彼女がその男を拾ったのは、本当にただの偶然だと、彼女は信じている。
ウォールマーケットはミッドガルもろとも吹き飛んだが、だからといって歓楽街がなくなるわけではない。あからさまな人身売買が大手を振って行われることこそなくなったものの、上品とは言えない飯や、悪酔いしやすい酒を売る店は勝手に集まり、エッジの端にちょっとしたコロニーを作っていた。
彼女もそのコロニーの住人だった。「場末の酒場」の例として辞書に載ってもいいくらいのうらぶれた酒場で、ウェイターと酌婦を混ぜっぱなしにしたような仕事をして糊口を凌いでいる。店のオーナーはひどい吝嗇家でバックヤードには空調のひとつもないが給金の払いだけはごまかされなかったし、客の酔っ払いどもは煩くて下品で図々しかったが、性的な嫌がらせも他愛のないものだと思い込もうとすればそのように見えてくる。そうする以外に彼女に何が出来たというのだろう。彼女は我が身を惨めに思うのは嫌だったし、尊厳や権利なんてものが生まれついて自分に備わっていると考えることもできなかった。つまり、他にどうしようもなかったのだ。腰や胸を狙って手を伸ばす男たち、投げつけられる卑猥な言葉や貶め言のたぐいに対して、いかに自分が「何も気にしていない」かを示すことでしか、胸を張る術を知らなかった。
だからその夜も彼女は、本当は怒りと呼ぶべき感情をぎゅうぎゅうに押さえつけて、ただ「クサクサする」と言い換えて、その自己欺瞞をこそ己の誇りと感じながら、間もなく夜の明ける空から逃げるように、フラットシューズの底を鳴らして歩いていた。仕事の間ずっと履いている七センチヒールのプラットフォームで歪んだ足指が痛まない日などない。三年前に買ってからほとんど毎日履いているフラットシューズは履き口がゆるんで、小石を蹴っ飛ばした拍子にすっぽ抜けてしまった。
「あっ、もう!」
靴が脱げたからといって、片足跳びで移動する体力も気力もない。彼女はためらうことなく裸足でアスファルトを踏んで、物陰に飛んでしまった靴を追った。
本当に偶然だ。だって、あの時、あの場所で靴を飛ばしてしまうだなんていったい誰が予測できるのだろう。ましてやその靴が、その方向に飛んでいくことなんて。ぜんぶ偶然なのだ——彼女がその男を拾ったのは。
「……やだ、ねえ、死んでる?」
彼女のフラットシューズから、レストランの大きなダストボックスを挟んで反対側。だらりと伸びた両脚に、彼女はひゃっ、と息を呑んだ。いかついブーツを履いた足、ポケットのたくさんついたカーゴパンツを纏った脚はまっすぐで長い。恐るおそる、ダストボックスの向こうを覗き込む。
「ちょっとあんた、生きてる? ねえったら」
おっかなびっくりの声に、しかし男はぴくりと動いて頭を持ち上げた。黒いまっすぐな横髪は顎の上で切り揃えられ、眉より少しだけ長い前髪の間から覗く瞳は、曇り空と同じ灰色だった。
彼女は男を自宅に連れて帰った。何しろ生ごみの臭いが耐えがたかったのだ。それに男が、腹が減った、などと言うのだから仕方がない。
男がどこぞに怪我でもしているのではないかと思ったが、そうではないようだ。ベッドとローテーブルを置けばそれだけでいっぱいになってしまう小さな部屋にたどり着くと、彼女はまず男をシャワールームに叩き込む。それからクローゼットの奥を漁って古い男物の服と下着を出して、玩具のような冷蔵庫からありったけの食材を改めた。肉野菜炒めがせいぜいだが、文句は言わせない。
キャベツの芯をフライパンに放り込むころ、男は浴室から出てきたようだった。彼女は油の跳ねる音に負けないように、少し声を張る。
「トイレの蓋の上に服出しといたから、それ着といて」
ああだかうんだか、そんなような声が返ってくる。ほどなくして姿を現した男に、ありものの服は合わなかったようだ。身幅は余っているのに、手足ははみ出してつんつるてん。彼女は居心地の悪そうな男を見やって、はは、と笑った。
「もう少し待ってて、すぐ出来るからね」
男はしばらく所在なさげにしていたが、己の居場所をローテーブルの端に定めたようだった。彼女より頭ひとつ分大きな身体をのっそりと引きずって動くさまは、図体のでかい野良犬のように見えた。
彼女は男に食事を与え、彼の汚れた服を洗濯機に突っ込んで自分もシャワーを済ませると、ひとまず寝むことにした。夜の仕事のために昼間は眠らなくてはならない。男は従順に皿を洗い、ローテーブルを壁際に寄せると毛足のへたれた絨毯に横たわってやはり眠ったようだった。
