明日、世界が滅ぶということを、おそらくリーブだけが知っている。
少しばかり肌寒いことに気づいて、リーブはキッチンの窓を閉めた。ほんの数日前までは暑くてたまらなかったというのに、季節というのはこちらの気分などお構いなしにやって来ては去ってゆく。そういえば昨晩も、シャワーを浴びながらそんなことを思った気がする。適温だと思っていた湯がどうにも物足りなく感じて、少しだけ温度を上げたのだった。
思い返せば毎年同じような時季に同じことをしている。まだそんなに暑くなる時季ではないからと使い惜しんだミントの入浴剤は使いどきを逃してストッカーの隅を定位置にしたままだし、まだ寒いというには早すぎるからと上着を持たずに出かけた朝の街路で身を縮め、オフィスからの帰りがけに寄った食料品店で見かけた果実は早生の出物かと思っていたが実はとっくに旬が来ていた。
今に始まった話ではない。リーブはこうしていつでも季節を捕まえ損ねて、ある一瞬にいきなり、自分が置いてきぼりになっていることに気づくのだ。そのうち食べようと先送りにした自然の甘味はあっという間に店頭から姿を消し、薄いシャツ一枚で虚勢を張って通勤路を早歩きし、毎日浴びるシャワーの湯温さえ上手く調節できず、毎晩ばつの悪い思いをしている。
ずっとそうだった。年齢を重ねてオフィス勤務が長くなったからとか、仕事があまりに忙しすぎるからとか、そんな理由は山とある言い訳のほんの一部でしかない。つまるところ、思い切りが悪いのだ。いろいろなものごとの好機というものを掴み損ねて、あとになってからああすべきだった、こうすればよかった、もっと早くに手を打っておけば、と思い悩むのは、考えてみればもう何年も昔からのリーブの悪癖だった。
自らの欠点に目を瞑って悔恨を抱えて生き続けるのも、それはひとつの選択肢として存在するものなのだろうと思う。多分に自己弁護が含まれているとはいえ、日々の生活の中でいちいち己と向き合いつづけるというのはあまり健康的ではない、というのもリーブの信条であるからだ。自責が改善に淀みなくつながってゆくのならまだしも、そうするにもそれなりのエネルギーが要る。つながらなければただの自罰的思考で、積み重なった反省はいともたやすく自己嫌悪にかたちを変える。己を嫌いながら生きてゆくのは、単純に楽しくない。
もっとも、とリーブは考える。もっとも、己に向き合い続けるのが好きなたぐいもいる。そうしたひとびとは飽きもせず自分自身との対話を重ね、何かを変えたり、あるいは変えないことを決意したりする。たいへん結構なことだ。尊敬に値する。こういう手合いと話をするのがリーブは好きだ。彼らの思考は自己の海に沈み、深層心理を通過し、やがて茫漠たる世界の広がりに溶けていくように感じられる。卑小なる個はやがて大いなる全と合致する、そういう哲学はウータイにも存在すると聞いたことがあるが、啓典などなくともヒトはいずれこの境地に至るのだというところが実に興味深い。
その「興味深い」存在の典型例は、もう数十分のうちにドアベルを鳴らすだろう。彼——ヴィンセントとの再会は実に十三か月ぶりだ。今回の旅は少し長かった。風まかせのきままな旅といえば気楽にも聞こえるが、向こうは向こうで行く先々に都合やしがらみがあるらしい。出て行けば行ったでいちおう連絡を寄越すことだけは忘れないのはありがたいが、彼からの連絡を受けるタイミングでリーブがやたらと多忙だったのも何かの巡り合わせだろうか。向こうが滞在している地方で調べてもらいたいものがあったり、探してもらいたい情報があったりもしたものだから、一年を超える不在の間もふたりをつなぐものが途切れたわけではなかったのが幸いだった。
