coat

【coat】コート、外套。
※ハッピー異界設定

 玄関の扉を開けると、すでに日が暮れ始めていた。足下から突き上げるような冷気に包まれて、ちらりと空を見る。空気は乾いて張り詰めているが、今夜あたり雪が降るのかもしれない。吐いた息が白く拡散した。
「ずいぶんと冷えるね」
 背後でブラスカが手を擦り合わせた。今日は、この男の書斎の片付けに駆り出されていたのだ。何かに興味を惹かれれば脇見もせずに研究に没頭する悪癖は、異界に来てから悪化したようだった。一体何の研究をしているのかアーロンには見当もつかないし、興味もないのだが、ともあれ比喩ではなく山と積まれた書物で足の踏み場もない有様に、奥方が業を煮やしてアーロンを召集したというわけだ。まさか本棚まで組み立てる羽目になるとは思っていなかったが。
「やっぱりご飯食べて行って頂戴」
「そうだよアーロン、いい酒もあるよ」
 そう引き留める夫妻に、アーロンは首を振った。申し出はありがたいが、今夜はそういう気分ではなかった。
 軽く手を挙げて、ブラスカ邸を辞する。すうと吸い込んだ息が清浄に冷え切って、視界が明瞭になった気がする。
 ロングコートのポケットから煙草を取り出して火を着けた。こういう空気は一服を美味くするものだ。労働の後ならば、なおさらのこと。

 海の音を聴きながら歩く。夕日は先刻、水平線に沈んだばかりだ。残照が水面を焼き、西の空が昼と夜のあわいで美しいグラデーションが滲む。街の電燈が騒ぎ出すまでのわずかな時間に許された色彩に、ふと子供の声が蘇った。
 ――アーロン、夜は真っ黒じゃないんだね。
 いつだったかの、同じような夕暮れだ。ボートハウスのデッキにぺたりと座り込んで、刻々と色を変えてゆく空と海をじっと見つめていた子供が、大発見だと目を輝かせてアーロンを振り返った。
 ――どういうことだ。
 ――だって、あの辺が紫だよ。見てよアーロン。
 細い指が力いっぱいに伸びて、水平線の上の辺りを指し示した。沈む日の放つ燃えるような赤が、上に行くほど滲む。薔薇の色見本のように緋から薄紅に溶け出して、降りてくる夜と混ざり合って淡い紫紺へと移行する。
 ――夜は暗いから真っ黒だと思ってたけど、ほんとうはそうじゃなかったんだ。夜は濃い青なんだね。
 そうでしょ、とアーロンを見上げて笑う子供が、斜陽の最後の煌めきよりも眩しかったことだけを覚えている。あの時、自分は何と返事をしたのだったか。

 吐き出した紫煙のたゆたう向こうに、見慣れた背中を見つけた。消波石のてっぺんに腰掛けて、重そうなブーツを履いた脚をぶらぶらと揺らしている。その真昼の太陽光線のような金の髪が、海から吹く風に弄ばれていた。
 少年はジャケットのポケットに両手を突っ込んで、落日と夜の帳が織りなす一瞬の色彩の乱舞を眺めている。
「……ティーダ」
 背後から彼の名前を呼ぶ。海風がひどく冷たい。びょう、と吹き付けるそれに、指に挟んだ煙草の先端から灰が散った。
「こんなところで何をしている」
「んー、アーロン来るかなって」
 相変わらずこちらを見ぬまま、ティーダが小さく笑う。同時に、肩を小さく震わせた。この親子は揃って厚着を嫌う。
「やっぱ来た」
「来なかったらどうするつもりだったんだ」
「考えてなかった」
 黄昏の幻燈はまだ続いている。ティーダはまだこちらを向かない。彼の吐く白い息が、後ろに立つアーロンの紫煙と混じり合って消えた。
「綺麗だよな」
「……おまえは昔からそうだな」
「うん、この時間が一番好き」
 少しだけ首を傾げて、顎を持ち上げたその視線は、生まれては消えてゆく全ての色を見逃すまいと瞬きひとつしなかった。彼の頭越しに海と空を眺めながら、アーロンは記憶の中の子供の声を覆い焼きする。

