次は何を書こうかな〜考え中。オムライスでも作らせるか。
詩が足りないな、と思ったので家中の詩集歌集をかき集めてぺらぺらしています。
自由律俳句が好きでして、中でも尾崎放哉が好きなんですが、彼の句に「なんにもない机の引き出しを開けて見る」というのがありまして、この句を読むたびに推したちのことを考えます。
哀しみに直面し、受け容れ、乗り越えてゆく推しの姿はとても素晴らしいものなのですが、それはそれとして、哀しみを哀しみのまま置いておいて、時に立ち返って哀しみを抱き締める、という時だって、きっと推したちの人生にはあったはず……という胡乱な幻覚。
哀しみを置いてあるのは放哉みたいに机の引き出しかもしれないし、小さな箱かもしれないし、箪笥かもしれないし、あるいは部屋かもしれない。
でも哀しみというやつは半減期が短くて、少しずつでも確かに時間に奪われてしまって、取り出して抱き締めるたびごとにだんだん、何が哀しかったのか、どうして哀しかったのか、哀しいってどんな感情だったのか、わからなくなってしまうんですよね。
そうしていつか、何もない引き出しや箱や部屋を開ける日が来る。本当はもう、蓋や扉を開ける前から中が空っぽだってことはわかってるけど、それでも開けて、やっぱりもう何もない、哀しみの残り香さえない、ということを噛み締める人の背中をね、見たいんだ、おれは……。
哀しみそれ自体を愛でるには遅すぎる、しかし再び立ち上がって(机の引き出しをきちんと閉めて)歩き出すにはまだ早すぎる、そういう空虚な端境期にある推し、とてもよいと思います。よいと思いますじゃないが。
どうでもいいけど、自由律俳句のひとたちは名前もなんかちょっと破調してる感じがして一貫性があるなと思いますね。碧梧桐とか井泉水とか山頭火とか一碧楼とか。自由律短歌のひとたちはそうでもないんだよな。放哉も「放哉」でいいのか、とか思ったんかな。なんかもう一音節足した方がいいんじゃないかみたいな。