リーブは肉を煮込んでいる鍋をひとつ掻き回してから、もう一度窓の外を見た。日没がずいぶんと早くなったのに気づく。まだ明るいと思っていた空はあっという間に夜色に染まり、息を呑むほど巨大な満月が水平線から離陸するところだった。
ヴィンセントが長旅から戻ってくる日は、特段の理由がなければリーブの手料理で迎えるのがいつの頃からか習慣となっていた。これといった訓練を積んだわけでもないが凝り性なのがいい方向に発揮されたリーブの料理は、素人らしさを残しつつも身近なひとへの饗応としては悪くない出来だ。決め手はいい調味料を惜しみなく使うことであって、ただいま煮込まれている肉もその原則に従って調理されている。ただ、そのまま呑んでもじゅうぶん美味いビールをこれでもかと注ぐのには未だに勇気が要るものだ。
前菜のサラダ代わりのカルパッチョは、馴染みの魚屋に捌くところまで任せた。リーブはマリネ液を作って、生野菜と一緒に冷やすくらいしかしていない。あれこれと手を加えようとすればするほど不味くなってしまうのが海鮮料理だ。肉のビール煮は焦がしさえしなければそれなりのものができる。付け合わせの根菜類は軽く塩をしてオーブンでロースト中、しかしコース料理を振る舞いたいわけではないので、ピクルスとサラミとパテの盛り合わせも用意した。パテに合わせるクラッカーは以前ヴィンセントが妙に気に入っていたものを準備したが、実はリーブにとっては少し粉っぽすぎて好みではない。彼に食べきってもらわなければ困るのだが——と考えたところで、不意に笑いが漏れた。
いや、食べきってもらう必要などないのだ。どのみち、世界は滅びるのだから。
明日、この世界は滅びる。そのことをリーブは知っていて、恐らくリーブ以外の誰もがそれを知らない。
世界が滅ぶと知った時、当然のことながらリーブは大いに狼狽したものだ。あれは確か、まだ夏の盛りの頃だった。油を敷いた鉄鍋でじわじわと煎られるような暑さの昼下がり、リーブは世界再生機構本部の廊下を歩いていた。それなりに効かせた空調をも侵食する熱気にうんざりしながら滲む汗を拭いて、業務用のタブレットを掴み直す。すれ違いざまに挨拶してくれる部下たちに片手を挙げて返しながら、果たしていま自分は平然とした顔を作れているだろうかと、どちらかといえばそちらの方が心配だった。
その日の夜、自宅で冷えたビールを煽りながら、リーブは考えた。どうやら世界は滅ぶらしい。そのことを知っているのもどうやら自分だけで、しかも滅亡を阻むことができるのも自分だけだ。瓶の半分ほどを干して、参ったな、と思う。
参ったな、どうしてこんなことになってしまったんだ。世界は滅ぶ。あと一月ほどで、その時が訪れる。それを避けるために打つ手はあるかと午後いっぱいを使って調べた限りでは、唯一の有効打となり得る手段の実現にはリーブの命と数十兆ギルの投資が必要になりそうだった。正確に言えば、ひとつ以上の知的生命体の命と、最低でも十八兆ギルの投資だ。期限は一か月。「ひとつ以上の知的生命体」にリーブを充てるのはともかくとして、このご時世で十八兆以上のカネを動かすのはほとんど不可能に近い。仮に資金調達が可能であったとしても(実際のところ、ある程度の金額ならば世界再生機構単独で賄える程度の内部留保はある。足りない分はルーファウスにでも協力させればなんとかなる)それを使って問題解決の手段を完成させるのには、ひと月では足りないだろう。