日が沈むころ彼女が目を覚ますと、男はベッドの足元に寄りかかってぼんやりしていた。貸し与えたスウェットは特にボトムスのサイズが合わないらしく、投げ出した両脚の脛の半分から先が剥き出しになっている。
「ねえ」
彼女の声に男が頭を動かす。ひと眠りで少しばかりすっきりした意識で見てみれば、男は大した美形だった。
「あたし、今日も仕事だから」
そろそろ出かけるけど、と言いかけて彼女は言い淀む。だからあんたも出て行って、というのがきっと正しい。そういえば名前も聞いていないこの男に、一宿一飯を与えてやっただけでもかなりの善行のはずだ。寝る前に干した彼の服ももう乾いているはずだし、何の不都合もないだろう。
しかし彼女はその目を見てしまった。西陽の射すみすぼらしい部屋で、男の灰色の両眼が彼女を見ている。目頭からまっすぐ伸びるやや細めの眉、すっと筋の通った端正な鼻の隆起、引き結ばれた唇は何の表情も浮かべていないはずなのに、彼女はそこに縋られているような気分になってしまう。
数秒の沈黙のあと、彼女は勢いよく立ち上がった。洗面所に向かいながら、つまり男の顔から目を逸らしたまま、できる限り「何も気にしていない」声を出す。
「鍵、置いてくから。出かけるならちゃんと鍵かけてよね」
その日の仕事を終えて帰宅すると、男はちゃんと彼女の部屋にいた。次の日も、その次の日も、次の週になっても、彼は出て行こうとはしなかった。
男は口数が少なく、声もややくぐもってはいたが、受け答えはちゃんとしていた。彼は名をヴェルンと名乗ったが、きっと本名ではないのだろうと彼女は思っている。
ヴェルンはわりとまめなようで、家のあちこちを掃除してくれていた。彼女は片付けが苦手だったので、さぞかし掃除のしがいがあるだろう。失くしたと思っていた靴下の片方やブラジャーのパッドなどが発掘されるのに気恥ずかしさがないわけではないが、ヴェルンが気にしていないようなので彼女も気にしないようにした。
いちおう絨毯があるとはいえ、いつまでも床に寝かせておくのは可哀想だった。ある夜明け、珍しく客に飲まされていい酔い加減で帰宅した彼女は、適当な理屈を並べてヴェルンをベッドに引き摺り込んだ。しかし、引き摺り込んだだけだ。男は自らは彼女の身体に指一本触れず、彼の胸板を枕にして眠る彼女の髪を撫でることさえしなかった。その翌日からは、ふたりは古く小さなベッドで共寝を続けている。
男は自らのことをほとんど語らなかった。ようやっと聞き出したところによると、彼はかつて傭兵のようなことをしていたらしい。神羅に雇われていたのかと聞いたがそうだとも違うとも言わない。傭兵ってことは、あんた武器が使えるの、と訊くと、剣が使えると言う。意外と筋肉のついている身体はそういうわけだったのか、と彼女は得心した。
彼が転がり込んできてからひと月半が経つ。ヴェルンはほとんど外出しないようで、たいていの場合、一日をこの小さな部屋で過ごしていた。あんた、まだ若いんだから少しは外に出なきゃ、と自分より年上なのか下なのかも分からない相手に言うのも何やら可笑しかったが、彼女が何度言っても、おれはいい、と首を横に振るのみだった。ひょっとしたら何か事情があるのかも、と思えばあまり強いるのもよくない気がして、話はそれきりになった。当の本人は飄然として、シャワールームの壁にこびりついた水垢などを落としている。
掃除に勤しむ男はさておき、出勤前の食事を用意するためにキッチンに立った彼女は、何か違和感を覚えて辺りを見渡した。くるくると視線を巡らせて気づく。部屋の隅の天板がずれて、小さな隙間ができているのだ。天井まではさすがに手が届かない。どうしてあんなところの板がずれたのかは分からないが、何しろ場末の安普請だ。そんなこともあるだろう。
「ねえ、ちょっと」
折よく浴室から戻ったヴェルンに、天井を指差して頼む。
「あそこ、板がずれてるの。直しといてくれる?」
男はちらりと視線を飛ばし、無言のまま頷いた。
得体の知れない男を家に飼っていることを、彼女は誰にも話さなかった。そんな話を仕事仲間にしたって変に囃されるだけだし、彼を店に連れて来いだの、逆にこっちが顔を見に行ってやるだの言われても困る。訳アリなのだろうと察してからはなおさらだ。ある時ふと、これはヒモというやつなんじゃないの、と思いもしたが、しかしあの男との生活を気に入り始めていることも彼女には確かなことだった。