 あの頃は、と思い返す。無二の友たちに置いて逝かれ、得体の知れない箱庭のような世界で、アーロンは全てに倦んでいた。託された約束だけを頼りにして、死んだまま生き存える己がひどく無様だった。頼るものもなく、この手に縋るより他に選択肢のない哀れな子供の手を引いて彷徨うばかり。いずれこの子供を絶望の螺旋に引きずり込むのだと思うと、夜こそ虚しく輝くこの街に氾濫する光が、たまらなく疎ましかった。
 だから、この街でたったひとつの、人工のものではない光を愛でる子供の言葉に胸を突かれたのだ。
 ――夜は暗いから、真っ黒だと思ってたけど。
 閃光と享楽に溢れる夢のザナルカンドで、アーロンだけが明けない夜の只中にいた。太陽の名を受けた子供の手を握って、それでも色のない世界に幾度となく絶望していた。
 全ての色彩が死んだ真夜中の底に蹲る哀れな死人は、夜の空に色を見出だすこの子供に、確かに救われたのだ。ティーダは全てを救った。父を、ユウナを、スピラを。その彼が一番初めに、まだ彼の行く先に待ち受けるものを知らぬうちに救ったのは、アーロンだった。

 ふつり、と糸が切れるように空の色が沈んだ。海の向こうに駆けて行った太陽の残滓は、来たる夜に呑みこまれて眠りに就く。
「てか、さっむ」
「そんな薄着でいるからだ」
 呆れた溜息を吐きながら、煙草を携帯灰皿に揉み消す。ようやっと振り返ったティーダは、小言にいつものように唇を尖らせた。
「ちゃんと着てるって、ほらこれ、この間買ったやつ」
 どう? と腕を広げて見せる彼の上着は確かに見覚えがなかった。カーキの生地に、ポケットだのワッペンだのがごちゃごちゃとついているそれはアーロンの趣味には合わないが、ティーダは気に入っているのだろう。
「マフラーくらいしろ、もう冬だ」
「昼出たときはいらないと思ったんだよなあ」
 ジャケットに対する言及がなかったことを不満そうにしながら、ティーダがブロックから降りる。軽やかな着地と同時に、くしゅんと可愛らしいくしゃみをした。
「うー、さぶいさぶい」
 自らを抱くようにして両腕をさする彼が、上目遣いにこちらを見る。わざとらしく視線を外して、アーロンは辺りを見回した。
「誰もいないっすよ」
「……おまえはな、」
「冬のこんな時間に、海見るバカはおれらだけだって」
「おまえと一緒にするな、俺は帰ろうと」
「いーいーかーらー」
 行くぞ、と踵を返しかけるアーロンの腕を、ティーダが掴んだ。仕方なしに振り返ると、唇を尖らせて何かをねだる。アーロンは軽い頭痛を覚えてこめかみを押さえた。自分がこうもこの少年に甘いのは、どうにかならないのだろうか。
「……一分だ」
「ケチ。十分」
「おまえと揃って風邪を引くのはごめんだ」
「じゃあ五分」
「三分だ、それ以上はせんぞ」
 交渉成立、と破顔するティーダに重い重い溜息を吐いて、アーロンは自分のロングコートの前を開く。海風が飛び込んできて、首筋に鳥肌が立った。
 ティーダがいそいそと背を向けて、胸元に潜り込んでくる。失礼しまーす、などとおどけた声を出しながら、アーロンのコートの合わせを自分の首元で押さえた。
「煙草くさい」
「文句があるなら帰るか」
「うそうそ、冗談。あったけー」
「おまえもいつまで経っても子供体温だな」
 互いのぬくもりに甘えながら、もう一度水平線を辿る。すっかり夜の独擅場となったそこは、もう海と空の境が分からない。
 両腕をティーダの腹に回すと、上機嫌の少年がくすりと笑った。そういえば時間を数えるのを忘れていたと思い、気づかれないように微笑する。まあいいだろう、もう一度ティーダがくしゃみをしたら、帰ることにする。夕飯は何か温かいものにしてやろう。