ミヒャエルは努めて落ち着いた態度を保ったまま、通路の隅に身を寄せた。無論、他の通行人の邪魔にならぬため、それから、道に迷っていることを彼らに悟られぬためである。
 さほど混雑しているわけでもない通路で、さまざまな声や物音がいびつに反響している。チューバがあってよかった、とミヒャエルは思う。天に向かって大きく開いたベルは、少年のわずかに憔悴した顔を上手い具合に隠してくれるはずだ。

 ロドスの母艦を訪れるのはこれが二度目だ。特別派遣契約の締結のために足を踏み入れたのは、グリムマハトが「声を失って」から間もなくのことだった。その際に「ドクター」と呼ばれる人物を筆頭に何人もの職員と顔合わせをした。彼ら彼女らの顔と名前ならばはっきりと記憶している——リターニアの双塔において生き延びるため、何よりも黒の女帝を失望させぬために、数多の人物を適切に識別するのは必須能力のひとつだったからだ。
 とはいえ、たった一度、数日の滞在で、この巨大な方舟の乗組員のすべてを把握できるわけがなかった。二度目の乗船となる今回は、本来ならばオリエンテーションの名目でロドス内部の理解を深めるのが目的だったはずなのだが、その予定は早々に破算となっている。
「ベースライン、よく来てくれた」
 乗艦手続きを済ませ挨拶に顔を出した執務室にて、便宜上名乗ることにしたコードネームでミヒャエルを呼んだドクターは、どの角度からでも見通せないフェイスガード越しに、どうやら申し訳なさそうな顔をしているらしかった。
「すまないが、予定を変更させてもらえないだろうか」
「構いません」
 他にどう答えることができるだろう。ミヒャエルは左脚に預けていたチューバを抱え直した。
「何でもお申し付けください」
 端的なことばに、ドクターの隣に控えていたオペレーター——気難しい顔をした銀髪のヴイーヴルだ——がわずかに眉間の皺を深める。それと同じ表情を、ミヒャエルはいままでに何度も見ていた。どうやら、自分のような幼い見目のものがこのように規律正しくふるまうようすは、時に痛々しく思われるようなのだ。彼らにもミヒャエル自身にも後ろ暗いことなど何もないというのに。
 そうした視線には慣れたものだが、だからといって居心地の悪さがなくなるわけでもない。憐れみというのはたいていの場合は侮辱の同義語であり、向けられるものにとっては不愉快なものなのだ。ミヒャエルは内心でグリムマハトの名を呼ぶ。ささくれたこころが凪ぐ。彼女がミヒャエルを侮ることなど一度としてなかった。
 ドクターはミヒャエルに、否ロドス重装オペレーターのベースラインに初めての任務を与えた。本日午後三時半ごろ付近を通過するトランスポーターと合流しカジミエーシュに向かうこと。現地のロドス支局に所定の物資などを受け渡し、いくつかの情報媒体を受領して帰還すること。
「ぼくひとりでしょうか?」
 ミヒャエルの問いに、ドクターは首を振った。
「まさか、きみをひとりで向かわせるわけにはいかないさ。まだ研修期間なのだし」
「はあ」
 いささか間の抜けた声が出た。研修期間というものがあるとは初耳だ。あってもおかしくはないが。
「パートナー……この場合は研修担当の先輩といった方がいいかな、彼は運搬する物資を確認しているところだよ。心配しなくていい」
 ループスの少年を安心させようとしているらしいドクターの横で、例のヴイーヴルがあからさまにため息を吐く。思わずそちらに視線を動かしたミヒャエルに、彼女は厳格な顔つきのまま——グリムマハトとの違いを明確にするならば、厳格というより単に不機嫌と述べた方がいいだろうか——口を開いた。
「ベースライン、と言ったか」
「はい、そのようにお呼びください」
「……苦労をかける」
 私は反対したのだが、と絞り出すようなその声を聞いて、このヴイーヴルがミヒャエルを憐んでいる理由がどうやら他にあるのかもしれない、と思った。



 そのヴイーヴル、サリアと名乗るオペレーターは親切にも、くだんの「先輩オペレーター」が作業をしている倉庫への案内を申し出てくれた。しかし、その後ろで内部通信がひっきりなしに着信を告げている。ドクターがピックアップしたが、また別のアラームだ。ミヒャエルは申し出を丁寧に辞退し、おおまかな方角だけを教えてもらった。
「道に迷ったらその辺りの連中に訊け」
「そうさせていただきます」
「それと、」
 サリアは一瞬口ごもり、それから「あまり気安く『何でも』などと言わない方がいい」と重々しく忠告した。
「面倒を背負い込む趣味があるのなら止めないが」
「……面倒ごとには慣れています。ですが、趣味というわけでもありません。ご忠告に感謝します」
 では、と一礼して部屋を退出し、サリアの示した方角に歩き出し——今に至るというわけだ。