昔——まだミッドガルがミッドガルだったころ——一緒に暮らしていた男が消えてからというもの、彼女はずっと孤独だった。安い賃金しか得られないと分かりつつ、夜の酒場から抜け出す術も分からなかった。高いヒールの靴で足を傷め、安っぽいラメの散らばるアイシャドウを瞼に載せて、彼女の語彙では説明できない何かを削られるように働きながら、入れ替わりの激しい仕事仲間たちとは行くあてのない不満と取ってつけたような馬鹿話に終始する。買い込んだ食料の半分は食べる前に駄目になり、鬱憤晴らしに衝動買いした服は自分が着てみるとなんだかちゃちに見える。捨てそびれたごみを跨いでベッドに横たわり、明けてゆく空から逃げるように布団をかぶって、どこか遠くへ行きたい、と思えば最後、ここ以外のどこにも行けない自分は要するに消えてしまいたいのだ、と気づいてしまう。
けれど、男が来てからは違った。彼は何も話さないが、彼女の話を聞いてくれる。彼女の仕事の間に何をしているかは分からなくとも、ごみをまとめ、ベッドを整え、浴室の壁や床を磨き、たまに食事を用意してくれる。彼女が眠るのに合わせて眠ってくれる。ふたりが話をするのは——つまり、彼女の話を男が聞いてくれるのは——たいていの場合、ベッドの上だった。決して彼女に触れようとしない男の胴に乗り上げて、胸を枕にしててんでまとまらない彼女の話を、男は聞いている。
一度だけ、あたしを抱かないの、と訊いたことがある。男は静かに呼吸しながら、抱かない、と端的に応えた。なぜ、とは訊かなかった。セックスの介在しない関係が、彼との場合は正しいような気がしたからだ。
「あのね、」
彼女が話を切り出したのは、男がやって来てから三か月が経とうとしたころだった。どうしてその話をしようと思ったのか、彼女自身にもよく分からない。ただ聞いて欲しかっただけだ。
「あたしね、前に付き合ってたひとがいて」
ヴェルンは相槌も少ない。しかし、彼女の話に耳を傾けている気配がする。
「知ってる? アバランチって」
「聞いたことはある」
「あのひとはね、アバランチの分派だったの」
神羅に敵対していたテロ組織だ。同じ名を掲げていても、いくつかの分派があったことはわりとよく知られている。最も有名なのは、七番街のプレートを落とした分派だろう。彼女のかつての男は、本体でも七番街のアバランチでもなかったが。
「でも急に居なくなっちゃった。ミッドガルが壊れてすぐのころ」
その当時、彼女はウォールマーケットの酒場で働いていた。かつての男ともそこで出会ったのだ。プレート崩落事件からしばらくしてライフストリームが暴走し、ふたりは群衆の一部になって命からがら逃げ出した。のちにエッジと呼ばれるようになる避難キャンプの片隅にようやっと身を落ち着けたというのに、男は不意に姿を消した。彼女は置き去りにされた。
「そのスウェット、あのひとのやつなの」
「そうか」
ヴェルンは相変わらず、眠る時は最初の夜に貸したスウェットの上下を着ている。起きればあの日に着ていたシャツとカーゴパンツに着替えるが、新しい服を買ってあげると何度言っても首を縦に振ろうとはしなかった。
「あのひとのことは、死んだって思うことにしてる」
そうするより他に何が出来ただろう。アバランチの分派を名乗るだけあって血の気が多く、ウォールマーケットをのし歩くごろつき連中と大差ない程度の男ではあったけれど、彼女は確かにあの男のことを好きだった。あの男はヴェルンとは違って彼女を何度も抱いたし、浴室の掃除なんか一度もしたことはなかったが、そんなことはどうでもいいと思えるくらい、彼女は男に惚れていたし、男もまた彼女に愛着を抱いていたはずだ。
けれど男は消えた。世界がひっくり返った混乱のただなかに彼女を置いて、どこかへ行ってしまった。そんなの、死んでしまったのと何が違うだろう。あの男は死んだのだ、と思うことでしか、彼女は前を向くことができなかった。
数秒の沈黙があった。ヴェルンはいつもの通り、何も言わないだろうと彼女は思った。それでいい。慰めて欲しいわけではない。慰められるのは苦手だ、憐れまれているような気がするから。
「さ、もう寝——」
「来るさ」
ヴェルンは繰り返した。来るさ。誰が?
