『チ。――地球の運動について――』を一気に読み物語に打ちのめされているのですが、5巻末に魯迅の「墨寫的謊言掩蓋不了血寫的事實」(墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない)が引用されており、「シドルファス・デム・ブナンザーーーー!!!!」ってなりました。
大灯台イベント、自ら父の下から逃げ出してバルフレアという新たな己を手に入れどこまでも行ける、行ってやる、と思っていた、というよりそのような自分になれたと信じたかったファムランが、結局のところシドに「逃げ切ってみせんか」と言われるまでどこにも行けていなかった、という感じがしてとても好きです。ただこの方向の妄想、私が強く憎むところの家父長制というかパターナリズムの称揚に一旦重なるので(そのあとの「バルフレア」の物語までちゃんと書かないとパターナリズムから離脱できない)わりとしんどいです。という理由で書き進められないブナンザ父子の短編。
プラトンの『パイドロス』読み返してたんだけど、イデア論というか、イデアを観る者の狂気に触れるくだりを読んで「これシドルファス・デム・ブナンザじゃん……」て思った。洞窟の中で壁に向かって真なるものの影のみを見つめる人々の中、わずかに振り向くことができた者は狂気の烙印を避けられない……。
「しかり、人がこの世の美を見て真実の美を想起し、翼がはえ、翔け上がろうとして羽ばたきはするが、それが果たせず、鳥のように上方を眺めやって下界のことをなおざりにするとき、狂気であるとの非難を受けるのだから」この真実の美を追う狂気をプラトンが恋(エロース)に繋げるくだり。
洞窟の比喩で言えば、ネスは真実在の世界、洞窟の反対側から敢えて壁の前に姿を現した「堕ちたイデア」であり、シドはそれによって戒めを解かれ振り向くことにした(が出来た、というよりもそう決めた)人であり、では閣下は……閣下はシドネスに引かれて振り返ったとするのが妥当だろうけど、閣下はシドが振り返るより前から洞窟の入り口を見ていたのかもと考えたくなるな。彼は誰に促されるでもなく自ら振り返ったのだけど、それは壁に映るイデアの影があまりに空虚で醜悪だった――元老院の陰謀によって兄殺しを強いられたのだとして――ため、とか。だとしたら、閣下は「世界とはより正しくより美しくより善いものであるはずなのに、なぜそうなっていないのか。今己が見ているものは本当の世界ではないのではないか」と考えた末に振り返ったことになり、極めて性善説的というか、楽観的理想主義というか、おお、なんか急に腑に落ちたぞ。自分だけ。
シドと閣下が友誼を結んだのは長兄次兄の処刑から5年後、閣下21歳の時か。シドとネスがどうして閣下を選んだのかはいろいろと妄想の余地があるところだけど、シドはもともとネスとふたりで進めるつもりだったが閣下が自力で振り返ったことを知っていたネスがレコメンした、とか面白いなあ。