカムを押さえて視線をモニタに戻した。
「ああ、見える。今おまえが見ているもの、全て」
 ビル群、ワイヤロープ、脱色された空、視界の隅に揺れるのはバランスを取るための撓る棒だろう。この高さでは飛ぶ鳥もいない。ティーダの額のウェアラブルカメラは、彼の視界をトレースして寸分の遅れなくフリオニールの手元に届けてくれる。
 モニタの映像がくるりと回って、ティーダが下を見たことがわかる。十数メートル下に張られた安全ネット——こんなもの要らない、と毎回拗ねるティーダを宥めすかすのはフリオニールの仕事のひとつだ——越しに、芥子粒のような群衆。そのうちの一粒がフリオニールだ。耳元でティーダが笑った。
『おれからはフリオニール、見えないけど』
「俺はここにいる、ティーダ」
『知ってる』
「おまえをちゃんと見てるよ」
『知ってる』
 すう、と息を吸ったのは、ティーダだったか、フリオニールだったか。
『おれ、行くよ』
「ああ、行ってこい」
 フリオニールは固唾を呑んで様子を伺う運営スタッフに向けて片手を挙げた。

 

 ティーダは死に取り憑かれている。
 高層ビルの綱渡り、絶壁のフリークライミング、超超高層からのスカイダイビング、エアタンクなしでのディープダイブ、道なき山道のモトクロス、エトセトラエトセトラ。肩書き上はエクストリーム・スポーツ・プレイヤーであるティーダは、その実スポーツなどしていない。少しでもリスクの高い場所で、より危ない競技を選び、まるで近所のコンビニにでも出掛けるように最初の一歩を踏み出す。
 それを見届けるのがフリオニールの務めだった。



「フリオニール!」
 ビルのエントランスで待つフリオニールに、満面の笑顔のティーダが飛びついてくる。その後ろからは興奮冷めやらぬといった風情のスタッフやスポンサーたちがついてきた。
 壁に預けていた背を起こして、飛びついてくるティーダを抱きとめてやる。こうしていれば、元気のいい犬と扱い方は大して変わらない。つまり、頭や背をがしがし撫でて言ってやればいいのだ、よくやったと。
「大成功だな、ティーダ」
「おれがしくじるわけないっしょ?知ってるくせに」
「ああ、知ってた」
 腕の中のティーダの身体はまだ熱く火照っている。丈の長いウィンドブレイカーに隠れた下肢を太腿に押し付けられて、フリオニールは苦笑した。低めた声を落とす。
「ティーダ、ステイだ」
「だって」
「ここをどこだと思ってるんだ、おまえは」
「ちぇ」
 ティーダさん、と背後から呼ばれて、彼は見事な余所行きの愛想笑いで振り返った。プロジェクトの成功を殊の外喜んでいるのは今回のスポンサーとなったエナジードリンクメーカーの社員だ。かっこよかったです、感動しちゃいました、そんなありきたりな賛辞に応えるティーダを眺める。こういう時の彼の笑顔は苦手だった。
「よかったら打ち上げの席を用意してるんですが」
 広報部の若手のホープだという感じのいい青年がそう言ってティーダを誘うが、本日のヒーローはあっけらかんと首を振った。
「申し訳ないっすけど、ほかの調整があるんで」
 すみません、と軽く頭を下げるティーダの手に、せめてもとスポンサーメーカーの飲料がどさりと押し付けられる。フリオニールは横から手を出してそのほとんどを引き受けてやった。
「それじゃ、おれ、これで失礼するっす」
 これからも応援よろしくお願いしまーす、と朗らかな声を上げて、ティーダが出口に向かった。フリオニールのジャケットの裾を握りしめて。



 ティーダを一目見ようと群れをなす人々で溢れ返る正面エントランスを避けて、スタッフの案内で裏口から地下駐車場に回る。停めてあった車に乗り込んで、ティーダは深く息を吐いた。エンジンをかけるフリオニールに手を伸ばす。
「なあ」
「我慢しろ」
「むり」
「部屋に戻ったら好きにしていいから」
「好きにしていいって、フリオニール、女の子みたいだな」
「そういうこと言うとほったらかすぞ」
「えーそんなんむり、マジでむり、耐えられない」
 なーなー、とうるさいティーダに辟易して、フリオニールは一度締めたシートベルトを外した。素早く辺りに視線を走らせ、見当たる範囲に人がいないことを確かめる。監視カメラはあるだろうが、やむを得まい。
「ほら、ティーダ」
 上体をそちらに向けてやるが早いか、ティーダの唇がフリオニールのそれにぶつかった。次の瞬間には舌がぬるりと這って、フリオニールは苦笑する。まったく我慢のきかない駄犬もいいところだ。それが愛おしくてならない自分もたいがいだが。
「んぅ」
 閉じたままのフリオニールの唇を、不満げに呻いたティーダの前歯が齧る。こら、と窘めて、伸ばされる舌を返り討ちにしてやった。
 嬉々として潜り込んでくるそれを自分のもので手繰り寄せて、ぐちゅぐちゅとはしたない音を立てる。指を金の髪に潜り込ませて掻き混ぜてやれば、腕の中の身体がひくりと震えた。
 歯列をぞろりと舐められて、フリオニールも腰に重い甘さを覚える。開けたままの目で見れば、ティーダも海の色をした瞳でこちらを見つめていた。