 床には区画を示すらしい記号が塗装されている。ここまでは合っている。この次に右折するはずなのだが、しかし右は障壁で塞がれており、道が見当たらないのだ。次の区画まで進むべきか、あるいはひとつ前の区画に戻るべきか。トランスポーターとの合流予定時刻まではまだ猶予があるが、そもそもツヴィリングトゥルムからほとんど出たことのないミヒャエルには移動都市の外の地理感がなく、移動の所要時間の算定もできない。なるべく早くパートナーと合流しなくてはならないのだ。
 次に目の前を通るひとに、倉庫への行き方を教えてもらおう。そう決めて顔を上げた瞬間、横あいから声がかけられた。
「おっ、迷子かァ?」
「……はっ?」
 誰もいない——誰も。先ほどまで行き交っていたひとびとの流れも途絶え、通路に立っているのはミヒャエルだけ、のはずだ。少年は思わず左右を見回す。声は確かに聞こえた、オーボエのように皮肉げな語尾の、しかし明るいトーンの声が。
「ここだここ、おーい」
「だっ、誰ですかっ」
「あーあー違う違う、こっちだって」
「なんなんです!?」
 おちょくられていることに気づいて、ミヒャエルは声を荒げた。といってもまだ変声しきっていない幼さに罪悪感を覚えたか、はたまた金管楽器でぶん殴られるのをよしとしなかったか、姿なき声の主は数歩の距離を空けてミヒャエルの正面に現れた。ステルスモジュールが機能を停止するのと同じような調子で、じわりと滲むように何者が輪郭を固める。
「わーるかったって、そんな怒んなよ」
「おこ、怒っては……」
「いやおまえ、今は怒っていいとこだぜ」
「……では怒っています」
「そんな怒んなって」
 履歴書の特技の欄を修正すべきかもしれない。ミヒャエルは肩をがくりと落とし、それでもチューバは取り落とさぬようにしながら、目の前でヨーヨーを垂らすサヴラを見つめた。
「俺はイーサン、特殊オペレーターだ。ご機嫌麗しゅう」
「……はじめまして、ぼくはベースラインと申します。重装オペレーターです」
 イーサンの差し出した手を握り返して——彼はわざわざグローブを脱ぎさえしたのだ——ミヒャエルはその不思議な感触にほんのわずかの間だけ意識を奪われた。サヴラの肌は乾いているのに吸いつくような湿度を感じる。ミヒャエルよりもいくらか体温が低いようだ。身長はそう変わらないが、歳はそれなりに上だろう。
「で、ベースラインくんは迷子か?」
「……その通りです」
「だよなァ、さっきっからあっちこっちキョロキョロしてたもんな、典型的な迷子だぜ」
 ミヒャエルは少しだけ身を縮こめた。そこまであからさまに態度に出ていたろうか。慣れない場所でもできるだけ堂々と振る舞うように、内心臆していることを悟られれば隙を突かれるから。そう何度も聞かされていたのに。ああグリムマハト、ぼくはまだ修練が足りないようです。
「ま、そんな落ち込むなよ。俺は他の連中よりちょっとばかし目端が効くだけさ」
「そう……ですか」
「そうそう、そう思っとけって。で? 迷子のベースラインくんはどこに行きてえんだ?」
 迷子迷子と繰り返されるのは少々癪だが、目的地に辿り着けていないことは事実だ。ミヒャエルはサリアから教えられた呪文を正しく詠唱した。
「B2フロア、第4番区画7ブロック、5番倉庫を探しています」
「よんななご、な。着いてきな」
 イーサンはこくりと頷くと、ミヒャエルが立ち尽くしていた四つ辻を迷うことなく左折する。いまだに右の曲がれない角に気を取られていたループスは、サヴラの尾を追うのが一拍遅れた。
「あの、イーサンさん」
「呼び捨てでいいぜえ」
「……イーサン、僕はさきほどの角を右折と聞いていたのですが」
「ん? 右になんか曲がれねえだろ」
「だから困っていたんです、サリアさんからそう教えていただいたので……」
「あ? サリア?」
 しゃらしゃらと軽快なホイール音を立てて回転していたヨーヨーが止まった(いつか誰かにぶつけてしまうのではないかと危惧していたミヒャエルはほっとした)。イーサンの大きな瞳が振り返る。
「あの姉ちゃんが右に曲がれって言ったのか?」
「はい、あの、お忙しそうでしたから」
 なんとなくイーサンがサリアを咎めているような気がして、ミヒャエルは慌てて言い添えた。そう、ドクターもサリアも忙しそうだった。右と左を混同してしまっても、それくらい仕方ないことだ。ひとは過ちを犯すものなのだし。
 しかしイーサンは、ははあ、とどこか愉快げな声を上げた。
「なーるほど、じゃああの話はまだドクターのとこまで届いてないってわけだ」
「あの話とは?」
「射撃訓練所が今朝がた吹っ飛んでな——ま、よくある話だ」
「吹き飛んだ?」
 訓練施設が? それはおおごとではないのか? 