リーブはもう一本ビールを開けて、業務用と私用のタブレットをダイニングテーブルに広げた。犠牲となる命をいくらか増やすことで、手段の簡素化が可能かどうかを検討するのだ。この際、資金総額はどうなってもいい。世界を救うヒーローになれるとでも称すれば志願する者もいるだろう。そうして夜を徹しても道筋は見えず、さりとてこの段階で世間を騒がせるには忍びなく——なにしろ、リーブ自身「世界の滅亡」にどれほどのリアリティがあるのか自信が持てなかったのだ。狂人の戯言と言われればそこまでだった——リーブはそれから五日間を検討に費やした。
その結果、導き出されたのは、「志願兵」を増やしたところでリードタイムの短縮には繋がらない、という結論だった。最大の懸念が所要時間であった以上、これでは問題を解決することはできない。ひとつ以上の知的生命体の命と、十八兆ギルの投資という絵図は動かないままだった。さらに一昼夜をかけた結果、解決手段の実用に足る開発までの所要時間は最低でも二か月半で、これはいかなる努力をもってしても短縮されないということがわかった。
最大の障壁が物理法則である以上、いかに優れた研究者や技術者が手を尽くしたところで限界はある。かつては情報分野の技術者であり、現在は組織を運営する実務者であるリーブは精神論に走ることをよしとできなかった。
クラウドたちに助けを求めるべきだろうか。彼らは過去に何度も世界を救っている。ならば今回も、と考えるのはある意味自然なことだった。しかし、リーブが彼らに連絡を取ることはなかった。どうにもその気が起こらなかった。理由を紐解いてみれば、恐らくリーブは一種の抑鬱状態にあったのだろう。端的に言えば疲れていた。己の器に余る問題を処理しかねて、知己の助力を求めるほどの気力もなかったのだ。
他の誰かが声を上げたのならば、リーブはためらうことなく動いただろう。それがクラウドたちであれ、赤の他人であれ、知ってしまったのであれば手を尽くす、そのような人物がリーブであると誰もが考えるだろうし、実際そのように自己規定してきた。しかし今回ばかりはそう出来なかった。リーブはほとんど放心状態のまま、暑さと足並みを揃えるようにして欠けてゆく月を眺めていた。
平日にしては過ぎた酒量に自己嫌悪に陥り始めた頃、リーブの端末が一通のメッセージを受信した。ぽん、とスクリーンにポップしたアイコンは名前の頭文字で代替される初期アイコンのまま、UDフォントの描くVの切れ上がった直線がリーブを一気に現実に引き戻した。
『久しぶりにそちらに戻ることにした。来月の十日の夜に到着する予定だ』
取引先相手でももう少し愛想のいいだろう無味乾燥なメッセージが、それでもリーブの唇を綻ばせた。それではいつも通り、夕食を用意して待っています。そう返信してから、ヴィンセントの帰還する日が世界滅亡の前夜であることに思い至り、そうしてリーブは全てを放棄した。
あれからさらに三週間ほどが経ち、一度姿を消した月はまた満ちた。世界が滅ぶ間際であっても月は規則正しく満ち欠けするのだということが妙におかしい。
リーブは鍋の火を止めた。これ以上加熱しては焦げてしまう。ヴィンセントはまだ来ない。手持ち無沙汰になって、広くもないキッチンをうろうろとした挙句、ピクルスなどを皿に盛ることにした。乾いてしまうほどの時間はかかるまい。
メインに合わせて用意した赤ワインは抜栓を済ませてある。昨日の帰りがけに寄った酒屋で買った一本は、日常使いするにはやや上等すぎるが、さりとて目の玉が飛び出るほど高級であるわけでもない、ちょうどいいレベルだ。ヴィンセントが気に入ってくれるといいのだが。