 パフォーマンスを終えたティーダはいつでもこうしてひとの体温を求める。死ぬぎりぎりの境界線を渡ってきた昂りが抑えられないのだろうことは想像に難くない。
 問題はそれが手当たり次第だということで、だからフリオニールはいつでも現場に立ち会って一番に迎えてやらなければならないのだ。ティーダが外向きの顔を取り繕って我慢していられるのは三十分がせいぜいといったところだった。
 熔岩のようにどろりとした欲を隠しもしない目を間近にして、貪り合うようなくちづけを交わしながらフリオニールは初めて彼を抱いたときのことを思い出す。
 おれを独りにしないでよ、と強請る声。あんたじゃないなら他の人を探すけど、とあけすけに翻る言葉に、はいそうですかと頷くわけにはいかないほどには、その時のフリオニールはすでにティーダに魅了されていた。



 がじ、と舌に歯を立てられる。
「何考えてんの?」
「おまえのことだ」
「嘘くせー」
 ふん、と鼻を鳴らしたティーダが身を離し、シートに背を投げ出す。
「おまえ、外でこういうことすんの嫌いだよな」
「嫌いというか、落ち着かないんだ」
「へたれー、へたれにーる」
「普通の感覚だと思うが」
 この場は解放されたと見て、車を発進させる。平凡だがメンテナンスの行き届いたレンタカーは、不埒な用事で待たされたことに文句も言わず、滑らかに走り出した。



 ザナルカンドはティーダの故郷だが、彼は決まった住居を持たない。パフォーマンスの合間のオフも、世界中のあちこちでトレーニングだと言って動き回っている。先週まではコスモキャニオンで延々と岩肌を登ったり降りたりしていた。
 そういった場所は自然がそのままに残されているためパフォーマンスやトレーニングにうってつけだが、おおよその場合、先住民の文化保護のために近現代文明を持ち込むことを禁じられている。木と布で組み上げたテントに寝起きして、ライターはおろかマッチも持ち込めないので石を打って火を熾し、水は川まで汲みに行く。これはこれで趣がないでもないが、不便なことは確かだった。
 そういう流浪の生活を快適に整えてやるのも、パートナーであるフリオニールの仕事だ。
 今回のスポンサーが提供してくれたティーダの仮住まいは、市街地の中心部にある一流ホテルだった。その高層階、いわゆるスイートルームにはリビングと寝室にキッチンとダイニング、さらにプライベートのトレーニングルームまで付いている。
 一般庶民の出であるフリオニールは恐縮を通り越してげんなりしてしまうが、半歩前を歩くティーダにはまるで気負ったところがない。ティーダの手の中でカードキーがくるりと回転した。鼻歌などうたって上機嫌だ。

「あーあ、コスモキャニオンはよかったなあ」
 スイートルーム直通のエレベーターに乗り込んで、ティーダが溜息をつく。あそこにはテレビカメラもレコーダーも写真機も持ち込めないので、マスコミが来ないのだ。その点に関してはフリオニールも同意見だった。
「満天の星空見ながらヤるの、すげーよかったし」
 ……天井の隅にあるカメラが音声を拾っていないことを祈るばかりだ。
「うるさいよな、ここ」
 エレベーターはぐんぐんと上に向かう。軽い浮遊感の中でフリオニールは小さく笑った。
「こういう賑やかなところの方が好きなのかと思ってたが」
 ぽーん、と音がして扉が開く。ティーダはやれやれと肩をすくめてみせた。
「へたれにーる」
「……」
「こんな街じゃ、ひとの目がうるさくて集中できないの、どこの誰だよ?」
「そう言うな」
「おれは気にしない」
「俺は俺を気にしてるんじゃない」
「わぁかってるよ」
 フリオニールの後ろでオートロックが掛かる小さな音がする。その場で飛びついてくるかと身構えたが、ティーダはすたすたと寝室に向かった。
「有名人のおれのこと気にしてくれてんだろ、へたれにーるは」
「分かってるならへたれはやめてくれ」
 寝室の大きく切られた窓の外はまだ明るい。夕方というにも少し早い時間だが、ふたりにとっての今日は終わったも同然だ。
 どん、と肩を押されて、フリオニールはベッドの端に腰を落とす。その目の前、寝室の扉を後ろ手に閉めたティーダが、今日一番あどけない顔で笑った。
「じゃあ、へたれじゃないとこ、見せてくれよ」

 
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