 ロドスに不慣れな少年の疑問符を置き去りに、世慣れたサヴラは再び歩き始める。
「あそこは使ってる火薬の量も段違いだからなァ、片付けが終わるまでは一時閉鎖してんだ」
「そんな事故が管理者に報告されていないんですか?」
「管理者? レンジャーの爺さんには真っ先に報告してあるだろうよ、だから障壁が降りてんだ。まあ問題ないさ」
 少なくとも俺とおまえが気にするようなことじゃない、だろ? 平然とした顔のイーサンは、またあの大きな瞳だけでミヒャエルを振り返り、ここ、と指を伸ばした。
「ここですか? ありが——」
「腹が減ったらここを覗くといい」
「は?」
「おやつネットワークの主がよくここにいる」
「おや……は?」
「それからこっち」
「あの、」
「ガチャポンって知ってるか、少年?」
「いえその、イーサン?」
「なァんかおまえ育ちよさそうだよな、ガチャポンなんか見たことねえか」
「いや、ガチャポンはわかりますが」
 観光客には驚かれるが、ツヴィリングトゥルムにもガチャポンはある。球の中身はミニチュアの楽器が定番だ。探せばそれなりに精巧な見た目のものが——いや、そういう話をしている場合ではないのだ。
「イーサン、ご案内ありがとうございます、ですがぼくは急いでいて」
「おっ、そうか。まあ倉庫なんかに行くんだもんな、任務か?」
「そうです」
 任務の内容を開示してもいいものか迷ったが、幸いイーサンの興味はそそられないらしい。彼はひょいと肩をすくめると、それじゃこっちだ、と歩調を早めたのだった。



「ここな、B2-4-7-5倉庫」
「ありがとうございます」
 いかにも倉庫らしく無愛想な扉の前で、ミヒャエルは腰を折って丁寧にお辞儀をする。よせよ肩っ苦しい、とやっぱりオーボエのような声を出すイーサンに見守られながら、セキュリティパネルに臨時IDカードをかざした——のだが、返ってきたのは「入室権限がありません」というにべもない合成音声だった。
「あれ、おかしいな」
 一般オペレーターと同様の権限が付与されているはずなのだが、二度目の試行もあえなく失敗に終わる。ばつの悪い思いで振り返ると、サヴラの手が彼のIDカードを差し出した。
「すみません」
「よくあんだよ、気にすんな」
 軽快な電子音から半拍遅れてドアロックが外れる。そのまま、ミヒャエルの存在に反応した自動ドアがなめらかにスライドした。
「失礼します——」
 ここに至ってようやく、ミヒャエルは今日の相方たるオペレーターのコードネームを聞き忘れていたことに思い至った。本当はサリアから道案内を受けたときに尋ねようと思っていたのだが内線通知が鳴ってしまったから、いや、つまるところミヒャエルも緊張していたのだ。小さな失態が妙な重さでもって胸にのしかかる。
 倉庫には大小さまざまな運搬用ケースが積み上げられていた。照明は奥の方だけ点灯していて、そちらからがたがたと断続的に物音が聞こえる。まだ作業が終わっていないのなら手伝わなくては。
 小走りになるミヒャエルをかばうようにして、イーサンが歩き出した。相変わらず悠々としたというべきかダラダラしたというべきか、そんな足取りで灯りの下に向かって歩いてゆく。
「おーい、これから外勤に出る誰かさんよ、あんたの相方のお出ましだぜ」
「——聞こえています、すみませんが手が離せる状況ではなく」
 その声に、ミヒャエルの記憶野がぶわりと活性化した。リターニア人の例に漏れず聡い耳は、グリムマハトの広い歩幅に追いつくためにさらに鍛えられたのだ。ミヒャエルが一度聞いた声を忘れることはない。つまり、
「おいおいあんたか、新人さんも災難だなァ」