こまごまとした皿を用意し、予想より硬かったピクルスの瓶をこじ開けて、リーブはダイニングに視線を向けた。花など飾る習慣はないから、これといって華やぎのない空間だ。正面の壁にはもはや風景と一体化してしまった絵画のレプリカと時計、大きめの本棚兼レコード棚の横にはプレイヤー、その横からバルコニーに出る窓。あまり使わないテレビの黒く沈黙した液晶には、食事を終えてから共にグラスを傾ける定位置のソファセットが反射している。それなりに洒落て、それなりに落ち着いて、それなりに退屈ないつもの光景だ。
せっかくだから、派手に飾ればよかっただろうか。ばかみたいに大きな花束を用意して、壁には子供の誕生日のようなガーランドを吊り下げて、メタリックな紙の三角帽をそれぞれかぶってクラッカーを鳴らすのだ。重低音の効いたダンスミュージックばかりのプレイリストを作って、ビールやスパークリングワインやテキーラを次々と開ける。チープなスナック菓子とデリバリーのジャンクフードを広げて、油でべたべたの指で彼と踊ってみようか。こぼした酒でびしゃびしゃの床で滑って、今日ばかりは窓も開けずに煙草をふかすのも悪くない。ティーンエイジのような乱痴気騒ぎに飽きたら、服を床に脱ぎ捨てて、ふたりでキスをしながらでたらめな温度のシャワーを浴びて、髪も乾かさず身体も拭かずベッドになだれ込んで、コンドームを使わずにセックスする。元気のいいのを二、三回して、そのあとはだらだらと繋がって、たぶん射精できずにそのまま眠りに落ちる。
明け方に不快感で目を覚ましたら、今度は交代でシャワーを浴び直して、散歩に行こう。近所のパン屋で朝食を買って、帰ってきたら甘いカフェオレを淹れて、ふたりでパンを食べる。もしそれでも世界が滅びなかったら、どうしようか。海岸線をドライブしてもいいけれど、ヴィンセントは疲れているだろうから家でゆっくりするのもいい。明日の夕焼けを見ることはできるだろうか。今日よりほんの少しだけ欠けた月を眺めることは。ああ、でもそうするならめちゃくちゃになったリビングを片付けなくてはならないから、それは少し面倒だ。やっぱり寝室にこもって、浅い眠りと軽いセックスを繰り返すのがいいかもしれない。そうしよう。きっとそれが、一番正しい世界滅亡当日の過ごし方だ。
——ほんとうは。リーブは指についたピクルス液を無意識に舐め取りながら思う。本当は、そんなことをしている場合ではないのだろう。世界が滅ぶのを知っていて、それでも何もせずに酒を呑んで飯を食って他愛のない会話を楽しんでセックスして眠るなんて、そんなことはきっと許されない。立ち向かうべきだ。抗うべきだ。知ってしまった以上、解決する術に思い至った以上、最後まで足掻くのが知り得た者の責任だ。これからリーブとヴィンセントがそうするような平凡な夜が明日からも続くと疑いもしない人々のために、戦うべきだ。
わかっている。リーブの信念は理解している。立て。声を上げろ。考えろ。抵抗しろ。諦めるな。この一月のあいだ、他の誰でもないリーブ自身が己にそう要請し続けてきた。けれどもう駄目だ。もう遅すぎる。世界が滅ぶまで、どう長く見積もってもあと三十時間足らずだ。今更何ができるだろう。何をすべきだろう。明日世界が滅ぶのですと、明後日の平穏を信じる人々に伝えるのが本当になすべきことなのだろうか。そうして世界を恐慌の底に叩き落として、いったい誰が救われるというのだろう。
どのみち、全て遅過ぎたのだ。初めから。リーブが事実を知ったのが三か月前であればよかった。解決策を実現するのに必要な期間がもっと短ければよかった。リーブ以外の誰かも明日世界が滅ぶと知っていればよかった。——ヴィンセントが帰ってくるのが今日でなければ、あるいは。
すべて仮定の話だ。実現しなかった「たとえば」の集積に意味はない。明日世界が滅ぶのは誰のせいでもない。物理法則のせいでも、リーブ以外の誰かのせいでも、ましてやヴィンセントのせいなどではない。強いて言えば全てを諦めてしまった三週間前のリーブが悪いのだろうが、リーブとて何かができた訳でもないのだから仕方がない。恨まれることくらいは覚悟するが、それだけだ。