「おまえに会いに来る」
「……あのひとが?」
「ああ」
今までにないことだった。ヴェルンが自ら口を開き、あまつさえ彼女の言葉を遮りさえして、反駁するのは。言葉の内容よりも彼が何かを能動的に話したということの方に唖然とする彼女の頭のてっぺんに向かって、ヴェルンの声が落ちる。
「その男はおまえに会いに来る。おまえを迎えに来る。必ず」
「……なんで言い切れるの」
「さあ」
「訳わかんない」
「そうか」
「なんなのあんた、ほんと意味わかんないんだけど」
「それならそれでいい」
もう寝ろ、と男が言う。薄いカーテン越しに朝の匂いを感じる。惑乱する彼女の背に、不意に触れるものがあった。とん、とん、と一定のリズムを刻むそれは、ヴェルンの手なのだろう。
今日はなんだかすべてがおかしい。あんな話をしてしまったのも、ヴェルンが変なことを言うのも、身体に触れるのも、何もかもが。肩甲骨の間に男の手を感じる。熱くも冷たくもない体温、大きな掌に長い指。
ねえ、どうしてあんなこと言ったの。
ねえ、あのひとの何を知ってるの。
ねえ、なんで今さらあたしに触れるの。
ねえ、あんたはあたしに何を期待させたいの。
彼女の小さな頭蓋を埋め尽くす疑問符のただひとつにも応えぬまま、ヴェルンは静かに呼吸をしている。
眠りから覚めて、彼女は自分が泣きながら眠ってしまったことを知った。瞼が重く腫れぼったい。洗面台の前でため息を吐くと、ヴェルンはやはりのっさりと動いて保冷剤を巻いたタオルを差し出してくれた。
「ありがと」
出勤ギリギリまで冷やせばいくらかマシになるだろう。今日の出勤前の食事もヴェルンが用意してくれるようだった。
何とかごまかせる程度に落ち着いた顔に化粧品を塗りたくって、ヴェルンの作った美味くも不味くもない飯をかき込んで、彼女は玄関の扉を開けた。視界の隅でまた天井の板がずれている。直しといて、と言えば男はこくりと頷いた。
「あたし、明日は休みだから」
「そうか」
「行ってきます」
ヴェルンに行ってらっしゃいと言われたことは一度もない。彼はただ右手をひらりと振るだけだ。
翌日、休日であるのをいいことに、彼女は心ゆくまで眠る腹づもりだった。しかしどうしたわけか、今日に限ってヴェルンに叩き起こされる。時刻は正午を回ったところだ。
「天気がいい。シーツを洗う」
「今日じゃなくたっていいじゃないのぉ……」
こんな安普請では、どのみち洗濯物を外に干すことなどできない。だから洗濯日和も何もあったものではないのだが、ヴェルンはシーツをひっぺがしてしまった。
彼女はそれでも諦め悪く、ベッドの上でだらだらしていた。恨めしい気持ちで窓の外を見れば、なるほど快晴だ。こんなにいい青空を見るのは久しぶりだった。現金なもので、ふっと気分が軽くなる。
ヴェルンは洗濯機にシーツを押し込んでいる。叩き起こされた代わりにといっては何だが、たまには外に誘ってみようか。本人は嫌がるだろうが、何しろいい天気なのだから、買い物に付き合うくらいはしてもらったってばちは当たらない。いつもの通り、ねえ、と話しかけようとした時だった。
こつん、と硬い音がする。窓に小石か何かぶつかったような音だ。風が強いのだろうか、と思うのと同時にまたこつん、と聞こえる。
彼女はベッドの上に座り込んだまま、窓の外を覗いた。白昼の太陽光線の下で、世界が妙に白んで見える。何しろ真昼間の歓楽街だ、辺りを行くひともないらしく、通りはごく静かだった。
またひとつ、こつん、と窓ガラスが鳴る。誰かが外から石を投げているのだ。どこの悪ガキだろう、ひとつがつんと言ってやらなくては、と膝立ちになって窓を開き——彼女は言葉を失った。
彼が——彼女を置き去りにしたあの男が、通りから手を振っていた。子供のように腕を上げて、ぶんぶんと振り回す。彼女の驚愕する顔が見えたのだろう、男が彼女の名前を呼んだ。
「ごめんな、待たせて」
絵本のような晴空の下、白々と時間を止めてしまったような通りには彼の他に誰もいない。空気さえも乾き切って停止してしまって、ついには音さえも失う世界の中で、たったひとり、彼女を呼ぶ男の声だけが聞こえる。
「……ああ、」