「オペレーター・イーサン、ただいまの発言について解説を要求します」
 最低限の灯りの下、大きな輸送ボックスを抱えたプラチナブロンドの天使がこちらを見た。美しい弧を描く眉が左だけ軽くスタッカートする。
「あなたは——」
 執行人、フェデリコ・ジアロ。
 サリアの苦々しい顔が、「苦労をかける」「私は反対した」という言葉とともに脳裏を駆け抜ける。あの時点では実に不可解な言動ではあったが、この男を眼前にすれば得心がゆく。つまりこの任務はミヒャエルが憐れまれるに足る理由だったとすれば、実に得心のゆくものだった。ならばサリアは本当に、なんというか、親切なひとなのだろう。少しわかりづらいだけで。
 災難だ、とイーサンは言った。つまるところフェデリコはロドスにおいてもフェデリコということであり、ミヒャエルを存分に振り回してくれた彼の振る舞いが、決してアルトリア・ジアロに関する場合に限定されたわけではないということの証左である。
 当の本人はミヒャエルの全身をスキャンするように眺め、それで何かを納得したらしい。再びイーサンに向き直ると、先だっての問いを繰り返した。
「私の質問に対する回答が得られていません、オペレーター・イーサン」
「あーあー、なんでもねえよ! 忘れろ!」
「忘却は強いられて発生する行為ではありません。むしろ、強制されることによって事象の認識は強固となり」
「勘弁してくれ!」
 ひとのいいサヴラは小さく跳び上がると、次の瞬間には姿を消していた。じゃあな新入り、胃薬持ってけよ! と言い残した声は、ドップラー効果さえ生ずるほど素早く遠ざかってゆく。
「……行ってしまった……」
「いつも疑問に思うのですが」
 どかり、とずいぶん重い音を立ててフェデリコが輸送ボックスを下ろす。もしかしなくてもあの箱、ミヒャエルと同じくらいの目方があるのではなかろうか。
「彼が姿を消すとき、身体だけでなく衣類やアクセサリーなども視認できなくなるのはどういう理屈なのでしょう。彼の能力は一種のステルスに近い機能と考えられますが、であれば衣類なども本体に同調してステルス化する仕様ということでしょうか。であれば一般的な繊維製品とは異なる素材を用いていることになりますが、ステルス機能を搭載した繊維製品は決して安価ではありません」
「……」
 聖徒の称号を関する男は、今日もあの物々しい服装だ。作業がしづらかろうに、垂れたストラを煩わしそうにもせずに別の箱を開けて中身を改めている。ミヒャエルは彼の疑問に耳を傾けることをやめて、邪魔にならない場所に愛用のチューバをそっと置いた。
「執行人さん」
「私がラテラーノ公証人役場に所属する法定執行人であることは事実ですが、本日の任務においてはロドスのオペレーターとして行動することを要請されています」
「ぼくもです」
「そうですか、ではミヒャエルさんとお呼びするべきではありませんね」
 彼は輸送ボックスの中身に満足したらしい。蓋にロックをかけ、ミヒャエルを正面から見た。黒曜石のように硬質な翼が、倉庫の照明の安っぽい光を鈍く反射する。
「イグゼキュターとお呼びください」
「ぼくのことは、ベースラインと」
「なるほど」
 まだ名乗り慣れないコードネームに、しかし彼——イグゼキュターは微かに笑った。ほんのわずかに持ち上がった口角に気づけたのは黒の女帝の教育の賜物であり決してイグゼキュターのためではなかったが、しかしこの微差を認識する能力ゆえに己が「イグゼキュター担当」と呼ばれてしまう近未来のことなど、さすがのミヒャエルことベースラインにも予見できなかったのである。いや、本当は予見できていた。ただ認めたくなかっただけで。