今頃、その辺りを歩いている者に訊いてみればいい。もし一か月後に世界が滅ぶとして、けれどそれを阻む手立てが用意できないとして、あなたはどうしますかと。きっとほとんどが、それならばできるだけ安寧に過ごすと答えるだろう。いつもと変わらぬ毎日を繰り返し、その日を迎えるだろうと。無法行為に走る者もいくらかはいるだろうが、いずれ最後の日は穏やかな夜を望むに違いない。
それをリーブが望んではいけないというのなら、そのような世界こそ滅びてしまえばいいのだ。
思えば、この世界は何度も破滅の危機に瀕してきた。神羅の愚策によってライフストリームが枯れかけ、ウェポンが襲来し、メテオの直撃をかろうじて食い止め、星痕症候群に冒され、ディープグラウンドから解き放たれたツヴィエートの暴走、そしてオメガとの闘い。リーブが知り得ただけでもこれだけの契機があり、そのいずれもが破滅の回避に至ったのはクラウドやヴィンセントといった「英雄」たちの功績に他ならない。そして今、また次の滅びがやってきた。
ヴィンセントたちの覚悟や献身を軽んじるわけではないが、もう限界なのだろうと思う。幾度となく滅びに直面する世界は、きっともう耐えられない。万物があるべき姿に帰着するならば、この滅びも避け難いものなのではなく、もはや避けるべきではないものなのだ。あるいは、世界そのものが滅びたがっているのかもしれない。であるならば、リーブひとりが抗おうとするなど、無駄を通り越して罪に等しいだろう。
そのようにして、リーブは考えることをやめた。それをひとつの覚悟と呼ぶならば、そうすることもできるだろう。この世界を再び立て直し、誰もが平穏に人生を謳歌する世界を取り戻すべく奔走してきたこの男にとっては、己の安息を選び取ることこそ何よりも決意の必要なことなのだから。
ドアベルが鳴る。
合鍵を渡していても毎回ヴィンセントがドアベルを鳴らすのは、かつては一線を引かれているようで腹立たしくもあった。ここは彼が帰ってくる場所ではなく、あくまでも一時の間借りに過ぎないのだと暗黙のうちに断定されているように感じていたのだ。けれど今は違う。つまるところ、ドアがリーブによって開かれるのを待つのがヴィンセントも好きなのだ。なにしろ、エントランスのゲートは彼が自分で合鍵を使って通り抜けるのだから。ならば何度でも開けてやろう。おかえりなさい、と出迎えてやることでヴィンセントの甘えを受け止めてやれるのなら、キッチンから玄関までの距離もいっそ楽しい。
「おかえりなさい、ヴィンセント」
「ああ、久しぶりだなリーブ」
「そりゃもう、誰かさんがいっこうに帰ってこないものですから」
十三か月分の嫌味を早々に放出してしまって、リーブはヴィンセントの荷物を受け取った。この程度の荷物でよくも何か月も放浪できるものだと毎度感嘆するほど、ヴィンセントは持ち物が少ない。今も大ぶりなザックひとつをリーブに渡してしまえば、あとは手土産らしい洒落た紙袋だけだ。
「いい匂いがするな」
「でしょう。ちょっと奮発しましたよ、今日は」
「私をダシにしてたまの贅沢か」
「いいじゃないですか、あなたの好物を揃えましたから」
「光栄なことだ」
ややこしいブーツを脱いだヴィンセントをダイニングに導くために取った手は、振り払われなかった。それだけでリーブはひどく幸せな気分になる。浮かれた心を隠す気にもならず、今夜のメニューを披露した。
「メインは牛肉のビール煮です。あとカルパッチョと、軽いつまみを」
「ああ、いいな。ワインは赤か」