彼女の胸に湧き上がったのは、紛うかたなき歓喜だった。ああ、帰ってきた。あのひとが、あたしを迎えに来てくれた。あのひとは死んでなんかいなかった、あたしを迎えに——
ぼしゅっ。
舞台の書割のような世界に、不意に奇妙な音が飛び込んだ。炭酸飲料の栓を開けたような、それにしては重過ぎる音。虚を突かれた彼女の網膜に、崩れ落ちる男の姿が映る。彼女を迎えに来た男が、糸の切れた操り人形のように後ろざまに倒れる。何かが彼の背から噴き出す。どさ、と重い音。彼を中心に広がる液体の色が分からない、世界があまりに白すぎて。ねえ、どうしたの、ねえ、あのひとはどうして急に、あれはなに、あのひとの背中から飛び出したあれは。
ぎしっ、と床が軋んだ。安普請の狭い部屋は、床のどこをどう踏んでも音が鳴る。彼女は自失したまま、引っ張られるように自分の背後を振り返った。青白い煙が視界を掠める。煙草の煙とは違う、もっと火薬のにおいが強いその薄幕の向こうに、もうひとりの男が立っていた。
「天井の板は」
彼の声は、この三か月で聴き慣れたのと同じ、深く静かだった。少し喉にこもるような声。陰影の際立つ眼窩に埋め込まれた瞳が彼女を見ている。
「直しておいた」
男は右手に提げていた何かをふたつに分解すると、カーゴパンツの左右のポケットにそれぞれ突っ込んだ。そうして灰色の瞳で彼女を一瞥し、背を向けて部屋を出て行った。
そのあとのことはよく分からない。何分か、あるいは何時間か経ってから不意に我に帰った彼女は窓の外に身を乗り出したが、その時にはもう男の身体はそこにはなかった。警察官が数人、男が倒れていたあたりに綱を張って何かを調べていたが、着の身着のまま駆け降りた彼女に向かって「家の目の前で自殺なんて、あんたも迷惑したね」と言う。彼女は、ちがう、と繰り返したが、警察官たちは聞き入れぬまま気のない現場検証を終えて撤収した。
もうひとりの男の痕跡も、この部屋のどこにも残っていなかった。三か月をここで暮らしていたはずの男は髪のひとすじも残さず、あのスウェットの上下さえもどこかへ消えていた。あるいは、洗濯機の中で湿ったままのシーツが彼の残した唯一のものかもしれない。ヴェルンと名乗ったあの男もまた、彼女の世界から消えた。恐らくは永久に。
彼女はそれから十日ほどを茫然と過ごした。ある日の昼下がりに玄関の扉が開き、踏み込んだのは酒場のオーナーだった。彼は無断欠勤をひとしきり詰ったあと、玄関に鍵もかけねえでどうしちまったんだ、と少しだけ案ずるような声を出した。彼女は何も言えなかったが、オーナーは彼女の状態を「自殺者を見てしまったショックによるもの」と勝手に判断したらしい。
ほどなくして、彼女は酒場の仕事に復帰した。そうしなくてはならないと思ったからだ。従業員のひとりが訳知り顔で話すことには、「彼女の家の目の前で拳銃自殺した男」は反神羅テロリストの残党であり、彼はあの日、ヒーリンロッジで非公式に会談することになっていた元神羅社長のルーファウス・神羅ならびに世界再生機構局長のリーブ・トゥエスティを狙い、時限爆弾を仕掛けたのだという。計画通りに作動していれば、確かにルーファウスもリーブも命を落としていたほど強力なものだった。しかしながら、その企みはルーファウスの私兵であるタークスという特殊工作部隊の手によって未然に防がれた。テロリストは己の失敗を知り悲観して自殺に及んだ、というのが警察当局の発表だそうだ。
彼女は何も言わなかった。「自殺したテロリスト」の死因が自殺ではないと知っていたはずだったが、それを誰に訴えればいいのかも分からなかった。死んだ男は彼女を迎えに来たと言った。彼の振った手の動きを覚えている。彼女の名を呼んだ声の明るさも。きっと彼は、本当に彼女を迎えに来たのだ。反神羅テロリストとして、神羅の元幹部たちを一掃するつもりで爆弾を仕掛け、捜査の手が及ぶ前に逃げようとしたのだ——彼女を連れて。
そうしてまた変わり映えのない日々を重ねてゆくうちに、彼女は何もかもを諦めた。覚えていたいことだけを思い出し、都合のいいことだけ信じることにした。得体の知れない男を拾ったこと。三か月を共に過ごし、いなくなってしまった男。彼女の背を叩く掌。
彼女がその男を拾ったのは、本当にただの偶然だと、彼女は信じている。
<蛇足>