「前菜に合わせて白もありますよ、両方開けてしまいましょうか」
ヴィンセントからいつものマントと手土産の袋を受け取った。中身を訊ねればゴンガガで買い求めたスパイスミックスと、コンドルフォートの辺りで採れる果物を使ったコンフィチュールだという。
「へえ、コンドルフォートで。あの辺りは自然も豊かですからね」
「どうやらそういった方向へ売り出したいらしい。他にも花を使った石鹸だのアロマオイルだのを売っていた」
「ははあ、それはそれは」
「……局長どののご興味には合わなかったか」
「いやいやとんでもない、あとでゆっくり聞かせてください」
そうだ。明日滅びる世界のことなどどうでもいいが、ヴィンセントの話ならばいくらでも聞きたい。リーブはヴィンセントの話を聞くのが好きだ。しかつめらしい顔がふたりきりの気安さで緩み、口元を綻ばせた横顔を見るのが好きだ。大理石から切り出したようにまっすぐな鼻筋が声と共にひくひくと動くのが好きだ。赤瑪瑙よりも透明度が高く、ルビーよりも底知れぬ輝きを放つ双眸がとろりと溶ける瞬間が好きだ。薄くかさついた唇が酒精に艶めくのが好きだ。真鍮のように深くなめらかな声が好きだ。それら全てを己の両腕に閉じ込めてしまえるこの時間が、甘んじて閉じ込められることを許すヴィンセントが、愛おしくてたまらない。
行儀よく手洗いうがいを済ませたヴィンセントに、カウンター越しにグラスや皿を渡す。白と赤それぞれのワインに合わせたグラス、前菜やつまみの大皿にそれぞれの取り皿、カトラリー一式、赤ワインのボトルと白ワイン用のクーラーを並べれば、ダイニングテーブルはふたりの晩餐とは思えぬほどに賑やかになった。
「それでは、十三か月ぶりの再会を祝して乾杯といきましょうか」
「……リーブ」
中途半端に掲げたグラス、薄い飴色の液体の向こうでヴィンセントが奇妙な笑みを浮かべた。どうしたのかと片眉を上げるリーブの目の前で、彼はわずかに逡巡したようだった。
「どうしましたか、ヴィンセント。気分でも?」
「いや、おまえが……」
ヴィンセントが何かを言い淀むのはそう珍しいことではない。リーブはそのままの姿勢で続く言葉を待ったが、彼の恋人は結局、何も言わないことに決めたようだった。
「——よそう。腹が減った」
「いいことです。では、乾杯」
「ああ、乾杯」
そうしてふたりの晩餐が始まった。グラスを傾け、丁寧に用意された食事を楽しみ、腹が満ちたらソファに移動して酒の続きを楽しむ。ワインのボトルが空けば蒸留酒に移って、ピクルスやパテをつまみながらアンビエントを流して、ヴィンセントの旅の話を聞く。酩酊して気が向いたら使い古されたワルツを踊るかもしれない。きっとシャワーは別々に浴びて、まだストックのあるコンドームを使って荒々しくも怠惰でもないセックスをする。シーツを交換してから眠りについて、明日のことは明日考えよう。
「今夜の月はずいぶんと立派だな。見たか」
「ええ、さっきはそこの窓から見えたんですよ。もう昇ってしまったから寝室の方がよく見えるでしょうね」
「なるほどな、そうやってベッドに連れ込む作戦か」
「とんでもない」
ひどい言いがかりに笑う。そんなもったいないことはできない。
「せっかくあなたが帰ってきたんです。話を聞かせてください。幸い、夜も長くなってきたことですから」
そう言って互いのグラスを満たす。月光と同じ色をした液体がヴィンセントの唇に吸い込まれて、くちづけたい衝動を押し殺すのに必死だった。
明日、世界が滅ぶということを、リーブは知っている。
彼だけが知っているのか確かめることなく、明日、世界は滅ぶ。
満月よりほんの少しだけ欠けた月を、ふたりが見ることはない。